造花街・吉原の陰謀

14:垣間見える舞台裏の真実

 日の光を余すことなく集めた様な、温かさだけを抱いた様な世界の中にいる。

 日奈が笑っている。
 それを見た旭が、慈しむような優しい笑顔を向けている。

 旭ってそんな顔もできるんだね、って茶化せば、旭は顔を赤くしてやめろよなんて可愛い事を言ってそっぽを向く。

 ほらやっぱりあれは夢だったんだ。そうだよね、日奈と旭がいなくなった世界なんて辛すぎて生きていけるはずなんてないんだから。想像すらできない。そんな残酷な世界。

 ずっとこうやって三人で一緒にいる。旭の欠伸に釣られたとか、何もない所で日奈が躓いたとか、どんなささやかなことだって笑えてくる。
 そうやって笑えるなら、他に何もいらない。

 日奈と旭が遠くにいる誰かに向かって大きく手を振って、手招きをした。一向にこちらに来ない誰かの元に、旭が駆け寄っていく。
 日奈に手を引かれて、走った。
 誰だろう、誰でもいいや。

 こうやって二人と一緒にいられるなら。だからずっと、このまま……

 こんな夢を一体後何度見れば、気が済むのか。
 そしていったい何度、泣きながら目を覚ませば気が済むのか。明依は頬を伝って流れ落ちた不快な涙を着物の袖で強引に拭った。

 日奈が死んだ日から、何にも興味が湧かなくなった。よく色を失った世界というが、その意味がよくわかる。
 どうでもいい、何もかも。食事を食べない事、よく眠れない事、誰から心配されようと、感謝の気持ちすら湧いてこない。うっとおしいとも思わない。だから本当に、どうでもいい。

 いっそ人生すら自分の手で終わらせようかとさえ思う程だ。
 そう思えば、急に涙が溢れだしてきて、堪らない気持ちになってくるのだ。そんな日々を繰り返している。

 明依は布団から出た。まだ夜中だというのに、目が覚めてしまった。

 もう誰もが眠っている時間だ。
 妓楼は静寂に包まれていて、宵の自室の部屋の明かりも消えている。

 明依はとぼとぼと満月屋の外に出た。旭を殺した犯人も、日奈を殺した犯人もまだ捕まってはいないのだ。危機管理能力が薄くなっている事には気付いていた。

 それでも、別にいいや。と思ってしまう。
 桜の花は散って、吉原の春が終わろうとしていた。春の木漏れ日の様に暖かくて、花の様に笑う日奈を置き去りにして。

 吉原は、雛菊大夫はお披露目前日に急死と発表。
 夢の目前で悲運の死を遂げた雛菊大夫の話で、吉原内は持ち切りとなった。
 この様子ではきっと、世間も同じ反応を示しているのだろうが、それを知る術は吉原の遊女にはない。

 日奈は明らかに、誰かに殺された。
 しかし、警察は来なかった。

 これも何か、吉原の底なし沼と関係しているのだろうか。
 明依はもう、分からなくなっていた。

 旭は犯罪組織に身を置いていたのだから、安全でない事くらいわかっていたのではないかと思う。ここ最近で感じた吉原の街の裏側から想定すれば、それが危険な世界なのだろうと何となくわかってくる。

 しかし、どうして日奈が死ななければいけなかったんだろう。
 終夜を庇う様な発言をしたからなのか。

 しかし、吉原に反した考えを持っている遊女はいつも忽然と姿を消すものだ。あんな悲惨な死に方をしたりしない。

 あれだけ深い傷を身体に刻まれていたのだ。痛くない、辛くない訳がなかった。日奈はどうして、あんな穏やかな顔をしていたのだろう。

 日奈の座敷から終夜が出てきたという事実だけで殺したと断定するには、あまりに異様な様子だった。

「こんばんは、黎明さん」

 明依は視線を上げた。道の真ん中には、朔が立っていた。梅ノ位の女達はとっくに帰っている時間だ。一体どうしてここに、当たり前の様に立っているのか。

「何してるの、こんな時間に」
「黎明さんに会いに来たんです。知ってほしくて、私の秘密」

 言葉の続きを待つ明依に、朔はニコリと笑った。この感覚は、終夜が座敷で醸し出した雰囲気に似ていた。生存本能が警告を鳴らす、そんな感覚。

「私が雛菊さんを殺しました」

 そういって朔が取り出したのは、短刀だった。

 全く理解が、整理が出来ない。

 朔は宵が終夜に連れ去られてからというもの明依や日奈をよく思っていなかったことは、あの態度から明白だった。
 しかし、どうして。

 朔のいう事が本当なら、終夜はいったいあの時日奈の座敷で何をしていたのだろう。そんなことが頭の中でぐるぐると回っていた。

 来た道を必死に走って戻った。どうして今、自分が朔に殺されようとしているのか、どうして朔が日奈を殺したのか、何もわからない。疑問をまとめる余裕もない。

 しかし、追われているのに足音一つ聞こえない様子を異常に思い振り返ってみれば、すぐそばで朔が短刀を振り下ろそうとしていた。
 それを運よく避けて、バランスを崩しながらもなんとか裏道に入った。あの足音一つ立てない様子は、終夜と同じだ。

 立てかけてある箒や竹に括り付けられた旗や笠や籠、とにかくその場にある物を走りながら朔の方へと放っていった。しかし、朔は同じ人間とは思えない様な軽やかな動きでそれを避けていく。

 積み重なった木の箱やカゴが入り組んだ細道の様になっていて、その形をよく覚えていたのが不幸中の幸いだった。

 しかし、曲がり角を曲がってすぐ、誰かに手を引かれて抱え込まれ物陰に身を潜めた。朔は明依に気付かずに、雑多にものが置かれた裏道を走っていく。

「明依、大丈夫か」

 状況を理解するより前に小さな声そう問いかけられ、顔を上げた。

「宵兄さん、どうして」

 側にいるのが宵だと認識すれば、たちまち硬直していた身体から力が抜けてその場にへたり込んだ。

 人生すら自分の手で終わらせようかとさえ思う程考え込んでいたくせに、いざこうやって殺されかけると死への恐怖に支配されてそんな考えは脳内をよぎる事すらしないらしい。
 人間の生への執着というのは凄まじい。そんな事をどこか他人事の様に考えていた。

「明依が出て行くのが見えたから、変な気を起こしているんじゃないかと思って見に来たんだ。そうしたら朔が……とにかく戻ろう」
「でも、」

 戻ろうと言われても、腰が抜けてしまって動くことが出来そうになかった。あの人間離れした動きはなんだ。きっと物を投げていなければすぐに追いつかれて殺されていただろう。

 終夜と朔がたまたま異常なのか、それともこの街が異常なのか、まとめるには材料の少なすぎる疑問が、ずっと脳内に浮いている。

「こんなところにいた」

 朔は綺麗な笑顔を浮かべて立っていた。庇うように明依の肩に手をかけた宵は、朔を見て息を吸った。

「朔、話をしないか」
「はい勿論、喜んで。でもまず、その手を離してもらえますか。凄く、不快なので」
「……わかった」

 顔をしかめる朔に宵はそういうと、明依から手を離してしゃがんだまま朔へ向き直った。

「悪いけど、話は全部聞いていた。日奈を殺したのは朔で間違いないんだな」
「はい、間違いありません」
「朔。お前は〝(かげ)〟だな」
「ええ、そうです」

 顔色一つ変えずに二人は淡々と会話している。〝(かげ)〟というのは一体何なのか。

「それなら日奈を殺したことに理由があるはずだ。それに、明依を襲おうとした事も、分かるように説明してほしい」
「わかりました。では、黎明さんも私の話をよーく聞いてくださいね。私の任務は、満月楼の人間が吉原に仇なす存在ではないか、主郭に危害を加える存在ではないか、また遊女が主郭に忠誠を誓った楼主に反抗的ではないか、遊女が裏と表の境界線を崩そうとしていないか等、全般的に妓楼を見張る事です」

 朔のその言い方から、どうやら〝(かげ)〟というのは主郭から派遣された人間の様だ。宵の様子から、その見張りというのが誰なのか、楼主にも知らされていないのだろう。

「雛菊を始末した理由は一つではありません。旭さまが死んだ今、吉原を解放したいという思想を持っているという事は反逆行為です。次に、〝吉原の厄災〟を庇う様な発言をしていた事。ご存じの通り、旭さまが死んでからというもの、吉原は終夜さまを危険分子として注意している訳です。まあこの二つについては賛否あるかもしれませんが、あくまで私の主観です」
「そんな理由で……そんな、主観なんて曖昧な理由で、日奈を殺したの……?」
「明確なガイドラインがないので、多少は粛清者の主観に頼るしかないと思いますけど」

 朔は鼻で笑った後、バカにするような口調でそういった。

 明依は唖然とするしかなかった。今の朔の態度を見ていると、大夫になるという夢を持っていた日奈を、大夫昇進前日に殺した事も偶然ではない様な気がしてくる。

「でも、それだけじゃないんです。あなたが終夜さまに連れていかれてからあの女の取った行動は、楼主への反抗にあたります。……あの時私には、主郭から何一つ報告がなかったんです。ひどい話ですよね」

 花祭が始まる前、凪と部屋に来た時の朔は『どうして誰も、何も、教えてくれないの』と言っていた。終夜がこの件に独断で動いていたのなら、主郭の人間も朔に説明の一つさえできなかったのだろう。

「あなたの事をこそこそと嗅ぎまわっていました。あの日終夜さまに宵さんが犯人だと誑かされたからでしょうか。私には雛菊さんが到底理解できません」

 日奈が終夜の一言でそこまで動いていたとは夢にも思わなかったが、日奈は宵が満月屋に戻ってきたときに宵の無実について叢雲に説明を求めていた。

 そのことを考えれば合点がいく。日奈は何を思っていたんだろうか。宵の無実を信じていたのだろうか。ただ、真実が知りたかったのだろうか。

「でも本当はどうでもいいんです、そんな事。本当は、ずーっと殺したくて機会を伺ってました。目障りだったんです。あなたに擦り寄っているのが、虫唾が走るほど。あの女は、可愛い顔して裏では何考えているのかわからない女狐ですよ。……そして私は今、喋ってはいけない事を喋っているので、それを聞いた黎明さんと宵さんも殺します」

 朔はそういうと、宵に向かってニコリと笑いかけた。

 怒りが恐怖を横目に通り過ぎる。
 何も知らないくせに、どうして日奈がそんな風に言われないといけないのか。

 余りに命知らずな行動である事は分かってはいたが、一言言わなければ気が済みそうにもなかった。

 そんな明依の様子を察したのか、「明依」と小さな声で窘める宵の声で明依は少し冷静になった。宵を巻き込んでおいてそれは余りに身勝手だと思い直し、明依は唇を噛みしめた。

「また随分と曖昧だね。それなら俺も主観で話をさせてもらうけど、主郭から粛清されるべきは朔じゃないのか。あんな殺し方をすれば、騒ぎになるのは分かっていたはずだ。それは、裏と表の境界を崩そうとした事にはならないのか」
「大夫になりたくてもなれない人間なんて、吉原には掃いて捨てる程いるんです。怨恨による犯行って事で片付けるのはそんなに難しい話じゃないと思いますよ」
「到底納得出来る話じゃないな」

 ここで何を言っても無駄だと判断したのか、宵は深く息を吐いた。

「俺はただ、明依と二人で帰りたいだけだ。それは出来ないんだな」
「二人で帰る?そんな事は絶対にありえない。あなたたちは、別々の場所で殺すんです。お望みなら、宵さんだけ死ぬ場所くらいは選んでください」

 朔は、さも当たり前の様にそう言ってのける。狂っているとしか言いようのない朔の様子を、宵は大して気にしていない様だ。

 どうしてそこまで冷静でいられるのだろうか。
 この環境で、もしかして感覚がずれているのは自分の方なのではないかと思わされる。

「好きなんじゃないの……?宵兄さんの事」
「好きという言葉は薄っぺらい気がしますが、そうですね。でも、大丈夫です。私が殺せば私のモノ、という思考が分かる気がするんです。あなたとなら」
「もういい、わかった」

 宵は感情の読み取れない口調でそう言うと、明依の手を握った。明依から宵の表情は見えない。

「明依。不安でいっぱいの所申し訳ないけど、聞いてくれ」
「本当に気分が悪い。先に宵さんから殺す事にします。黎明さんが死んで悲しむ所なんて見たら、興を削がれそうなので」

 朔は明依と宵の繋がれた手を見てそう言いった後、短刀を持ったままゆっくり歩いてくる。

「少しの間目を閉じて、俯いて」

 宵に言われた通り目を閉じて俯いたが、そうする前のほんの一瞬、宵は懐に手を入れながら立ち上がろうとしていた。

 宵の事だから何か目的があるのだろうと分かってはいるのだが、死ぬかもしれない状況で目を閉じるというのは恐怖という一言では語りきれそうもない。

「怖いよな。でも大丈夫、信じて。俺が肩を叩くまで、耳を塞いでいてほしい」

 懐に忍ばせたその手には何があって、一体何をしようとしているのか。
 そんな疑問を他所に、明依は言われた手を自分の耳元まで移動させた。

「みーつけた」

 場違いな明るい声に、明依は思わず目を開けた。

 まず見えたのは、朔の怯えた顔だ。
 そして明依が瞬きをした一瞬で視界の中に入ってきたのは、終夜だった。

 終夜は朔の後頭部を掴むと、思いきり壁に打ち付けて朔の持っている短刀を奪った。

「お前もう、喋らなくていいよ」

 反動で壁から離れた朔の顔面からは大量に出血している。

 終夜は朔の髪を引っ掴み、奪った短刀で首元を切りつけた。
 尻餅をつき、怯えている朔の顔は血まみれで目には涙が溜まっている。

 終夜はあの無機質な顔でそんな朔を見下ろしていた。

 あまりの速さに、脳の処理が追い付かない。
 恐怖を感じる状況も、ただ映像として目の前を流れているようだった。

「反省も謝罪も必要ないよ。だからそんなに怯えなくていい」

 戦慄する朔に近づいた終夜は、彼女の片腕を踏み付け、もう片腕を足の膝で抑えつけて跨ってしゃがみ込んだ。

 終夜が体重をかけた瞬間、骨の折れる嫌な音が響いた。

「聞いてあげるよ。最後に何か言い残すことはある?」

 言ってごらん、とでも言いたげに終夜は笑みを作って首を傾げた。

「ああそっか。ごめん、うっかりしてた」
「明依!目を閉じろ!」

 終夜の言葉の最後を聞き終えてすぐ、側に立っていた宵は明依に向かってそう叫んだが、反応することが出来なかった。

 これから起こる事を見たくないと思っている、だから目を閉じなければいけない事も分かっていた。

 頭では分かっているのに、身体がついていかない。
 終夜が朔に短刀の切先を向けて振り上げている。

「お前もう、声でないんだっけ」

 目を見開く朔に向かって振り下ろされた短刀。

 その映像を遮ったのは、宵の着物の袖だった。
 宵に強く抱きしめられて視界はおろか、着物が耳元で擦れる音で周囲の音すらよく聞こえなかった。

「何も、見ていないな?」

 恐る恐る確認するような宵に、明依はやっとのことで頷いた。

 それからすべての恐怖がまとめて襲ってきたかのように、身体が震え、息苦しくなってくる。
 すぐに身体を離した宵は、明依の背中に優しく触れた。

「大丈夫だ。ゆっくり息をして」
「とうとう底なし沼をのぞいちゃったね」

 いつの間にかすぐ側に来ていた終夜は、明依に向かって薄く笑いかけた。

「吉原の裏側には敵が多いんだよ。日陰者の同業者、海外マフィアに国家の犬。潜り込まれる可能性が高い分、こっちも特殊部隊を組んで内外からの反発に対抗できるようにしてある。それが通称〝陰〟って組織だ。売られてきた子ども達の中から選ばれ、教育されている。アンタも知ってる叢雲が、管理調整をしている組織だよ」

 今まで平和に暮らしていた事が嘘の様に思えてくる話だ。これが吉原の本当の舞台裏なのだろうか。

「そんなに大切なら、目の届く所に監禁しておけば?」

 終夜は明依から宵に視線を移して、薄笑いを浮かべてそう言った。

 何も返事をしない宵の懐辺りに視線を移した後、終夜は言葉を続けようと口を開いた。

 そんな最中、明依の視界の端には立っている二人の人間の姿があった。

 双子の様なそっくりな容姿をした男女の姿。

 明依が視線を移した時には既にその姿はなかったが、宵も終夜も明依と同じ方向を見ていた。

 〝双子の幽霊〟。

 吉原に入ってまず一番最初に聞く怪談話はこれと決まっている。

 もし遭遇しても、目を合わせてはいけない、声をかけてはいけない、関わってはいけないという事は、吉原の暗黙の了解となっている。

「どうやらここにいる誰かが、台風の目らしい」

 呟いた後、終夜は視線を上げた。
 それを合図に物陰から出てきたのは、夜の闇に紛れる様な黒い服を着て顔を隠した人間だった。

「血が飛んだ。片付けといて」

 終夜はそう言うと、宵と明依に背中を向けた。そして横たわる朔の髪の毛を掴むと、ずるずると引きずりながら歩き出した。

「じゃあバイバイ。またすぐ、会う事になると思うけど」

 そう言った終夜は、夜に紛れて消えていった。
 花の眠る夜にふくぬるい風が、春の終わりを告げている。

 この街は本当に、旭と日奈のいた温かくて平和な吉原なのだろうか。

 明依の中の吉原という街が大きく音を立てて変わっていく。
 それは、別世界に迷い込んだような感覚だった。
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