白いシャツの少年 【恋に焦がれて鳴く蝉よりも・番外編】
――眼鏡が、ない。


 そのことに千沙が気付いたのは、侑久
と共に警官に絞られ、痛む足を引きずり
ながら帰宅し、入浴を終えた後だった。

 元々、視力が悪いわけではない。

 裸眼で1・5もあるのだから眼鏡をかけ
る必要もなければ、困ることもなかった。
 だから、すぐにあの“だて眼鏡”がない
ことに、気付かなかったのだけど……。

 それでも、ないなら仕方ないとすっぱ
り割り切ることも出来なかった。

 あの眼鏡は千沙のお堅いイメージを保持
するための必須アイテムなのだ。だから、
鏡の中に映り込む自分の顔がいつもより
柔らかく、そして少々締まりがないこと
に、千沙は気分を落ち着かなくさせていた。

 「予備の眼鏡を買っとくべきだったな」

 翌日。
 そんなことをボヤきながらも出勤する
と、案の定、千沙の素顔を目にした生徒
たちは、ざわめき立った。いつものように、
前髪を七三分けにして額を露わにするのも
心許なく、おろした前髪をさらりと流し、
黒のセルフフレームの眼鏡を外した堅物と
呼ばれる教師。しかも、

 「こっちの方が断然いいよぉ~」

 そうはしゃぎながら、メイク道具を手に
智花が余計なことをしてくれたものだから、
今日の千沙は「ほんのりナチュラルメイク
のお姉さま」仕様になっている。

 そしてなぜか、右足には痛々しい湿布。

 その足をやや引きずるようにして廊下を
歩けば、「先生、イメチェンですか!?」
と男子が冷やかしてくるし、教壇に立て
ば、「もしかして、転んで眼鏡壊しちゃっ
たんですか?」と鋭い突っ込みを女子が
入れてくる。

 そんなわけで、朝から好奇の眼差しと、
遠慮のない好奇心に晒されていた千沙は、
終礼が鳴るころにはどっぷりと疲れきっ
てしまった。だから、なかば逃げるよう
にして歴史資料室のドアを開けたのだった。

 「まったく、智花が余計なことをしてく
れるから……」

 ぶつぶつと呟きながら、ばさりと持って
きた通知表をガラスのショーケースに載
せる。明日の終業式に渡す通知表の仕上
げを、御堂に任されているのだ。御堂が
シールに印刷した各生徒の活動の様子を
1枚ずつ枠に貼り、教員欄に印鑑を押さ
なければならなかった。

 ふぅ、と息をついて素顔の目元に触れる。

 昼休みに、昇降口の転んだ辺りを探して
みたが、眼鏡はどこにもなかった。
 もしかしたら誰かが拾って事務室に届け
てくれたのかも知れない。そう思い事務室
を訪ねてみたが、そこにもなかった。

 仕方ない。これを機に、UVカットや
ブルーライトカット機能がついた正真正銘
のだて眼鏡を、眼鏡屋で買おう。

 そんなことを考えながら、ぼんやりと
窓の外を眺めていた時だった。


――コンコン。


 開け放たれたままのドアをノックする
音がして、千沙はそこに立つ人物の顔を
思い浮かべながら振り返った。
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