造花街・吉原の陰謀

12:表と裏

 格子から女性を選び、酒や料理を楽しむ座敷を〝表座敷〟。
 それ以外を〝裏座敷〟という。

 表座敷でメインとなるのは梅ノ位ではあるが、その場を円滑に回す為に竹ノ位の遊女が一人以上いる事が好ましいとされている。
 竹ノ位の座敷と梅ノ位の座敷は雰囲気もさることながら、随分と仕様が違う。
 
 まず、梅ノ位の座敷では、妓楼の外から派遣されてやってきた芸者が三味線を弾いている。
 名の知れた奏者を呼ぶ座敷から、吉原で芸事を嗜む三味線がそこそこ上手い人のお披露目会レベルの座敷まで、座敷のランクの幅は広くその分金額も変わる。

 一方で竹ノ位の座敷では、三味線を弾く事も竹ノ位の遊女の仕事だ。
 これは裏と表の境界線が曖昧にならない様にとの判断でありながら、吉原の表側も知っている客に〝あなたは特別ですよ〟と魅せる為のわかりやすい演出でもあった。

 客が注文した料理を運ぶ際、竹ノ位の座敷は座敷に上がっている遊女とは別の遊女が運んでくる。梅ノ位の座敷へは、遊女として吉原で勤めを終えた女性、つまり元竹ノ位の遊女が座敷を見張る意味も込めて料理を運んでくる。

 そのような女性を総じて〝遣り手〟と呼んでいるが、梅ノ位の間では〝お目付け人〟〝座敷の番人〟など明らかに揶揄して表現されていた。

 しかし以前満月屋のとある座敷で、嫌がる10代の梅ノ位に無理矢理触ろうとした客がいたらしい。
 高圧的な客で周りはどうすることも出来ず、その子はとうとう泣き出してしまった。

 座敷に上がっていた梅ノ位の一人が隙を見て廊下に出てお目付け人に泣きつくと、その女性は座敷の襖を大きく開けて中に入り「お、お触りは禁止でございますっ!」と恐怖を必死で上書きするような裏返った声で叫んだそうだ。激昂した客の騒ぎを聞きつけた宵が事を収めたらしいが、それまでお目付け人は、ずっと梅ノ位を守る様に背中に隠していたそうだ。

 それからというもの、〝お目付け人〟〝座敷の番人〟というほぼ悪口から昇格したのか降格したのかわからないが、この世にある全ての敬意と、ありったけの親しみを込めて〝お触り禁止〟というあだ名で呼ばれている。

 つい最近隣の妓楼でも〝お触り禁止〟という言葉が流行しているらしいので、この調子だときっと吉原中に広まって、梅ノ位に長きにわたって親しまれることだろう。吉原に刻まれる新たな歴史を見た気がした。

 今しがた料理を運び終えて襖を閉めた遣り手を見ながら、そんなしょうもない事を考えていた。明依は今、表座敷で観光客相手に酒を注いでいる。〝この後〟がないだけで気が楽になり、このドンチャン騒ぎの雰囲気も楽しいと思えるのだから不思議なものだ。

 明依は酔いを醒まそうと、廊下に出た。これ以上酒を飲むと頭が回らなくなり、相手に振られた話にもすぐに答えられない。

 潰れる様な事があれば、それこそ目も当てられない。
 ドンチャン騒ぎの座敷は、誰か一人が抜けた所でバレにくいというのもいい所だ。

 明依はせわしなく動く遣り手や自分の座敷が分からなくなった客を横目に一階まで下りた。明依は先日ラムネを飲んだ縁側を目指していたが、先客の姿に足を止めた。酔いを醒ますには最適な場所だが、誰か別の人がいるというのは落ち着かない。

「こんばんは」

 そんなに大きく足音を立てたつもりでもなかったが、煙を吐き捨てた後、少しこちらを振り返った晴朗はそういった。

 ここは喧噪の外側。

 しかし妓楼の中も、塀を隔てた外側も、祭りの様にうるさい事に変わりない。この状況で足音一つ聞き逃さないのは、やはり吉原の裏側の人間だからだろうか。しかし、一見大人しそうな見た目のこの男から、朔や終夜の様な身体能力の高さや狂気性があることは全くもって想像できなかった。

「こんばんは、晴朗さん。サボりですか?」
「僕は一日中サボりみたいなものですよ。妓楼の中は平和すぎる。退屈でおかしくなりそうです」

 晴朗は煙管(キセル)に口を付けた後、煙を吐き捨てた。

「今日は表座敷ですか?」
「ええ、そうです」
「この場所は、酔いを醒ますには丁度いいですね」

 そう言うと晴朗は自分の座っている隣をトントンと指先で軽く数回叩いた。

「ここに座りませんか」
「いえ、仕事中ですので。すぐに戻るつもりでしたから」
「会話をする。というのは、瞬発力や発想力が必要です。酔いが回るとパフォーマンスが落ちる事を理解して、少しでも酔いを醒まそうとする姿は、〝遊女〟というお飾り同然の立場に甘んじないという意思が見て取れる。尊敬に値します」

 大げさでは?と思った明依だったが、これ以上酔いが回る事を避ける為という理由であることは事実だ。きっと頭の回転が速い人なのだろうと、どちらかと言えば尊敬したのは明依の方だった。

「おそらく、パフォーマンスが落ちる事は本望ではないでしょう。そして僕はしばらくここを退く気はありません。つまり折衷案という事で、どうですか」

 なんだかうまく言いくるめられてしまったような気はしなくもないが、そこまで言われれば少しだけという気持ちが芽生えて、明依は晴朗の隣に腰を下ろした。「どうぞ」という晴朗に煙管を手渡され、明依はとっさにそれを受け取った。

「やはり慣れない事はするものじゃないですね。僕はこっちの方がいい」

 それからどうすべきなのかと晴朗を見たが、彼は紙巻煙草にマッチで火をつけていた。非喫煙者が、せっかくなので。という理由で吉原内で煙管をふかしてむせている所はよく見る。だから晴朗に対しても何とも思わなかったが、まじまじと見つめてしまうくらいには紙巻煙草を吸っている事は意外だった。

紙巻煙草(こっち)の方がよかったですか?」
「いや、そうじゃなくって。あの……私、仕事中なので」
「こんな祭りみたいな妓楼の中じゃ、どうせ誰にもバレません。それに揉めたら僕が解決しますよ。ここではそういう契約、そういう仕事なので」

 めちゃくちゃな理由に、明依は思わず呆れて笑った。

 晴朗が吐き出した煙は燻って空に消えた。
 明依が吉原に来る前は喫煙者すら少数派で、その中でも電子タバコを吸っている人が多かった様な気がする。だからなんだか紙巻煙草にアウトローな印象を持つのは仕方ない事なのかもしれない。

 というか、そもそもこの街自体がそういう街だ。

「勝手に座敷を抜けられてクレームを入れたのに、返り討ちに合うなんて災難過ぎませんか?それに、晴朗さんの仕事の範疇外でしょう」
「そうですか?僕はこの妓楼を守るように言われてここにいるんです。だから当然、あなたの事も守ります」

 平然とそう言ってのけて爽やかな顔で笑う晴朗に大打撃を受けた明依は、口付けようとした煙管を片手に持ったまましばらく放心状態だった。

「これは少し偏見的かもしれませんが、意外とチョロいんですね」
「私もキュンとした自分に心底驚いてます」
「清々しいほど素直ですね」

 笑う晴朗を横目に、明依は煙管に口付けた。口に含んで吐き出した所で、もしこの煙管に毒が入っていたらと急に怖くなった。

「毒を仕込むなんて姑息なことはしませんから、安心してください」

 そういう晴朗に、明依は思わず息を吐いて煙管に口をつけた。そんな明依の様子を見た晴朗は控えめに息を漏らしながら笑った。

「随分と吉原の深い部分を覗いた様ですね」
「……本当、嫌になる」
「どうして?誰もが知っているテーマパークにこんな裏側があるなんて、それだけでワクワクしませんか?ゴミの様に人がいる。そのすぐ側にあるモノなのに、誰も気が付かない。この街は本当によくできている」
「吉原の裏側を生き抜く力が私にもあれば、話は違ったのかもしれません」

 万が一に備えて身を護る術も、この街で遊女として平然と生きていく精神力も、残念ながら持ち合わせてはいない。

 こんな事、一度も考えたことがなかった。今ではもう、日奈と旭が生きていた時にどんな心持ちで生活していて、どんな心持ちで夜を越えていたのか、思い出せない。

「確かにこの街は、女性と弱者にはとことん厳しい街ですね。一度、吉原が解放に向かって動いていた事は知っていますか?」
「旭の事ですか?」
「いえ、それよりも前の事です。現在の頭領にはご子息がいました。もう死んでいるんですが、その人が吉原解放に向けて動いていたんですよ」
「知りませんでした、そんな事」

 本当に自分はこの街の裏側の事を何も知らないと、思い知る毎日だ。旭と同じ夢を持っていた人がこの街にもう一人いたなんて。

「旭の誰からも慕われる様子は頭領のご子息を思い出す、という人間が多くいる程、彼も人を惹き付ける魅力のある人でした。しかし当時、吉原を解放したいという思想に猛反対したのは現在の頭領、実の父である暁さまです。そして彼はこの吉原から追放された。そして数年後、自ら命を絶ったんです」

 頭領に息子がいる事は知っていたがまさか死んでいるとは、それも自殺だとは思わなかった。

「叢雲、清澄、炎天は、有力な頭領候補として名前があがっていましたが、彼の自殺を聞き全員辞退しました」
「どうして?三人のせいではない様な気がしますけど」
「その件に関して頭領が理不尽な事は理解していたはずです。でも彼らは、ご子息の追放を主郭の意思だと尊重し、一切庇う事をしなかった。その罪を抱えているのでしょう。まァそんな事があって、次の有力候補としてご子息の世話役だった旭と終夜の名前があがったんです」
「そんな経緯が……旭が世話役なんて、似合わないですね」
「世話役と言っても、まだ二人は幼かったですから。長い目で見て信頼できる関係をと、頭領は最初そんな気持ちだったのかもしれません。しかし、あの人が死んだと分かった時から、旭と終夜を取り巻く環境も大きく変わりました。これからを注目されるようになり、今まで以上に厳しく育てられ、二人はいつも比べられた。過激派と呼ばれていた頭領もすっかり大人しくなった。たった一人の人間がいなくなった影響が、吉原のいたるところで見られるようになった。だからきっと、旭が吉原を解放すると言った時、誰もが頭領のご子息と旭を重ねてみていたのだと思いますよ」

 感傷的になっている自覚はあった。生前の知らない旭の輪郭を、なぞった気がして。

「旭は、晴朗さんから見た旭は、どんな人でしたか」
「根本から明るい人間。真っ直ぐで優しい。真っ当に生きていれば誰からも慕われるだろうと、そう思いました」
「やっぱり、そういう人ですよね。旭って」

 明依は思わず笑顔を浮かべた。あと少しだけ、少しだけでいいから旭に対して素直になればよかった。きっと、甘えていたんだと思う。

「だけど最初、旭はそれを隠していたんですよ。何も言わず、与えられた仕事をただ淡々とこなしていました。その点で言えば、最初から終夜の方が裏側を生きる素質がありましたね」
「全く想像できません。私と会った時にはもう、旭は今の旭だったから」
「途中から大きく変わったんですよ。いや、自分らしく生きようと思ったのかもしれませんね。〝吉原を解放したい〟〝笑ってほしい女の子がいる〟と言いだしてから」

 晴朗の言葉に、明依は煙管を口に運ぼうとしていた手を止めた。

「あなたの事でしょう。誰からも慕われる〝旭〟という人間を作ったのは、あなただったんですね」

 明依は震える唇を噛みしめて、握っている煙管をさらに強く握った。

「晴朗さんは、終夜が旭を殺したと思いますか」
「さあ、どうでしょう。しかし確実に言える事があります」

 晴朗は煙を吐き出した後、一呼吸おいて口を開いた。

「終夜ならやりかねない。そしてもし真っ向勝負を挑んだとしても、間違いなく旭を上回る実力を持っていると断言できる、数少ない人物だという事です」

 吉原の解放を唱えていた旭が邪魔だったのか。自分が頭領になりたかったからなのか。だから終夜が。でも本人はやっていないと言っていた。それを信じる程あの男を信用してはいないが。そうやって何度もループする疑問に答えがない事は分かっていた。

「明依」

 少し遠くから聞こえた声に、明依は勢いよく振り向いた。宵は晴朗と明依の手元の煙管を見た後、明依に視線を戻した。

「宵兄さん……あの、」
「今は仕事中のはずだ。どうしてここに?」
「すみません、楼主」

 明依が何か言うよりも前に晴朗はそう言うと、短くなった煙草を放って足で踏みつけて火を消した。

「僕が彼女を引き止めました。彼女は酔いを醒ます為に、少し夜風にあたりに来ただけです」

 そういって立ち上がった晴朗は宵に向き直った。

「お叱りの言葉なら、どうぞ僕に」
「そんな、」
「どんな理由があろうと、ここに留まったのは明依の意思。晴朗さんが気に病む必要はありません」

 宵はいつだって正しい。だから晴朗を責める事はないというのは分かっていた。だったらこの、説明しようのない虚しさは何なのだろう。そんなことを考えながら立ち上がった明依は、晴朗へ向き直って煙管を手渡した。

「晴朗さん、これ。ありがとうございました」
「今度は時間を見つけて、ゆっくりお話しできるといいですね」

 明依から渡された煙管を受け取った晴朗は、穏やかな笑顔を浮かべてそう言った。

「行くよ、明依。……晴朗さん。俺も仕事があるので、これで」
「はい。何かあれば報告します、楼主」

 宵に続いてその場を後にする明依は、控えめに晴朗の方向を振り返った。彼はこちらを見ていて、明依と目が合うと軽く手を振った。

 本当に感じのいい人だなと思ったが、手を振り返す前に視界は壁に遮られて、あっという間に喧騒は目の前にある。

「宵兄さん、ごめんなさい」

 明依は宵の背中に向かってそういった。何が悪いのかもわかっていた。仕事中にあんな所で煙管をふかしながら誰かと話をするのは、明らかに息抜きの度を越えている。

「明依が酔いを醒ます為に外に出る事は知ってる。だから、謝らなくていい。それよりも、何もなかったんだよね」
「何もって?」

 宵は心配そうな口調でそう問いかけたが、明依は宵が何を聞こうとしているのか全く分からなかった。あの状況から言えば晴朗の事だろうが、晴朗と関わる事で何か不安事があるとは思えなかった。

「いや、いいんだ。明依。今日の仕事が終わったら」

 そういって一瞬、宵は言葉を止めた。

「しっかり休むんだよ。まだ万全じゃないんだから」

 そう言うと宵は明依の頭を撫でて去っていった。その背中が遠い気する。言いたかったことは絶対、そんな事じゃない。肝心の言いたかった事が何なのか見当くらいつけば、まだ気持ちは楽だったのかもしれない。

 そんなことを考えていれば座敷での時間はあっという間に過ぎて、客を見送る為に吉原唯一の出入り口である大門まで来ていた。

 門の外側まで江戸時代だ。時々自分のいる時代がハイテク機器に囲まれた現代だという事を忘れてしまう。大門から外に伸びる道は湾曲(わんきょく)していて、吉原の中から現代の街並みを見る事は出来ないようになっている。

 この道の先には、着物のレンタルショップ、損料屋や写真屋や土産屋が立ち並んでいる。

 この街から逃げ出したいと、本気で思っているわけじゃない。どこへ行く当てがあるわけでもないし、何より宵に迷惑がかかる事は分かっているから。たけどもしかするとこの外側は、この街より少しはマシで、この街よりもずっと生きやすいかもしれない。

 そんなことを思いながら明依が大門から外を眺めていると、少し離れた所に終夜の姿を見つけた。これは生存本能という分類になるのだろうか。何を考えるよりも先にまず、踵を返して速足で歩いた。
 10歩歩くより前に、明依の肩に誰かが手を置いた。

「気付いてるのに無視して逃げるなんて感じ悪いよ。コミュニケーションの基本は挨拶だろ」

 あれだけ派手に言い負かされたくせに、コイツ何も反省してないじゃん。というのが、一番に出た感想だった。何も答えない明依を気にも留めず、終夜はにこりと笑った。

「こんばんは。今日は表座敷か。ラッキーだったね」

 どうやら、じゃあさようなら。とはいかないらしい。
< 37 / 79 >

この作品をシェア

pagetop