愛しのフェイクディスタンス
***
「どう? 瀬戸さん、もう帰れそう?」
その声にピクリとキーボードに触れる指が震えた。
資料を作成していた優奈が眠気でぼやけている目を擦りながら声の方を振り返る。
予想どおり、奥村の姿があった。
食事をした夜から数日。普段通りの奥村に対し優奈は到底真似ができず、緊張などしていないフリをすることしかできないでいる。
「お疲れさまです。今日は直帰じゃなかったんですか?」
経営戦略室のもう一人のメンバーである澤田千春と共に優奈は顔を見合わせて、奥村に問いかける。
「うん。まだ二人帰れてないってマキさんに聞いたから寄ってみた」
「わぁ、優しい! でも大丈夫! 私はもう帰るよ絶対帰る! あの鬼上司を拾って放り投げたらソッコーで!!」
千春は琥太郎のスケジュール管理やサポートをする業務の他に経理部長もこなす、マキと同じく頼りになる先輩である。
「千春さん、忙しいのに一緒に残ってくれててすみません」
ライトブラウンのショートスタイルに、耳元にはシンプルなフープピアス。細く長さのある美しい首と小さな顔。ショートスタイルが似合う女性には憧れてしまう。
(そのうえ仕事もマキさんと並ぶ敏腕さ……神様って不公平)
「いーよ。終わらせたいこともあったし、優奈ちゃんだけじゃわかんないこと多いじゃん。まだうち来てひと月くらいでしょ」
中に人がいないこと多くてごめんね、と優奈の頭を何度か撫でて千春は席を立った。
そうしてテキパキとデスクを片付けロッカーに荷物を取りに行く。
コートを羽織りながら千春が顔だけをこちらに向けて言った。
「奥村くん、私琥太郎さん駅まで迎えに行ってから帰るから。優奈ちゃんももうすぐ終わると思うけど」
「ああ、はい。ありがとうございます、あとは僕一緒にいます」
デスクにドサっと重たそうなビジネスバッグを置いて千春に返した奥村が、優奈を見ていつものように穏やかな笑みを見せる。
その様子を確認したと言わんばかりに、ニカっと笑顔を見せ「んじゃ任せた」と足早に去った千春。
フロアを出てすぐに通話を始めたようで早口にまくし立てる声が聞こえてくる。
相手は恐らくマキか琥太郎なのだろう。
「さて、何が残ってる?」
気を取り直して、とでもいうように奥村は千春が先ほどまで座っていた席につく。