いっそ、君が欲しいと言えたなら~冷徹御曹司は政略妻を深く激しく愛したい~
プロローグ
「……どこへ……行くんですか?」

 衣擦れの音で目が覚めた。

 というより、意識がはっきりしてきた時、耳に入ったのが身支度をする音だったのだ。

 薄らとまぶたを上げた史織( しおり)の目に入ったのは、ネクタイを結んでいる男性の姿。それがはっきりと見えるのは、ベッドルームの照明が室内を照らしているから。

 視界に入る光景はまるで映画のワンシーンのよう。フレームに装飾が施されたソファ、花が三つ連なっているかのようなフリルガラスのシェードランプ、目を引く織物調のクロスはシャンデリアの光とシンクロして壁面に優美な模様を浮かび上がらせる。

 そんなセレブ感漂う室内に立っても、決して引けを取らない人。

 軽くかき上げた前髪から覗く聡明で切れ長の双眸、聞き惚れるほどの艶声が発せられる形のいい唇、高い鼻梁が横顔を引き立て、全体の造形美を盛り上げる。

 初めて彼を見た時は、にじみ出る男性的な美しさに目を奪われたものだ。

 この明るい部屋で、つい先ほど彼に抱かれたことを唐突に思いだし、裸の肌が熱を帯びる。

「仕事だ」

 彼の応答は短く、そして淡々としていた。もう少し、なにか説明があってもいいのではないか。

 中山( なかやま)史織は今日、この男性、烏丸泰章( からすまやすあき)と結婚をした。

 急ごしらえの挙式ではあったが、高級ホテルの幻想的な天空チャペルで豪華なウエディングドレスを身に纏い結婚式を迎えるなんて、想像もしたことがない大イベントだった。

 贅沢とか高級とか、そんな言葉が別世界のものだった自分には絶対に縁のないもの。

 それもこれも、三十一歳にして大手製菓流通商社の社長である泰章の妻になったからこそである。

 いわば今夜は新婚初夜。スイートルームに入るなり新妻のハジメテを奪った夫は、その身体で早々に仕事へ行くという。

「夜中に……行かなくてはならない用事が……あるんですか?」

 泰章が仕事熱心なのは知っている。でもまさか、こんな日にまで仕事を入れることはないだろう。

 きっと、緊急の用事が入ったからに違いない。

 ネクタイを整えた彼は、立てていたワイシャツの襟を直し、史織に近づいてくる。

 いきなり顎を掴まれ、唇を奪われた。

「ンッ……!」

 喉が苦しげにうめく。それだけ、突然のくちづけはいきなりで強引なものだった。

 喰いつくように貪る泰章の唇は、史織の口腔内を犯しにかかる。放埓に動く舌が口蓋を擦りたて、史織はビクビクッと身体を震わせた。
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