造花街・吉原の陰謀

13:この世界に神様はいないと哭いた

「日奈、あの」

 最悪の形で知られてしまった。こんな事なら、あの時日奈にちゃんと自分の口から説明しておけばよかった。今となってはもう、何を言ってもいい訳の様にしか聞こえないだろう。

「無茶しないでって言ったのに。心配なんだよ、どうしてわかってくれないの」

 わからない訳がない。明依だって同じように日奈の事を心配しているからだ。俯いて呟く様な小さな声で言った日奈は、顔を上げて宵を見た。

「宵兄さんも宵兄さんだよ。明依の性格、知ってるでしょ。もう危ない事はするなって、もっとちゃんと言ってよ!明依の事が大切なら、ちゃんと怒ってよ!」
「待ってよ、日奈。宵兄さんは、」
「明依、いいから。……日奈、俺の管理監督責任を問う日奈は何も間違っていない。今回の事は俺の招いた事態だ。だからそのことを踏まえて、もう一度きちんと明依と話す事にするよ」

 違う、そうじゃない。今回の事態を招いたのは終夜だ。終夜が旭を殺した犯人だと決めつけて宵を連れて行った。
 周りが見えなくなるほど声を荒げて、しかも誰かを非難する日奈を見るのはこれが二度目だ。それを落ち着かせるように、宵は冷静な口調でそういう。

「今日はもう休もう」

 そういって宵は急かすように明依の背を押して部屋に誘導した。

「違うよ、悪いのは宵兄さんじゃない。ちゃんと説明させて」
「明依、部屋に入るんだ」
「私が、私が勝手にしたことなの」

 宵の制止を遮って、廊下に佇む日奈に向かってそういった。

「勝手にしたことだから、宵兄さんの責任になるんだよ。明依はいつもそうだよ。旭の時も、宵兄さんが連れていかれる時も。今回だって、後先考えないで行動して、心配する事しか出来ないこっちの身にもなってよ!」

 まさか日奈がここまで終夜を危険視しているとは思っていなかった。それならば尚更理解できなかった。叢雲から、終夜をかばう事は主郭に目を付けられることだと忠告を受けてもまだ、思い出に縋って終夜を信じている。終夜は危険だと認識しているにも関わらず。

「心配してるのは自分だけだって思ってない?」

 一呼吸おいて口から出た言葉は、自分でも驚くほど冷たい声だった。

「私だって心配してるんだよ。終夜が吉原の中でどんな立ち位置にいるのかわかってるくせに、庇う様な事言って。あの男がどれだけ酷い事をしているか、何も知らないくせに!」
「違う。終夜は、そんな事しない。信じない!何も知らないくせに、勝手な事言わないでよ!」
「二人とも止めないか!」

 宵は今にもつかみ合いになりそうな二人の雰囲気を察して二人の間に入った。

「明依なんて、大嫌い!」

 日奈の目には、目を見開いた自分の顔が映っている。日奈ははっと息を飲んだ。

「私も、日奈なんて大嫌いだよ」

 向かい合って嫌いだと言った癖に、日奈は悲痛な面持ちで俯いている。そしてそれは明依も同じだった。

 わかってる。口からついて出ただけの軽い言葉だって事くらい。わかってるよ。どれだけ心配して、どれだけ大切に思ってくれているかくらい。誰よりも、一番近くにいたんだから。誰よりも大好きな人に向かって嫌いだと口走った自分が一番許せなくて、ごめんなんて安い言葉で片付けられない事も、同じ気持ちだって事も、ちゃんと全部わかってる。

「もうやめるんだ、二人とも。今日は部屋に戻って休みなさい」

 そういう宵に背を向けて、明依は自室に入った。酔いもとっくに冷め切った。布団にもぐりこんでも眠れるはずもなく、ただ溢れる涙を何度も拭いた。





「明日の雛菊大夫のお披露目の花魁道中、楽しみですね!」
「うん、そうだね。凪は仕事なの?」
「そんな訳ないじゃないですか!しっかり休みを取りました。最前列でこの目に焼き付けるんです!」

 凪はそういって、自分の目を指さした。満月屋の一階にある談話室として使われている大きな座敷の中で、明依と凪はお茶を飲んでいた。

 所謂スタッフルームの様な場所だが、満月屋の中に自室がある明依は普段この談話室は使わない。主に梅ノ位に向けて解放されている場所だ。

 これほど長い間日奈と口を利かなかった事はない。ほとんど日奈と一緒にいた為時間があるときに何をしていいのかわからずウロウロしていたら、凪がお茶でもどうかと声をかけてくれた。

 朝から外は雨で、とても外に出ようという気にはなれなかった。雨の日はどうしても、旭が死んだ日の事を思い出してしまう。

「竹ノ位の人って正社員なんですか?」
「うん、そうだよ」
「どうやったらなれるんですか?」
「芸事だね。三味線とか習字とか、礼儀作法とか」

 相容れない存在だと思っていた梅ノ位の女の子達ともそこそこ話せるようになってきた。そして質問攻めに合うのだ。しかし、これらは全て吉原に裏側があることを知られない為、主郭が用意しているマニュアルに沿って回答する事になっている。

「私、小さい頃から色々習い事しているから竹ノ位で採用される自信あったのに、なんでなんだろう?」
「なんでなんだろうね。宵兄さんに聞いてみたら?」

 そして、自分に回答出来ない事は全て楼主に振る。吉原はそうやって注意を払う事で、表と裏を分断しているのだ。ちなみに、意図してこのマニュアルを破った遊女は決まって足抜け、つまり吉原から忽然と姿を消すらしい。改めて、吉原という場所は本当に恐ろしい。

「そんな事より!今日は雛菊さんが明日の花魁道中で着る衣装の最終確認をするはずですよ!一目でいいから見たいなァ。何時にどこの部屋でやるんだろう?黎明さん知らないんですか?」
「最終確認する事も知らなかったよ。凪、何でそんな事知ってるの」
「アンテナ張ってますから」

 凪は胸を張ってそういう。
 日奈が他の妓楼の大夫への挨拶回りも済ませたらしいという事も凪から聞いた。当然、着物や装飾品も選び終えているだろう。

 本当ならきっと、挨拶回りの前には緊張する日奈を励まして、着物や装飾品もどれが似合うかなんて話しながら決めていただろう。
 あの日以来ずっと、廊下ですれ違った時にはお互い気まずくなって目を逸らす。一言も会話をしていなかった。こんなに互いの気持ちは理解しているのに。

 日奈の話が盛り上がっても上手く返答できる自信がなかった明依は、凪達に挨拶をしてさっさと談話室を出た。

「明依」

 後ろから肩を叩かれて振り返ると宵がいた。

「とうとう明日だな」
「そうだね、楽しみだねってさっき凪達と話してたの」
「まだ日奈と仲直りしてないのか?」
「うん、話もしてない」

 宵への衝動的な気持ちの行方は不明だ。先日、宵は日奈との約束通りに明依を部屋に呼び出して、危険な行為は控える様に話をした。

 その時にやはり楼主と遊女の関係なのだと改めて認識することになった。あの時『互いに想う気持ちが重なることがあれば、その時一緒に考えよう』と宵は言ったが、楼主と遊女という明確な関係性を宵が崩さない限り、そんな日は訪れない。

 あの夜はおそらく互いのいろいろな要因が絡まって、奇跡的な確率で起こったのだろう。

 そう考えると、宵の思惑通りになっている様な気がして悔しいので、選択を間違えば二度と出てこない乙ゲーの隠しキャラとのイベントだったと思う事にしていた。

 現実世界でよかったな。乙ゲーくらい単純な世界だったら、もしも選択を間違ったのだとしても『本当に、かわいいな』と頭を撫でた時点で、押し倒して着物引っぺがして無理矢理裏ルートに繋いでるからな。と言いたい放題の脳内乙ゲーヒロインだが、実際に宵を見ると一目散で散っていく。

「引きずってもいい事はないよ」

 そう。結局の所、宵の事に意識を向けて日奈との事から目をそらしているだけだ。

「明依!」

 急に大きな声で呼ばれて、明依はびくりと肩を浮かせた。
 少し離れた所に日奈が立っていた。勢い余ったのかはわからないが、自分で大きな声を出しておいて少しあたふたとしていた。

 そんな様子が相変わらず可愛いなと思っている時点で、もう答えは出ている様なものだった。いや答えなんてきっと、嫌いだと口走った時から決まっていた。

「あの、ちょっといいかな?今」

 それから小さな声でそう言う。
 あれからなるべく考えないようにしていたから、答えが決まっているとは言っても、急に日奈と話す事になってもどうしたらいいかわからないというのが正直な所だった。

 明依は宵に背中を押されて数歩前に出た。振り向けば宵が優しい顔をして笑っている。明依も宵に笑い返してから日奈の元へと歩いた。
 横並びで歩きながら、何一つ喋ることなく人気のない廊下で立ち止まった日奈に、明依も釣られて立ち止まった。

「大切な話があるの。本当に、大切な話。夕方、私の座敷に来てくれない?」
「うん、わかった」

 この廊下でもいいのではないかと思ったが、日奈の有無を言わせない態度に明依は頷いた。大切な話。思い当たる節があるとするならば、過去を清算したいという類の話だろうか。

 竹ノ位、遊女は15歳の頃には、客を取りはしないものの芸事をほとんどをある程度こなすことが出来る。

 そんな環境に明依は15歳の頃に飛び込んだ。
 ぽっと出の何も出来ない女が現在の吉原で4人しかいない大夫の世話役に抜擢されるなんて、他の遊女からすればこれほど面白くない話はないだろう。

 しかし、日奈は違った。自分は幼いころから吉原に縛り付けられて苦しい思いをしているはずなのに、それを全く感じさせない程親身になって色んな事を教えてくれた。
 だから明依は、外の世界の事を話して聞かせた。それをいつも、おとぎ話を聞く子どものようにキラキラした顔で聞いていた。自分が誰か役に立てている事が嬉しかった。
 遊女からの止まらない悪口と過密スケジュールに精神的に参っていた明依を守ってくれたのもまた、日奈だった。
 明依が芸事の稽古に集中できるように、吉野大夫の身の回りの世話を一人で引き受けた。

 そしてどちらかと言えば内気な性格にも関わらず、悪口を言う女たちに『明依はいつか松ノ位になるんだから!』と目に涙をいっぱいに溜めて、震えながら言った。日奈が誰かに敵意を向けたのを見たのは、あれが初めてだった。

 いつだって日奈は、大切に思ってくれていた。もし日奈が、過去を清算したいのだと言ってきたとしても誠心誠意謝ろう。そんなことを考えている間に、あっという間に夕方になった。

 明依は深く短く息を吐いた後、日奈の座敷に続く廊下を歩いた。

 まだ少し距離のある日奈の座敷の襖が開いた。もともと座敷に近づくにつれてドクドクうるさくなっていた心臓が大げさに跳ねた。まだ完全に心の準備が出来ているわけではなかった。廊下で日奈と遭遇したら、なんて声をかけたらいいんだ。それから間もなく、明依は全身から血の気が引いた。

 日奈の座敷から出てきたのは、終夜だった。

 終夜の表情は髪に隠れて全く見えない。終夜が近づいてきても、日奈の座敷の襖から目を逸らすことができなかった。明依は、隣を通り過ぎようとする終夜の着物の袖を震える手で掴んだ。

「なに、してるの……こんなところで」
「離せ」

 終夜はたった一言そう呟いて、明依の手を振り払って去っていった。

「雛菊は顔が綺麗だからあの青い着物も似合ったんじゃないかねェ」
「こういうのは本人が気に入ったのが一番に決まってるよ。それにしてもねェ、あの子の事は小さいころから見ているけど、私は一目見た時からあの子は大夫になる器だと目をつけてたのさ」
「またその話かい。アンタのその話はここ数週間で聞き飽きてるんだよ」

 向かいからそう言いながら、日奈の身支度を手伝っているであろう二人の女がやってくる。そして「雛菊、はいるよ」と声をかけて何も躊躇わずに日奈の座敷の襖を開けた。しかし、部屋に入るよりも先に持っていたものをその場に全てぶちまけて、甲高い声を上げた。一人は駆けだして、一人は腰を抜かしたまま日奈の座敷から離れようと必死になっている。

「誰か……!誰か!大変なんだよ!ろ、楼主を、宵さん呼んできな!」

 そんな声を遠くに聞きながら、明依は座敷に一歩一歩近づいて行った。

「黎明!見るんじゃないよ!黎明……!」

 遠くから聞こえるその声を意図的に無視しようと思ったわけでもないし、だからと言って何か反応を示そうと思ったわけでもない。

 なんだか今起こっているすべてが、別の次元で発生しているような、自分には無関係の様な。この感覚は知ってる。いつだっけ……旭だ。旭がどうした時、この感覚がしたんだっけ。ダメだ、これ以上先は真っ白で、何も考えられない。

 正面から見た座敷は、真っ赤だった。いたるところに飛び散っているのは、血だ。その中央には、血まみれで横たわる日奈がいた。日奈の側にへたり込んでしばらく、頭が一切働かなかった。それからゆっくり、日奈に視線を移した。

 豪華絢爛を凝縮したような花魁衣装も、日奈が着れば少し穏やかに見える気がした。着物はほとんど血で真っ赤に染まっている。
 着物の一部は大きく切られた様に裂けているのに、肌が見えないよう丁寧に重ね合わされていた。日奈の頭には旭が渡した雛菊の簪。それからもう一つ、同じデザインの簪が飾られている。それが清澄の店で見る事が出来なかった最後の一つの簪であることはすぐに分かった。

 擦って拭き取った様な滲んだ顔の血。この惨劇の中で異色の、日奈の穏やかな笑顔。

 世界を俯瞰で見ていると錯覚するほど、極めて冷静。心の内に風ひとつふかない冴え切った感覚。いや寧ろ、感情というものを除外した世界にいる様だ。長続きしないことはなんとなく分かっていた。

「ねえ、日奈。何で、笑ってるの……?」

 日奈の綺麗な顔を見つめながら、明依は口を開いた。何も答えない日奈に触れようと手を伸ばしたが、途中で手が動かなくなった。

 もしもあの感触がしたら、旭に触れた時と同じような、人間の柔らかい肌とは思えない無機質な感触が手に伝わったら。

 ほらもう、無風の世界が陰り始めてきた。

「お願い、誰か……誰か、来て。日奈が、」
「こっち!こっちです宵さん!黎明が中に入って行って、」

 今日は朝から雨だったか。きっと今、外は土砂降りだろう。旭がいなくなった日も、こんな雨の日だった。

「日奈!」

 宵は焦った様子でそういって、足早に明依の横に座り日奈の手首に触れた。
 何も言わないでほしい。一秒でも長く、この世界の中にいたいから。

「……宵兄さん」
「明依、落ち着くんだ」
「夕方この座敷に来てって言われたの。本当に大切な話があるって。……そんな訳ないよね。だって私まだ、日奈からなんの話も聞いてないんだもん」
「明依」
「日奈に一言も謝ってない。大嫌いだって言ったこと、本当は誰よりも大好きだって、伝えてない。この着物、何でこれにしたのかとか、何の紅をつけるのかとか、何も聞いてない」
「明依、落ち着いて聞くんだ」

 そういって宵は、日奈の手を下ろした。
 何も言わないでほしい。この世界から引きずり出そうとしないで。

「もう、死んでる」

 宵が下した日奈の手から落ちたのは、明依が日奈に渡した櫛だった。櫛についた血は、日奈の掌に滲んでいた。ああ、やっぱり気持ちは一緒だった。そうだよね、分かってた。だって、ずっと一緒にいたんだから。

 今更どう思った所で、死んだ日奈の気持ちは一方通行。日奈から与えられているだけで、明依が日奈に何かを与えた訳ではない。

 何事にも終わりがあることを知っていた、はずだった。精一杯誰かと向き合うというのは、なんて難しいんだろう。こんなことになるなら……。こんなことになるなら、何だ。何も学んでいないじゃないか。旭の時、全く同じことを思ったはずじゃないか。

 強がってただけなの。日奈が心配してくれている気持ちは痛いほどよくわかってる、だからごめんなさい。嫌いなんて言ったけど、本当は大好きなんだ。

 たった1分かからずに言い終えるその言葉を、言い渋った。そんな人間は、何事にも終わりがあることを知ってなんかいない。素直に口にできていたら、もっとずっと前に『その着物よく似合ってる』と何のためらいもなく日奈に言って、花が咲いた様に笑う日奈の顔が見られたはずなのに。

「日奈、私、」

 旭が死んだとき、縋った。これからも生きていかないといけない自分の為に。〝私、〟その言葉の続きは何だ。まさか同じように縋ろうとしているのだろうか。
 生きていたかった人の前で、生きている人間が。許してくれた人の前で、許さなかった人間が。当然、言葉なんて何一つ出てこない。

 日奈に縋りついて、子どものように声を出して泣いた。嫌だ、嫌だと泣き喚いた。死んだなんて嘘だ。だってまだ、こんなに温かいのに。離れたくない、ずっと一緒にいたい。

 生まれてからずっと何も与えなかったくせに、やっと手に入れたささやかな幸せさえ奪っていく。余るほど幸せを持っている人間なんて、真っ当に生きていくことを許された人間なんて、掃いて捨てる程いるくせに。

 きっと、この世界に神様はいない。

 四月某日、明依の中の世界がまた一つ、消えた。
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