ショウワな僕とレイワな私
清士の死から5ヶ月経った1945年の8月15日に終戦となった。

成田家の大きな邸宅は空襲で焼け落ち、父は命からがら自宅近くの防空壕で生き延びた。女中として雇っていたふみを国に帰した母は、親戚を頼り1年と数ヶ月の間疎開していた栃木から帰ってきた。長男は伍長で戦病死となり骨になって帰ってきた。次男は半年後に主計少尉で復員除隊となり大陸から引き揚げ、かろうじて家族4人が揃うことになった。焼け野原となった東京で父も母も、戦後の動乱の中帰ってきた弟も、大切な我が子を、尊敬する兄を見て泣き崩れた。

清士が書いた手紙たちは母が疎開先に持っていったので無事であった。今こそこれを読む時だと言ってそれぞれに宛てられた手紙を読んだ。誰も(わめ)くことなく(むせ)ぶこともなく、ただ静かに涙を流していた。春子にも彼女に宛てた手紙が届き、紙がぐしゃぐしゃになるほど咽び泣いたという。

「死ぬかもしれんから嫁はいらんと言った馬鹿者はどこの誰だ……言った通りになってしまったじゃあないか」

「あなた、よしてくださいよ……」

瓦礫(がれき)に囲まれた粗末で小さな家の中に、悲しい空気が漂った。「遺品」と言われて返ってきた手帳には戦中日記が(つづ)られていた。

『誰にも言えやしないが、これまでに幾人も苦しみ(もだえ)て死んでいった者を見てきた。軍人のみならず、罪なき市民も死んでゆくのである、僕はそのような光景をもう見たくはない』
『何故ここまでして無惨に戦い合わなければならないのか』
『暑い、暑い、高熱であった』
『今日は元気だ』

日に日に弱っていく字を見て、父は黙り込み、母はその字を手でなぞって涙を流し、弟はただ(うつむ)くばかりであった。

清義(きよのり)は兄と同じ時期に入隊したが商学の専門学校を卒業していたために経理部の幹部候補生となり、1年と少しの期間軍学校に通ったあとは大陸で経理を担当していたので実戦経験がなかったが、兄の生々しい戦中の日記を見て何も言えなかった。

しかし、父が手に取った遺書を読んだ一家は目を疑った。

「なんだ、こやつ訳の分からんことを書いておる」

父は声に上げて読み始める。

「僕は一九四三年十月、夜に家を飛び出した日に……なんじゃこりゃ、れい……わ?の世界を見ました。今から八十年後の?世界です……ふざけとるんか、全く」

母も一緒になって見たが、生真面目な息子を疑うことができなかった。

「あなた、あまりきついことをおっしゃらないでくださいよ。さぞ苦しい思いをしたのでしょう、あの子は。最後にも書いてあるじゃありませんか、この手紙を送ってあげさえすれば良いのなら、叶えてやりましょうよ」

納得できない様子の父であったが、息子の最後の頼みを聞くことにした。

「よし、そうと決まればこの手紙は大切に取っておこう。決められた時に、決まった場所に送るまで、失くさず燃やさず、必ず持っておこう」
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