造花街・吉原の陰謀
花祭編

1:花祭開催

 遊女たちは、淡い色の着物に身を包んでいる。明依(めい)も例の着物に袖を通していた。
 色気と少しばかり勝気な印象を与えるいつもの化粧さえも、淡い色が緩和している様に思えた。

 吉原に春が来た。澄み渡る空気を感じる早朝の事、明依の部屋に入ってきたのは日奈(ひな)だった。

「明依、本当に行くの?」

 当然、既に丹楓(たんふう)屋にも応援の件は知らせてあるのだ。今更行かない訳にはいかない事は日奈にもよくわかっているだろうが、不安げな面持ちで問いかけてくる日奈は、本当は行きたくない、という言葉を呟く事を心底願っているに違いない。

 日奈は今日まで何度も吉野(よしの)清澄(せいちょう)に自分も丹楓屋に行きたいと言っていたが、楼主がいない満月屋を吉野一人では回せない事と、何より日奈の松ノ位への昇格に主郭がどのように動くかわからない状態で丹楓屋へ行く事は今後に関わるとして拒否されていた。

「うん、行くよ。でも大丈夫。心配しないで」
「わかった。私、吉原を変えたいって思う気持ちは何一つ変わってない。だから、満月屋(ここ)で自分の今やらなきゃいけない事をする。だからお願い。無茶はしないで」

 自分のこれからしようとしていることが、無茶に入らない訳がない。真剣な顔でいう日奈に、肯定するたった一言を発することが出来なかった。

「明依に出会って、どうして忘れてたんだろうって思うような外の世界の当たり前を、たくさん思い出した。いつも明依が、私の中でずっと眠っていた記憶を起こしてくれた。その度に魔法をかけられたみたいだなって思ってたんだ」

 日奈は明依が吉原に来る何年も前から禿(かむろ)として吉野の側にいた。だから、吉原に入りすぐに吉野の世話係になった明依と日奈は、ほとんどの時間を共に過ごしていた。その頃から日奈は、外の世界の事を聞きたがった。他愛もない話をすれば、いつも日奈は幼い子どものように目をキラキラさせて話を聞いていた。

「今度は明依と二人でここでの事をいろいろ思い出したい。そんな事もあったね、って何年先も何十年先も、笑っていたいの。だから明依と吉原を出て、今までを忘れる位いろんな所に行くの。(あさひ)の分まで渋る明依を引っ張って、いろんなところに連れて行くの。怖いならずっと、私が明依の手を握っていてあげる」

 薄っすらと目に涙をためる日奈に、胸の内で何とも言えない不思議な何かが込み上げてくる。泣き出してしまいたくなるような、全てを投げ出してしまいたくなるような感覚だった。

「なんか日奈、旭に似てきたね」
「そうかな?明依と旭は似た者同士だったから、私が明依に似てきたって事なのかな?」

 自分の気持ちから目を背ける様に話を逸らせば、日奈はそういって口元を緩めた。
 生きてここへ戻ってこられる保証はどこにもない。一度終夜(しゅうや)に殺されかけているのだから当然だ。

「いってきます、日奈」

 これ以上日奈の側にいれば充てられてしまいそうで、まとめていた荷物を掴んだ明依は無理矢理笑顔を作って部屋を出た。

「いってらっしゃい」

 後ろで聞こえた声に、明依は振り向かなかった。温かさが胸の内で燻った後は、一つの決意として胸にしみ込んでいく。戦地に向かう兵も、もしかするとこんな気持ちだったのかもしれないと思った。
 外は憎たらしいほどの晴天。しかしまだ、冷たい風が吹いていた。





「いやァ、悪いね黎明(れいめい)さん。本当に助かるよ」

 恰幅のいい丹楓屋の楼主は、困り笑顔を浮かべて申し訳なさそうな様子でそう言った。

「いいえ。吉野姐さまから、困ったときはお互い様だから気にしないで下さいと言付かっています」
「相変わらず、吉野大夫は出来たお人だねェ。それに引き換えウチのは、ねェ?」

 同意を求める様に問いかける丹楓屋の楼主に、明依は差支えない程度で相槌を打った。

「私が、なんだって?」

 楼主の肩に腕を回して話に割って入ってきた人物に、明依はぎょっとして背筋を伸ばした。その女性にたじたじな楼主の様子は、まるで悪妻に言い訳を考える夫の様だ。

「満月屋の黎明といいます。一週間、よろしくお願いします」

 明依は内心の焦りや不安を隠して、楼主に絡む美しい女性に笑いかけた。視線だけを明依に移した女は、楼主を掴んでいた腕を離してすっと背筋を伸ばした。楼主はほっとした様に胸を撫でおろしている。丹楓屋ではどうやら楼主と遊女の力関係は逆転状態にあるらしい。
 おそらく吉原の外の人間には、そんな彼女が一番〝花魁〟像に近いに違いない。大きく開けた襟からは、豊満な胸と華奢な肩が惜しみなく出されている。それでも彼女から、一切の下品さは感じない。造花街吉原の歴史の中で唯一、梅ノ位から竹ノ位への昇進を主郭に認めさせた女性。それ所か、松ノ位への昇格を果たした遊女。
 丹楓屋松ノ位、勝山(かつやま)大夫。

「アンタが吉野ン所のモンかい。来てもらって悪いね」
「いえ」

 勝山はニコリと笑う事もなく、かといって冷たいというわけでもない説明しがたい態度でそう言う。

 笑顔を崩さずに返事をする明依に勝山はなぜか顔をしかめたが、明依はそれでも笑顔を崩さなかった。

 この人に気に入られていれば、丹楓屋で動きやすい事は間違いないからだ。可能性は少しでも上げておきたい。

 遊女の女の誰もが淡い色の着物を着ている中で、勝山は派手な色の着物に身を包んでいる。

 吉野以外の大夫と対面するのは初めてだが、勝山からも吉野同様に気圧される様な感覚が確かにあった。しかし、吉野とはまた違う感覚だ。

 勝山は気丈という印象が強かったが、到底そんな上辺だけの言葉では説明がつかない程、女の真の強さがにじみ出している気がした。

 勝山は明依に近づき、品定めするように自分の顎に指を添えて明依を見ていた。至近距離にある勝山の胸元から視線を逸らしたが、不思議とチラチラと見てしまう。

 なんだか覗きでもしている様な気持ちになってくる。初めて男性の目のやり場に困るという感覚が理解できた瞬間だった。

「女々しい男みたいな反応するんじゃないよ。見るなら堂々と見な」
「いたッ!」

 勝山はスパーン!と気持ちのいい音を立てて明依の頭を叩いた。堂々と見るとは?という疑問は口に出せないまま、明依は叩かれた頭を自分で撫でた。
 そして堂々と見ろと言う勝山の言葉に対抗して、さあ来い、と言わんばかりに腰に手を当てている彼女の胸元を真正面から堂々と見た。

「言いたいことがあるならハッキリ言いな」
「随分と立派なものをお持ちで。なんだろう、嫉妬を通り越して切ない気持ちになりました」

 そう言うと勝山は豪快に笑った。

「それでいいんだよ。わざとらしく笑顔を張り付けて媚びるんじゃないよ。女の武器は、他人の為に作る笑顔でも、他人に媚を売る技術でもない。覚えときな、黎明」

 勝山は得意気な顔で笑ってそう言う。この勝気な勝山と、あのいつも飄々としている終夜(しゅうや)を掛け合わせると、一体どんな化学反応が起きるのか。なんて考えているあたりが、出鼻をくじかれた感が否めない。敵地に乗り込む様な気持ちで丹楓屋に入ったというのに、毒気を抜かれた気分だ。

「あまり黎明をいじめないでください」

 明依は後ろから聞こえた声に振り返った。明依はその声の主を知っていた。明依の視線に気付いた彼女は、悪戯な笑みを浮かべた。

「私は無駄に外面のいいヤツは嫌いなんだよ」

 勝山はふてくされた様な顔でフンと鼻を鳴らすと、腕を組みながらそう答えた。

「そう言えば、表に素敵な殿方がいらっしゃいましたよ。なんでも、桜を縫って刺す陽光の中で、酒の相手をしてくれる方をお望みだとか」
「それを早くいいな」

 女がそう言うと、勝山は胸元をさらに大きく開けて明依に見向きもせずに足早に立ち去って行った。どうやら彼女にとってその行為は、一般人で言う所の襟を正す行動と同じ意味らしい。天性の男好きという噂は本当の様だ。
 勝山を視線で追った女は、ひとつ息を吐いて明依に向き直った。

「久しぶりね、黎明」
「本当にお久しぶりです。十六夜(いざよい)さん」

 十六夜は、元は満月屋の竹ノ位だ。その頃から将来を期待される有望な遊女だった。当時から大夫と並んでも何ら引けを取らない美貌の持ち主だったが、今もそれは変わりない。
 あまり自分の事を語りたがらない十六夜に、明依はどこかミステリアスな印象を持っていた。(よい)から聞いた話によれば、勝山に憧れて自らこの丹楓屋への異動を希望したのだという。

「またあなたと一緒に働けるなんて嬉しい。ここも対して勝手は変わらないわ。何かあれば遠慮なく聞いてちょうだいね」
「十六夜さんがいてくれるなら、心強いです」

 そういう明依に、十六夜は薄く笑った。

「見知った人間の方がいろいろと聞きやすいでしょう。黎明の事は私にお任せください」

 十六夜は蚊帳の外だった丹楓屋の楼主に薄く笑ってそう告げた。それから彼の返事も聞かずに先を歩き出した。「まったく、勝山にそっくりだ」とため息をついた丹楓屋の楼主が不憫に思えた明依は、彼にぺこりと頭を下げて十六夜の後に続いた。

 それから十六夜は座敷の場所や決まりなどを丁寧に教えてくれた。聞いている限りでは確かに勝手は大して変わらない。仕事の方は何とかなりそうだった。

 十六夜は終始何かを言いた気にしていたが、人がいる場所では言いにくい事の様だ。それが宵の事であると想像するのは難しくなかったが、満月屋同様に丹楓屋も人の多い妓楼であったことが幸いして、その話題について語らすに済みそうだった。

 話を聞いている限り、清澄と炎天(えんてん)それから叢雲(むらくも)主郭(しゅかく)の重役たちは、誰も宵を犯人と思っていない。

 だから、宵を主郭から連れ出すことが出来れば、守ってくれるに違いないと明依は確信していた。問題なのは、終夜からどう鍵を奪うのかという結論がまだ出ていない事だった。

 夜が訪れ、ある意味では丹楓屋での本当の一日が始まろうとしていた。
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