ショウワな僕とレイワな私

「僕が君にできることは」

清士の日課は毎朝大学に行く咲桜を見送ることだ。玄関先で咲桜を見送り、それから部屋にある観葉植物に水をやり、簡単に部屋の掃除をする。「男は外に出て稼ぎ女は家で家事をする」という常識の中で生きてきた清士だが、この時代では男も女も働き家事をすると咲桜から聞いたことで自分にできることはやってみようと思ったのであった。もちろん、咲桜の家を間借りしているからということも理由のひとつであったし、2023年の生活を体験してみたいという思いもあった。1943年なら間違いなく家事などするはずがなく、家から出かける人を見送ることもない。むしろ、毎朝「行ってきます」と言って大学へ行き、終業後も学友と出かけて夕方や夜に帰宅するのが普通だった。

清士は、いつも夜に寝ているソファーを片付けて、机の上に図書館で借りた本と咲桜から貰ったノートと鉛筆を置く。本は咲桜が毎週頼まれて借りてくるものを読む。文学から法律や歴史といった本を幅広く読み、それぞれの本の感想や調べたいことを書き出して、調べたいことは辞書で調べる。昼食や夕食は咲桜にキッチンの使い方を簡単に教えてもらって簡単な料理を作るようになった。そうして食事を摂ってまた本を読む。暇を見つけて、1943年から持ってきた手帳に短い日記を書く。日が暮れると風呂に入る。そしてまた本を読む。それで一日が終わる。

咲桜はいつも1時前に家に着く。眠い目を擦りながら「ただいま」と言う。清士は本を読むのを止めて出迎えに来るか、来ないときは読書の途中で寝ている。そんなとき咲桜は清士の肩にブランケットを掛けてあげて、お風呂に入ってから寝る。そして朝が来て、咲桜は5時に起きて朝食や大学に行く準備をする。そして大学へ行き、清士はそれを見送る。毎日この繰り返しだ。

ある日の夜、咲桜はいつもと同じように終電で着いた東京駅から家へ歩いて向かっていた。12時半を回ったころ、まだ明かりのある街には近づく冬の気配に寒風が吹いている。

「ふう……最近寒くなってきたしコートでも準備しなくちゃ」

今日も教科書や研究資料がたっぷり入った重たいバッグを抱えながら歩く。大きな通りから一本裏に入れば、人は少なく、明かりも薄くなる。時々自転車が通ったり、野良猫の鳴き声が聞こえたりする。咲桜はどこからか聞こえる鳴き声の主に出会うと、しばしばその声の主である猫を見つめては頬が緩んだ。今日も成田さんはどうしているかな、と思いながら家を目指して歩くが、その日は何かが違った。

……人の気配がする。私の歩くスピードに合わせて、誰かが付いてくる気配がする。

咲桜はそんな気がして少しずつ早足にして歩き始めた。とても後ろを振り返ることはできず、ただ前を見て歩くしかなかった。

家に着くことに夢中になって早足で帰っていると、あっという間にマンションの前まで歩いてきていた。その時にはもう人の気配はなかったようで、咲桜は気のせいだったかも、と思い、マンションに入った。14階へ上がり部屋のドアを開けると、今日も清士が「おかえりなさい」と言って咲桜を出迎えに廊下に出てきた。

家に着くまでの咲桜の後ろには、確かに人の影があった。その人は、マンションの前で咲桜がエントランスに入った時にはすでに明かりの点いていた14階の部屋の窓を見つめていた。
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