愛しのフェイクディスタンス



「え、えーっと、オシャレでいい感じのお店に癒されたい的な?」

 言いながら正直覚えていない。なぜなら、あの店に入るよりも前に既に優奈の体内には存分にアルコールが摂取されていたからで。

「ビルの上階にあるし、女性一人では入り辛いと思う。お前シラフでは入ってないんだろう?」
「え」
「飲み方もショットバーやスポーツバーじゃないんだから、それこそマナーは守らないといけないな」
「……はい」
「ああ、気にしなくていい。あの店は仕事で使うこともあるからマスターとは懇意にしてるんだ。謝罪もしたし、今度からは俺と行こうな」

 ついさっき自分の口から偉そうにマナーだ何だと言っておいて、このザマ。
 優奈は飲んだくれていた己の行動に今更ながら酷く後悔する。

「それと、な。気にしなくていいと伝えた手前言いにくいが。俺のコートも実はもう使い物にならないし」
「うそ! 私が吐いたから!?」
「倒れた拍子に店のアンティークも落として……、これがまた、そこそこの値がついてる物だったな」
「待って待って、嘘……」

 次から次へと。
 一体自分はあの夜に、どれだけの借りを作ってしまったのか? 優奈は恐ろしさのあまり引き攣った笑顔のまま固まってしまう。

「そんな不安そうな顔をするな、大丈夫だから」

 雅人はまた、先程の取ってつけたような満面の笑みを見せながら言う。

「……だ、だだだ大丈夫って、そんなわけ」
「お前がいい子にしてくれてたら、"大丈夫"になる。いや、なってるだろ?」

 そう言い切った表情は自信に満ちた、人を試すかのような笑顔。

「…………何か、まーくん、笑顔が邪悪になったね」

 いつの間にやら嫌味ったらしい敬語も忘れて、優奈の知らない新たな一面に非難の声を上げた。

「酷いな、優奈。いい子にしてくれてたら、お前にだけは優しいよ、俺は」
「……いい子」

 要するに、優奈が渡した金額では到底間に合わない出費があったのだろう。あの夜に。
 そしてそれを盾に、優奈を黙らせるべく雅人の口は動いている。

(……盾って言うにはおかしいか)

 相手が雅人でなかったならばどうなっていたかわからない有様だったのだから。
 返せる言葉が見つからない。
 見つからないが。

「……いい子って、私、何度も言うけどもう大人で」
「そうだ、大人だな」

 何とか返した言葉。やけにキッパリと雅人は頷いて、優奈を見た。
 もうそこに部屋の温度が急降下するような笑顔はない。
 挑発的な笑顔もない。

 見えるものは、昔から優奈を捕らえて離さないもの。
 凛々しく、力強く、どこか野生的な鋭い瞳。

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