丸いサイコロ


――そして、その日。
まつりは、いつもの場所に居なくて、ぼくは、そいつに起きた何かの変化を、理解した。

確か、夕暮れ時だった。
その前日は、まつりの見たがっていた本を貸そうと約束していた。
柱時計によれば16時46分のことだ。火曜日。給食の冷凍みかんをこっそり隣の席の子にあげようとして、怒られた日。夕焼けはちょっと曇っていた。庭の草は刈られたばかり。

学校が終わって、すぐにやってきた。

だけど、いつもの場所にいないので、帰ろうと思った。自分から言い出した約束については、滅多に破らないやつだと思っていたが、気まぐれもあるだろうと。
ちょうどそのときだ。お屋敷、建物内の両開きの窓の向こうから、バタバタと足音がして、まつりの声が聞こえてきた。

「かあさま! かーあーさーま!」

「私、かあさまじゃないわ」
「かあさま、そうやって、冗談を仰有るんですか? 」
「あなた、目は見えてます?」

おそらくは若い女の人と、まつりの声。それからすぐ、大人の女の人と思われる声がした。

「まつりさん。かあさまは、こっちよ。何を言ってるのかしら?」

「……とうさま、笑いを取ろうとお考えなのですか?」

やけに、騒がしい。
眼科がどうのと、大人たちが揉め始める。
まつりの声は、真面目そのものだ、というのが事態の異様性を表している。

「視力はいいですよ、両目とも1・5です」

まつりはそう言うが、誰も取り合わない。どの病院がいいのか、と大人たちが騒ぐ中、庭で遊んでいなさい、と、とうとう追い出された。

こちらに来る、と焦りながらも、今のまつりのことが気になったりもして、そのまま、ぼくは突っ立った。

「あー、なとなとー、元気だったかぁ?」

まつりは、ぼくを見つけて駆け寄ってきた。
それで、そう言って、へらっと笑った。ぼくは、少しびっくりしながらも、頷いた。

「今さー。あのお家、なんか、居心地悪いんだ。みんなが、みんな。違う、違う、違う、って何を言っても、否定されるんだよ。わかんない」

わかんないことがわかんないんだよとか、わかんないのはわかんないからだとか、そんなことを言ったりはしない。ぼくも混乱しそうだった。

「そっか」

短く、そう応えた。
否定も、肯定もしなかった。まつりは、にこにこ笑って、言った。寂しそうに。
「わかるの、なとなとだけだなあ。からかわないの、なとなとだけだなあ」

まさか、本当に、からかわれているのだ、と思っていたわけでは無いのだろう。ただ、怖かったのだと思う。誰が誰かもわからないのに、それぞれのことは覚えているなんて。

そのときのまつりが、家族への認識をごちゃごちゃにしたのは、ぼくのせいでもあった。
そのときに《その人をその人として解釈し、覚える基準になっていた何か》のバランスを、ぼくの情報が入って来たことによって、崩したのだ。
ただ、ぼくには、そのときのまつりに対する理解が、ほとんどなかった。
何が起こったのかもわからなかった。戸惑いも一瞬。重大なこととも、思わなかった。

「ねぇねぇ、どこか、違う場所で、遊ぼうよ!」

「違う場所って……」

「遠くに行きたいんだ。良い場所を知ってるんだよ。そこに、なとなとと、近々行きたいなって思ってたんだけど。今日でもいいや」

そうして、ぼくとまつりは、来賓館に訪れた。
意味もわからず、なんか変わった名前だなあ、とぼくは思っていた。

その建物は、子どもから見ると、更に更に、大きかった。

「ね、すごいでしょ、今日はここであそぼう!」

近くの停留所からバスに乗ってやって来た途端、まつりは、そう言ってはしゃいだ。いろんな住所を、しっかり把握しているらしい。
着いてから、ああ、ここのことか、と思った。存在は、聞いたことがある。
更に数日前、母と父が、話していた場所だった。
『家も金を出したのだから、しっかり使わせて貰わねばならんな』とかなんとか父が言っていた建物。

「えっと、いいのかな? ここ、おじさんたちの家じゃないの?」

「ちーがーう、ここは、とくべつなおきゃくさんのおうちなの、だからなとなとは、いいんだよー」

そうか、そのお客さんのために、こんなところが出来たのか、と納得していたぼくに、まつりが言った。

「ナナトだって、何回も言ってるだろ?」

呼び名にこだわりは無かったが、照れ隠しに、そう言うと、まつりは困ったように首を傾げた。

「な……? と……と。んー、わかんない。それよりさ、入ろう!」

しばらく、口を動かしにくそうに発音を確認していたのに、あっさり諦めて、ぼくに言った。

真っ白な壁。立派な石柱。玄関の階段。植木のある庭の、右側には設立記念碑。誰かの像。視界に順に入るものすべてを、見た瞬間、しっかり刻む為に、ぼくの頭は動き出す。癖というか、止め方がわからない。

夢中になってしまわないように、はっきりと返事をする。

「うん。そうだね」

まつりが、持っていた鍵で、ドアを開けた。四段しかない階段を進み、重たい木のドアの先に、入る、まさにそんなときだった。

「おじさんは?」

「──え?」

「おじさん。おじさんは? とうさまは?」

「どうした?」

「わかんない!」

「なに?」


「あれ。どうして、ここに、連れて来たのかな? どうして? いいや、ナナトくんは、確かに、大切な……でも、でも、どうして?
さっきまで、違うだれかと一緒にいたような」 

「え?」

「ねぇ、聞いていい?」

嫌な予感がした。そして、それはすぐに、当たった。

「まつりとナナトくんは、いつも、こうして一緒に遊んでるのかな?」

前兆に、気が付かないほど、それは突然だった。
ふりだしに、戻った。
まつりの中のぼくの情報は、どこかで、捻れ、止まってしまった。

今思えば、唯一覚えているぼくと遊ぶことで、安心感を求めながらも、家族のことを、思い出そうと焦り、必死に考えていたのかもしれない。

そして、ここに来たことだけがきっかけだったのかは定かではないが……何かの基準を、それ以前に戻してしまった。代償は、ぼくの情報の一部。何か。

一緒にいたから『こういう存在』としては記憶が留まっているみたいだけれど、それに対して、実感、感情的な記憶が繋がらないようだった。

それは、それで、良かったじゃないか、とぼくは思った。少なくとも、おじさんや、とうさまは、今ではちゃんと理解出来るみたいで。解決。めでたし。
ぼくは、別に、何も思わない。もともとは、部外者だから。

それに、ぼくがここで傷付いたりしたら、こいつはどうなる?

きっと、どうしようもないことなのに、なんだかんだで根が優しいせいで、ぼくに対して、どうしようもなく悩まなきゃならなくなる。

ぼくのことなんかに時間を使わなきゃならない。誰もが大切にしないぼくを、いくら大切にしたって、どうしようもないのに。
ぼく自身にだって、自覚出来ないことなのだから。

もともと、おかしかったし、もともと、あってないような関係だった。傷付くことは、何もないのだ。
まつりも、ぼくを、ただ、隣の人、とだけ思っていると知っている。

「今日は、お前がここを案内してくれてたんだ。ありがとな。――でも、もう日が暮れたなあ。うちの親、厳しいし……あー、このまま泊まりたいくらい」

まず、説明を、捏造した。だけど、この説明も、まつりの記憶には残り続けることはない、とぼくは直感的に思っていた。

「……ああ、うちも厳しいんだよ……帰りたくない。たぶん、知り合って日が短いし、ここで、このまま親睦会もいいかもね」

まつりは、平然とふるまい、ぼくが予想していたよりも、二歩踏み込んだような提案をしてきた。

まさか、そのまま親睦を深めるという意味ではないのだろう。
《日が短い、間の記憶しかない》ということをこちらに暗に示し、《これまでの経緯を聞こう》ということなのだと、理解した。

いざとなれば、ぼく自身は気持ちなど簡単に押し潰せたし、まつりが帰りたいと言うなら、帰ろうと思ってもいたけれど。

その対応は、正確には間違っていて、だからこそ、正しかった。

なんとなく、考えた。
きっと、これは、ずいぶん昔にやった、ゲームのバグに似てる。どこまでも奇妙な道が続いて、どこまでも、レベルが上がって……でも、それは、正常ではないから、読み込み直せば、それまでだ。
嘘の世界での嘘は、その中での現実だけど、真実にはならない。


中に入ると、それぞれ部屋を選ぼうという話になった。



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