丸いサイコロ
取り乱した彼女を、ぼくはしばらく、ぽかんと見ていた。今、そう言われても、彼女のことは正直、記憶にない気がするのは確かなのである。空白期間だ。
──と、それを真っ先に告げても、それでは互いに傷つきそうだから、まずは、最初の部分にだけ、触れることにする。
「いや……えっ、と。聞いて。違うんだ。何のために行くことになったのかなーって、気になっていただけで、そんな、だますようなつもりは無かったよ。わかったのも、ついさっきだ」
聞こえるかはわからなかったが、ごめん、と申し訳ない気持ちでそう言う。
とたんに、シーンとあたりが静まった。
……ちゃんと届いたのだろうか。一旦落ち着くべきと判断したのか、我に返ったのかはわからないが、はっ、と気が付いて静かに座り直した。彼女は先ほど、思わず立ち上がっている。
それから、取り乱したことを、恥じているみたいに俯いて、私、と一人称を戻して、ゆっくりと言った。
「……私が、本当に知りたかったのは『あなた』が私が探している人だったかどうか、だったんだ。《姉》を見つけるのは、その一環というか……と、とにかく、手紙の中の──『あなた』だ。その紙は、家に届いた封筒の、二枚目だよ。もっとも、どういうものかという付箋は付いていた。複製だが」
やっぱり、二枚目なのか。あの手紙。
「……あれから考え直してさ。あの手紙でいう、逃げたのは、あの兄、だったのかなと、思ったんだけど」
兄が、卒業後、海外に行ったことが『逃げた』。──なにしろ誰も、それを知らなかったし、彼は気が付いたら、荷物をまとめていて、いなくなっていたのだ。親も仕事でほとんどいなかった。……そういう、家族だった。うちは。
「私が連れさっていたことも、私たちの関係も、あの作戦も、バレてしまうというような話だったけど、あの作戦、なんてぼくは知らなかった」
ヒビキちゃんは、なぜか、どこか意外そうな顔をして、目を丸くした。まつりは、なんだか退屈なのだろう。ぬいぐるみに埋まるのをやめて立ち上がり、どこかからケーキを持って戻ってきて座った。
──ってそれ、ぼくのじゃないか。探してたのに。どこにあったよ。
「いや……」
どういう意味か聞こうとすると、気まずそうに、目を反らされたので、追及しない。
突然、ピンポーンと、チャイムが鳴った。びっくりして一瞬、玄関を見たまま固まってしまったが……外から声がしている。
誰も反応しなかったのでぼくが歩いて出ていくことにした。
「誰ですか?」
玄関のタイルは、靴下からでも、冷たい。
足音などで、ある程度予測を立てながら、扉の小窓(こちらからだけ見えるやつ)を覗くと、スーツ姿の兄だった。わかっていたような気がするのに、怖い。足が震えて、しゃがみ込む。
「や……やっぱり、この家、知ってて────あいつは、じゃあ、やっぱり、本当に……」
頭が、ぐるぐるする。何の悪気もなさそうに、自然に、彼はそこにいた。微笑んで。『怖い』がぼくの脳内を埋め尽くそうとする。足踏みしたり、腕時計を見ながら、こちらを伺っている。
──やっぱり、こんなのは、ぼくの兄ではない。
そのはずだ。無慈悲で、残酷で、狡猾で、人間の頭を平気で蹴りあげて笑っているような、あの兄では、ない。
体が一気に冷えきっていくようだった。笑顔が、優しさが、眼差しが、過去を拒絶する。ぼくの存在を、否定している。
そんな、気がした。
お前は生きていていいのかと、聞かれているような。
なにかを忘れることは、ときに残酷だ。なにかを覚えていることも、また、残酷だ。
「──あれは偽物、だよ。そうだ。そうだ……」
後ろから気配がして、まつりがやってきて、扉の前にいたぼくに、割り込むようにして鍵を開ける。少し、眠そうな目で。
「──あれは、本物、だよ。きみには、信じがたいかもしれないけど。今は、出なくてもいい。大丈夫だ、筋は通しているから。いろいろあってね、《互いのため》に、協定を結んだんだ。別に、手出しはさせない」
さらっと言って、ドアを開け、ヒビキちゃんを呼んだ。彼女の迎えだった、らしい。最初から。彼女は、礼儀正しく、お世話になりましたと頭を下げてから、くるっと向き直り、外に出て行った。
なんだか、あっけない別れだ。ぼくらは、それを扉の向こうから、見送ったのだった。