雪山での一夜から始まるような、始まらないようなお話。
「私、帰るわ」
 
 荷物を取り上げ、お金を置く。

「なんでだ?」

 驚いた顔の進藤。吉井さんは可愛らしく首を傾げた。

「集中できないし、私がいなくてもよさそうだから」
「ごめんなさい。うるさかったですか?」
「んー、というか、いくら解説してもらっても、まず基本的な語句の定義や論証を覚えてないとなんにもならないと思うけど? それに、今のところ、進藤は自分のことはなにもできてないよね? まぁ、本人がいいならいいけど」
「ご、ごめんなさい……」

 おろおろと進藤と私の顔を見て謝る吉井さんに、進藤が私をたしなめる。

「安住、言い方! ごめんな、吉井さん、こいつ、言い方を知らなくて。民法の問題は論証例や語句の定義を覚えないと論文が書けないから、まずは暗記しろってことを言いたいんだ」
「進藤さんって、やっぱり優しいですね」

 うっとりと進藤を見つめる吉井さんはすっかり恋する乙女の顔をしている。
 
 そう、進藤は優しい。顔も良くて、頭も良くて、愛想も良くて、性格もいい。勝手にライバル視していたけど、本当は私が敵うわけがない。そんな進藤に似合うのはきっとこんな子ね。

「とにかく私はお邪魔みたいだから、帰るわ。じゃあね」
「夏希!」

 進藤の引き留める声に振り返らず、私はそこを逃げるように立ち去った。

 こんなにイライラするのは、きっと進藤になにもかも敵わないと思い知ったからだ。
 吉井さんに勝てる要素もない。いや、勝つ必要はないんだけど。

 なにも考えたくなくて、帰ってからも、せっせと勉強を続けた。
 やっぱりひとりがいい。




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