白いシャツの少年 【恋に焦がれて鳴く蝉よりも・番外編】
――わざとだ。
そう直感すれば、ふつふつと込み上
げてくる怒りに、震えが止まらない。
「こんなことをして、何の得がある
と言うんです!?」
誰かに対して、こんなにも怒りを感
じたことがあっただろうか?
そう思うほど、千沙の頭には血が上
っていて声を荒げてしまう。けれどそ
んな千沙とは対照的に御堂はあまりに
も冷静で、臆する様子もなく肩を竦めた。
「得も何も……僕はただ、カーテンを
這っていた蜘蛛があなたの肩に乗り移ろ
うとしていたので、それを追い払っただ
けですが」
「……蜘蛛?」
俄かには信じがたく、千沙は眉を寄せ
てカーテンを見やる。が、もちろん、
そこには蜘蛛など存在しない。
――真実か否か。
それは御堂にしか、わからない。
「ご安心を。夜の蜘蛛は『盗人が来る』
という謂れがあるので、僕が追い払って
おきました。大事なあなたが『誰か』に
盗まれでもしたら大変ですから」
そう言って、ほくそ笑んだ御堂に千沙
はぞくりと肩を震わせる。
彼の言う蜘蛛とは、侑久のことなのだ。
そう理解すれば、やはり、カーテンに
蜘蛛などいなかったのだと思わざるを
得ない。
顔を強張らせ、口を噤んでしまった
千沙に、御堂は胸ポケットから眼鏡を
取り出す。そしてテンプル部分を持ち、
千沙の耳へ掛けると、そっと耳元に口
を寄せた。
「早く、失恋してしまいなさい」
聞こえてきた声は地を這うように
低く、暗く。千沙は一生忘れることが
出来ないだろうと思ったのだった。
「……ただいま」
まだ痛む右足を引きずりながら帰宅す
ると、玄関には智花の黒いローファー
があった。
それを見て、千沙は海の底よりも深い
ため息を吐く。夕食の食卓で、風呂上が
りのリビングで、そして朝の食卓で。
当たり前だが、智花とは一日に何度も
顔を合わせなければならない。
けれど今はそれが憂鬱で仕方なかった。
あんな場面を、しかも侑久と共に見ら
れてしまったのだ。
何食わぬ顔をして「勉強は捗ってるか」
などと話しかけられるほど、千沙は図太
くもなければ、恥知らずでもない。
だから「胃が痛むから夕食は要らない」
と、キッチンでコロッケを揚げていた
母親に告げると、千沙は逃げるように
自室に駆け込んだのだった。
部屋着に着替え、眼鏡を外し、どさり
とベッドに倒れ込む。暖房がついてい
ない部屋のベッドはひんやりとしてい
て、沸騰していた頭がしだいに冷やさ
れてゆく。
あの後、眼鏡を返した御堂はさっさと
資料室を出て行ってしまった。千沙は
呆けたまま、しばらくその場に立ち尽
くしていたから、御堂とはそれきりだ。
そう直感すれば、ふつふつと込み上
げてくる怒りに、震えが止まらない。
「こんなことをして、何の得がある
と言うんです!?」
誰かに対して、こんなにも怒りを感
じたことがあっただろうか?
そう思うほど、千沙の頭には血が上
っていて声を荒げてしまう。けれどそ
んな千沙とは対照的に御堂はあまりに
も冷静で、臆する様子もなく肩を竦めた。
「得も何も……僕はただ、カーテンを
這っていた蜘蛛があなたの肩に乗り移ろ
うとしていたので、それを追い払っただ
けですが」
「……蜘蛛?」
俄かには信じがたく、千沙は眉を寄せ
てカーテンを見やる。が、もちろん、
そこには蜘蛛など存在しない。
――真実か否か。
それは御堂にしか、わからない。
「ご安心を。夜の蜘蛛は『盗人が来る』
という謂れがあるので、僕が追い払って
おきました。大事なあなたが『誰か』に
盗まれでもしたら大変ですから」
そう言って、ほくそ笑んだ御堂に千沙
はぞくりと肩を震わせる。
彼の言う蜘蛛とは、侑久のことなのだ。
そう理解すれば、やはり、カーテンに
蜘蛛などいなかったのだと思わざるを
得ない。
顔を強張らせ、口を噤んでしまった
千沙に、御堂は胸ポケットから眼鏡を
取り出す。そしてテンプル部分を持ち、
千沙の耳へ掛けると、そっと耳元に口
を寄せた。
「早く、失恋してしまいなさい」
聞こえてきた声は地を這うように
低く、暗く。千沙は一生忘れることが
出来ないだろうと思ったのだった。
「……ただいま」
まだ痛む右足を引きずりながら帰宅す
ると、玄関には智花の黒いローファー
があった。
それを見て、千沙は海の底よりも深い
ため息を吐く。夕食の食卓で、風呂上が
りのリビングで、そして朝の食卓で。
当たり前だが、智花とは一日に何度も
顔を合わせなければならない。
けれど今はそれが憂鬱で仕方なかった。
あんな場面を、しかも侑久と共に見ら
れてしまったのだ。
何食わぬ顔をして「勉強は捗ってるか」
などと話しかけられるほど、千沙は図太
くもなければ、恥知らずでもない。
だから「胃が痛むから夕食は要らない」
と、キッチンでコロッケを揚げていた
母親に告げると、千沙は逃げるように
自室に駆け込んだのだった。
部屋着に着替え、眼鏡を外し、どさり
とベッドに倒れ込む。暖房がついてい
ない部屋のベッドはひんやりとしてい
て、沸騰していた頭がしだいに冷やさ
れてゆく。
あの後、眼鏡を返した御堂はさっさと
資料室を出て行ってしまった。千沙は
呆けたまま、しばらくその場に立ち尽
くしていたから、御堂とはそれきりだ。