貴方の残り香〜君の香りを狂おしいほど求め、恋しく苦しい〜
 真梨子は思いを巡らせる。引越しの日、帰りにポストに投函しようとしたのに、晃が帰ってきてしまったため忘れてしまったのだ。

「嘘……まだあったの……?」

 譲は青ざめる真梨子の頭を撫でる。

「どうする? 直接マンションに行くのが嫌なら郵送してもいいし」

 きっと方法としては郵送が良いはずだったが、自分でケリをつけたいような気もしていた。

 真梨子の表情から気持ちを察したのか、譲は彼女の額に軽く口づける。

「……今から行く? 車でなら二十分もかからない。明日休みだし、このまま手元にあるのも嫌だよな」
「……いいの?」
「もちろん」
「ありがとう……」

 二人は軽く身支度を整えると、再びあのマンションへと向かった。

* * * *

 マンションのエントランスより少し手前の道路に車を停める。真梨子はベルトを外すと、ドアに手をかけた。

「すぐに戻るわ」

 そして車から降りると、エントランスに向かって歩き出す。

 ポストに投函して戻るだけよ……そう思うのに、晃と出くわしたらどうしようと不安になり、下を向いて歩く自分がいる。別にいたっていいじゃない。もうあの人とは他人なんだから。

 自動ドアを抜け、集合ポストに向かう。その時、駐車場のドアが開く音がして、真梨子はとっさに宅配ボックスの影に隠れた。

 それと同時に、誰かが真梨子の後から自動ドアを抜けてこちらに向かってきた。それが譲であることを認識したのも束の間、彼は真梨子の口を塞ぐと、同じように宅配ボックスの影に隠れた。

「静かに」

 口の前で指を立てる仕草をしたかと思えば、譲の目線は宙を彷徨い、オートロックのドアの向こうの声に聞き耳をたてる。

「悪かったね。いつもホテルばかりになってしまって」

 真梨子と譲、二人の動きが止まる。それは確実に晃の声だった。

 一体どういうこと? 真梨子は驚いて譲を見るが、彼は微動だにせず、じっと耳を澄ませていた。

「仕方ないですよ。先生は結婚してたわけだし。ホテルもリッチで素敵だったけど、やっと先生のお家に来られて嬉しいな」

 エレベーターが到着したのだろうか。二人の男女の会話は途切れた。

 譲は真梨子の口から手を離し、困惑した彼女を抱きしめる。

「真梨子が車を降りてから、見覚えのあるセダンが横を通過したんだ。鉢合わせたらと思って慌てて来たら……」

 譲は口を閉ざす。真梨子は譲の胸の中で思考をフル回転させていく。

『いつもホテルばかり』ということは、関係は長く続いていたということ?

 真梨子の表情が徐々に青ざめていく。

「ねぇ……今の会話って……もしかして不倫してたってこと……? あの人……女なんかいないって言ったのよ……それなのに……私を苦しめておきながら、外に女がいたの?」

 私はずっと騙されていたということ? それなのに、何も知らずにずっと我慢していたの?

「馬鹿みたいじゃない……本当にただの同居人だったわけね」
 
 悲しみよりも怒りが込み上げてくる。譲の胸を掴み、悔しくて涙が溢れた。

 あの二人は、何も知らない私をきっと笑っていたに違いない。協議離婚になったことで、晃は安心したかもしれないと思うと、怒りが込み上げてくる。

 真梨子は手の中の鍵を見つめ、久しぶりに悪い考えが浮かんできた。

「ねぇ、譲。この鍵を使って部屋に入ったら、不法侵入になるのかしら……」
「……玄関までならセーフじゃないか?」

 予想外の返答に、真梨子は思わず吹き出す。

「でも今行ったら、情事の真っ最中かもしれないぞ。元旦那のそんな現場を見る勇気ある?」

 譲は心配そうな表情を浮かべていた。

 そうね、前の私だったら無理だったかもしれない。でも今の私には心強い味方がいてくれる。

「私にはあなたがいるもの。一緒に来てくれる?」
「もちろん」

 彼の言葉を聞くなり、真梨子は鍵を使ってオートロックを解除すると、マンションの中へと入っていった。
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