愛しのフェイクディスタンス


「お世話になりました」

 優奈はまだ怠い体を起こして立ち上がった。大きなベッドの下に優奈のカバンとコートが置いてある。

「足りるかわからないんですけど、診察代です」

 コートを羽織って、財布を取り出し、頭を下げて財布から一万円札を二枚取り出した。
 足りるわけがないのはわかってる。
 診察だけじゃない、タクシーも使わせてしまっただろうしバーでの支払いも済ませていない。
 もちろんクリーニング代金も。
 
 しかしこれ以上の手持ちがなかった。

 何も返してこない雅人を見上げると、無表情で優奈を見下ろしている。
 そして無言のまま俯いてしまった。
 笑顔や困った顔、それらは見慣れているけれど。こんな雅人は記憶の限り初めてだ。
 
 いや、優奈の記憶など兄としての雅人しか存在しないのだからあてにはならないけれど。

「ごめんなさい、全然た、足りないと思うので、あのお店での支払いや諸々合わせて後日でもいいですか? その、お恥ずかしながら給料日前なので、その」
「……俺が」
「え?」

 絞り出すように小さな声がよく聞き取れず、優奈が俯く雅人を覗き込むように聞き返すと。

「俺が! お前から金を取るわけがないだろう!」
「ひ!」

 優奈の声を遮って雅人が怒鳴り声をあげた。
 驚いた優奈は思わず悲鳴めいた声で反応を返してしまう。

 そんな優奈の様子を見てハッとしたように口元を押さえた後、雅人は柔らそうな髪を焦ったように掻き上げた。

「あ、ああ、いや怒鳴って悪かった。ただ、俺はお前が今どんな生活をしてるのか知りたかった。実家にもあまり戻ってる様子がないし……。いや俺も忙しくてなかなか顔を出せてないのもあるけど」
「そりゃ仕方ないですよ、日本の未来を担う若きIT社長だっけ。この間テレビで見かけました、偶然」

 
 そう。いつも優奈の先を行く雅人。
 大学時代、先輩に誘われモデルとして活躍する傍らで友人と開発したアプリ。
 それが何とその年の年間ベストアプリに選ばれた。持ち前の容姿も加えて当時かなりの話題となったことを優奈はしっかりと記憶している。
 その流れで在学中に起業し、画像編集やアルバム管理など諸々のアプリを開発。それらが数百のダウンロードを記録。
 最近ではWEBサービス業にも手を広げ求人サイトや雑貨衣類の通販サイトなども手掛けるようになり、友人と二人だった会社も今では随分大きくなっているのだとか。

 直近で言えば、雅人を見たのはネットニュースとワイドショー。人気モデルで女優としても売り出し中の美女との密会という、別世界の住人になった株式会社b-sunsetの若きイケメン社長様の姿。

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