丸いサイコロ
(回想録)
<font size="5">28.紅い食卓、偽物</font>
食堂に入って夏々都が部屋を立ったのを見送って、まつりはテーブルの布を、わずかにめくった。盗聴などを一応心配していたので、コンセントなども念入りに眺めてきていたのだ。期待は、予想外な方向で、裏切られる。
布がかかり、足が見えにくいその下、奥の方の床が、赤い液体で、大きいものは横に丸く広がり、小さなものは、ぽつぽつと散り、汚れているのを見つけてしまったからだ。
布を目繰り上げ、近くまで行きながら、座る位置が、入り口に近かったのは、まだ幸運だったかもしれないと考えた。
もう少し奥の、自分が見る限りでは、明らかに布が若干長いところに座っていたら、事態は大変ややこしかっただろう。
これは《あの人》の、仕業なのだろうか。
布なんて早々外さないし、テーブルがでかくて入り口から、かなり距離があるし、めったにバレるわけがないなんて発想なら、確かに大胆ではあるが。
いや、それ以前に。自分たちを放っておいてもいいと思っているのは、気付かれないと思っているか、証拠がないからか。
──それとも『彼』が想定外に、ここから、行かれてはまずい場所にでも向かったのか?
とにかく今のところ、わりと予定からずれていないからいいか、と、まつりは思った。
まつりは、こう来たらこう、という臨機応変のために、細かい予定自体は立てないので、予定というよりも、かなりざっくりしたものだったが。
「ひっ……」
いつの間にかのぞきこんできた少女が怯えていた。まつりは気にせずに、考える。(多少気にしてはいたが、ここで下手に刺激する方が大変なことになりそうだったので)
「な、なんで、冷静……」
震える少女が、こちらを見て複雑な表情をしていた。冷静なものは冷静で、どうしようもないと考えてから、きっと彼女が言いたいのは、自分が恐怖にとらわれていることに対する疑問に過ぎないのだろうと考えを改める。
「……ん、そうだなあ」
そもそも、本体がない。確証もない。想像力で結び付けるよりも、状況把握が先だ。他に、床に続いて伝っているような跡や、目立つような傷などが今は、他にない。
手形らしい跡もあるし、彼女の様子も怪しかったように思うし……いや、そもそも、これがただ、赤いインクを溢した際のものとは、あまり思えないのだが。
これが、どういった意味なのかを考え、ある程度答えの予想が出来たところで、まつりは閉じていた目を開いた。
(まさか、こんな感じだとは、さすがに思わなかったな──)
余裕が出来て、さっそく答えを確かめようと思ったが、少女がまだ怯えていたのに気付く。
まつりは、そこで、どうしろというんだと、一瞬焦りかけた。
「こ、怖い……」
「え、あ……おい、じゃなくて、ええと……」
──だが、焦っても良いことはない。考えた末に、彼女が握りしめている指をそっと掴み、自分に持ってきた。あたたかい。弱い。脆い。小さい。
彼女はなんとなく、何かにしがみつきたそうに見えた。
──特に、不安なときや、怖いとき、どうしてこんな触れ合いみたいなもので安心を求めるのかと、内心では気が知れなかったのだが、彼女にはその方がいいのかと思い、思考を適当に片付ける。気にかけるように言われてもいたのだし。
彼女は恐る恐る、まつりに近づいた。まつりは曖昧に笑いながら、彼女を撫でた。まるで、猫みたいに。
「大丈夫だ」
なにがだ、と自分で思いながらも、優しくなだめる。
「う……うう……」
「落ち着いて」
わけもわからず、何か呻きながら、自分に強くしがみつく様子を、どことなく、冷めた気持ちになりながらも、なんとなく面白くて、彼女が落ち着くまでそのままにしていた。
少しすると彼女がある程度落ち着いたので、手を離し、さてと、と行動に移ろうとしていたときだった。気配を感じた。
──瞬間、振り向く間もなく、包丁を持った仮面の人物が、こちらに襲いかかってくるのを見た。なんとなく、滑稽だったからかもしれないが、それはあまりに現実味がなかったので、驚くことが出来ない。廊下のカーテンみたいな黒い布を体に巻いていたが、体格などで、それでも、誰かは、なんとなく、予想出来たのもあるだろう。危機感が、薄かった。
「……あ」
まつりは、攻撃が咄嗟だったために避けきれずにその場に倒れた。少女はなんとか一人先に、机の下に隠れたので、無事だったのに、少し安心する。
幸い、少しでも反応は出来たので、かすっただけになったようだった。
それでも、少し、皮膚を抉ったのだ。気にしないようにしているつもりで、「あー痛いなあ」と他人事のように思わずにはいられない。
また、床の、未だに乾かないなにかで服が汚れたことを少し、残念に思い、苦笑してしまった。
仰向けに転んで、咄嗟に手をついたせいで《手のひら》もまた、赤くなってしまったのも、不快だった。それは、ほんのわずかに明るいオレンジが混ざり、分裂してきている。あまり好きな色ではない。
……この液体はやはり血液などではないだろう。自分の血があとから少しずつ染みてきた。こうしてみると、やはり乾き具合や、感触が違うなと思いつつ、だが、まつりにとってはそれ自体はどうでも良かったので、茶化す。
「コウカはダメな子だなあ。あはは、痛いよ、もう!」
仮面の人物は、何も言わなかった。ただ乱暴にまつりに手をかけようとした。どちらかが動いた際、壁にも滴が散った。まつりは逃げない。仮面の人物も逃げない。
少女はまた怯えていたが、すぐに自分だけ隠れたところからも、強かな感じがするので、今度はあまり心配していない。
まつりは、自分の痛みや不安よりも、安心してさえいた。ぼんやり、なんとなく、この場に『彼』がいなくて良かったなと思ったのだ。絶対にさらに場をややこしくしていただろう。だからこそ、楽しくもあるのだが。
「ねぇ、これはなに?」
手のひらを見せながら聞いてみたが、相手は聞く気がないらしい。迫ってくる。なんとか凶器を持つ腕を捻れないかと考えたが、手は、あいにく、まだ滑りそうだ。
「……わかったよ」
そう言って、続けて何か提案しかけたとき、ばたばたと、足音が聞こえるようになってきた。女性らしきものと、男性のもの。
そう思ったら、体が動いていたらしい。滑りたくないので水溜まりを避けながら、力一杯、相手を蹴っていた。咄嗟の判断だった。仮面の人物を容易く倒して、めくれていた布の影に、乱暴に隠す。一応、方向には配慮したし、少女のさげていた鞄が床に落ちていて、頭を直接打たない程度にはクッションにはなるだろうと勝手に使わせてもらった。
入り口側からは、見えないようにする。
「──殺す!」
絶叫。包丁が転がった。少女が、動転していたのか、液体の中から、咄嗟に拾い、そのまま混乱していたので、とりあえず、その場から出させていた。 影に隠れた人物にも、静かにしていろ、と脅すように告げる。武器を無くし、この時点でまともに立ち上がるのが困難な人物は、黙ってしまった。
後ろに、彼が、夏々都が立っている。目を白黒させている。面白いなあ。と、思って、手を振ってみた。きっと誤解が始まるだろう。
──果たして、彼はどこまでを想像してくれるのだろうか?
「やめて! その人は──」
もう一人のコウカが、慌てて飛び出してきていた。計ったようなタイミングなので、さっきまで、一体どこで何をしていたのだろうと、少し気になったが、今は置いて置くことにした。