今日から君の専属マネージャー


二人で玄関から入るのは、初めて涼ちゃんがうちにやってきた日以来だ。

私は足や腕など、傘からはみ出していた部分はずぶぬれだった。

だけど涼ちゃんは、全部が濡れていた。

私が覆いかぶさっていた背中以外、全部。


「涼ちゃん、大丈夫? ……じゃないよね? 今お風呂の準備するから」


そう言って私が家の奥に行こうとしたとき、


「いいよ、俺このまま帰るから」


涼ちゃんはそう言って私の腕をつかんだ。


「え? 何言ってるの?

 こんな大雨で帰れるわけないし、こんなずぶ濡れのまま帰ったら風邪ひくよ」


「傘あるし、どうせ濡れるし」

「そこまでして帰らなくてもいいじゃん。今日は泊ってきなよ」

「それはダメだ」


涼ちゃんの厳しい口調に、一瞬体がぐらっとなった。


「あっ、ごめん。

 ……とにかく、前も言ったけど、家に二人なんて、さすがにまずいだろ」


「でも……」

「美鈴は、もっと危機感持てよ。

 男に泊まってけばいいなんて、軽々しく言うなよ」


涼ちゃんは私から視線をそらしながら、少し口をゆがませて言った。

なんだか怒られているようで、さらには幻滅されているようで、私の胸も痛んだ。


「は……はい」


素直に小さく返事をすると、涼ちゃんはリュックをひょいと背負って玄関の扉を開けた。

その瞬間、私の目の前でまぶしいくらいの閃光が走った。

そしてその直後、「じゃあ、また明日」と言う涼ちゃんの声と重なるように、ガツーンという大きな音がした。

まるでこの小さな町内をハンマーでたたきつぶしてしまうような、大きな音が落ちた。

その音に、私の体の奥底から、恐怖の声が噴き出した。



「ぎゃあああああああああああああああ」



このほんの一瞬の間に、私はとにかく自分の体の赴くままに動いたと思う。

それはもう、完全に無意識。

少し落ち着いて、ぎゅっとつぶっていた瞼を少し緩めたはずなのに、視界はなぜか真っ暗なままだった。

肩の上下が自分でもわかるくらい呼吸が荒い。

足もじんわり冷たいし、濡れている。

それなのに、私がぶつかった先は温かい。

指先に感じるものは濡れてひんやりしているのに、そこから漂う心地よい匂いに、気持ちが落ち着いていく。


「……美鈴?」


指先が、その声の振動をとらえる。

だけど聞こえたのは、頭のあたりからだった。

ふっと視線を上げると、暗がりの中に、涼ちゃんの顔がぼんやり見えた。

顔の近さ、体との距離、声の響き具合。

すべてを総合して、私は暗がりの中で今の状況を把握すると、ばっと涼ちゃんから離れた。


「うわわわわわわわ、ご、ご、ご、ごめんなさい。びっくりしてつい……」


と言い訳を始めたその瞬間、再び腕を引かれた。

その瞬間の私はきっと、四白眼ぐらい目を見開いていただろう。

私の顔面が、少し湿り気のある柔らかなものに触れた。

体ごと包み込んでしまう力強い腕の感触。

引き寄せるように頭を丸ごと包み込む優しい大きな手。

心地よいぬくもりと匂い。

耳元をくすぐる吐息。

頬にぶつかる、しっとりとして冷たい頬。

体に巻き付けられた腕に、さらに力がこめられる。

胸同士がさらに引き合わせられると、ドクドクと早鐘を打つ鼓動がリアルに伝わってくる。

それは私の心臓の音だろうか。

それとも、涼ちゃんの心臓の音だろうか。

震える手が涼ちゃんの背中に触れたとき、ばっと体が引きはがされた。


「あのっ、ごめん」


涼ちゃんは戸惑ったように目を泳がせながら私から離れた。

気まずそうに私から目線をはずして、頭をかいて、私に背中を向けた。

ゴロゴロという音が、まだ遠くの方で聞こえる。

その音に重なるように、私の心臓の音もドクドクという。

外からは、先ほどよりも少し落ち着いた雨音が聞こえる。

真っ暗な玄関先で、私たちは無言のまま立ちすくんだ。


「今日は、一緒にいようか」

「え?」


低く大人びた声が涼ちゃんの背中から聞こえた。


「俺、絶対何もしないから」


そう言葉が続いた。

そしてこちらに体を向けた涼ちゃんは、やっぱり私とは視線を合わせずに、早口で言った。


「さっきのは、ほんとごめん。でも、これ以上は、ほんとに何もしないから」


そう歯切れ悪く言って、涼ちゃんはすたすたとお風呂場の方に向かった。

お風呂場からはお湯がどっと出される音が聞こえた。

私は心臓をどくどくとさせながら、その様子を見守った。

自分が裸足で靴脱ぎ場に降りていることに気づいたのは、それからしばらくしてからだった。


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