造花街・吉原の陰謀

13:〝蕎麦屋の二階〟

 無視して歩き出そうと思い立った明依だったが、終夜は明依の肩を掴んでいる手に力を込めた。明依が痛みで動きを止めると、その間に明依の行く手を阻むように前方に移動した終夜は明依の顔を覗き込んだ。

 明依は少しだけ痛む肩に触れた。コイツ遊女の身体をなんだと思っているんだ。と思いながら終夜を睨んだが、当然そんな事でひるむ様な相手ではない事は分かっていた。余裕たっぷりの笑みで明依を見ている。

「……なに」
「もうこんな街から逃げ出したい。って思った?」
「思ってない」
「嘘つかなくていいよ。誰もが通る道だ。健全に遊女やってる証拠だね」

 健全に遊女やってるってなんだ。と思った明依だったが、溜息を一つ吐くだけに留めた。なるべく会話はしない、したくない。いつもそう思っているはずなのに、いつも必要以上に関わっている。この男の口車に乗せられて。

「でも残念。アンタは大門(ここ)からは出られないよ」

 そう言うと終夜は、明依の肩を持ってくるりと反転させてそのまま歩き出した。

「ちょっと……!何!?」
「だって前アンタに自分の事を貴重な情報源だって言ったから、責任もっていろいろ教えてあげないと。本当に吉原から逃げたいと思った時にこの方法だと手遅れだから、今教えてあげる。試してみるといい」

 終夜に背中を押された明依は、勢いのあまり前へと進んで大門を越えた。とりあえず転ばなかった事に胸を撫でおろしたが、後ろにいる終夜に文句を言ってやろうと顔を上げた。

 湾曲した道は、現代の街並みを見せてはくれなかった。だから明依にとっては見慣れた江戸時代の景色。別になんて事はない景色だ。

 しかし大門の内側、吉原の中からはどうやったって見る事が出来ない景色、この道の続き。大門から続くこの見慣れた道にも続きがあるんだよね、当たり前か。と、そんな無意味なことを認識しただけだ。もっと大げさな表現をすれば、世界が繋がっている事を感じた気がした。

「満月楼、黎明」

 そういって肩を叩かれて我に返ると、大門の両端にいた複数人の門番に囲まれていた。

「あの……なんで、」
「大門から外に出たことに、言い訳の一つでも出てくるのなら言ってみろ」

 言い訳どころか、まともな言葉一つ出てこない。この門にはたくさんの女が客を見送りに来るのだ。竹ノ位の遊女、一人一人の所属している妓楼と源氏名を覚えているなんてありえない。

 それから別に、逃げ出そうとしたわけじゃない。当然、簡潔に説明する術はなかった。

「ごめん。俺のせいなんだ」
「終夜さま」

 門番の一人が声のした方へと振り返りそう呟いた後、全員で合わせたかのように同じタイミングで背筋を伸ばした。先ほどの威圧感はどこへやら、みんな青白い顔をして冷や汗を流している。

「お勤めご苦労様」
「えっ、はい。いやしかし、あの……これは、警備室からの指令でして……」
「うん、わかってる。ちょっと付き合ってもらってたんだけど、()()()()大門の前でバランス崩しちゃったみたい。この遊女(ひと)、俺のお気に入りなんだ」

 どうして門番が自分の事を知っているのか。そんな疑問と並行して、よくもまあここまでペラペラと嘘が出てくるものだと思っている明依をよそに、終夜は門番に向かってニコリと笑った。

「信じてくれる?」
「信じます!!勿論!!警備室には、こちらから説明しておきますので、どうぞご安心を」
「だってさ。大事にならなくてよかったね」

 そう言うと終夜は未だに状況がよくわからない明依を見た。

「わかったらほら、さっさと歩いてよ。やっぱり今度はしっかり手、繋いでおこっか」

 そう言うと終夜は、握手を求める様に明依の方へと手を差し出した。

 この状況になったのは誰のせいだと思ってんの?と、思っている事を口にしたとしても、どうせまともに話は出来ない。

 明依は早々に諦めて、終夜の隣を通り過ぎて大門の下を潜った。明依が終夜を無視したからだろう。後ろからは門番の焦った声が明依に向けられているが、知ったこっちゃない。

 大門の側にはいつも門番がいるのは知っていたが、表側のスタッフで演出の為の人員なのだとばかり思っていた。でもよく考えれば、この吉原から逃げ出そうとする人間なんてきっとたくさんいるはずだ。

 以前はそんな事にも気付かずに生活していたんだから、本当に知らない方が幸せな事もある。

「現代から取り残されて国からも見放された街だけど、吉原の警備システムは結構しっかりしてるんだよ。あそこについているカメラで、常時通行者を確認してるんだ」

 大門に背を向けているのだ。『あそこについているカメラ』なんて言われても終夜が指をさしているであろう方向を横目ですら確認することは出来ない。

 つまり立ち止まって振り返らないといけないのだ。

 その後の行動で明依の興味の尺度を測ろうとしているのなら、いやそもそも気になる様に仕向ける為に言葉を選んでいるのなら、確かにこの男には誰も敵わないかもしれないと思っている自分に腹が立つ。

 興味ないから、じゃあさようなら。と、言える程好奇心が薄ければよかったと思うし、この状況を逃せばこんな話は二度と誰からも聞くことが出来ないと分かっている。

 明依にとって終夜は、この狭い世界で一番嫌いな人間であって、一番貴重な情報源でもあった。終夜の手中であることをわかっていながら、明依は好奇心を隠して振り返った。

 終夜は『あそこについているカメラ』に指すらさしていなかった。真っ直ぐに明依を見ていて、目が合うとニコリと笑った。本当に、大嫌いだ。

「ほら、見える?」

 終夜は大門の上それから下の数か所を指さした。名前の通り、非常に大きな門だ。日々多くの客をこの一か所から出入りさせているのだから当然だが、終夜の指さした部分には確かに何かあるような気がする。という程度でしか確認ができなかった。

「何か仕出かそうとしている人間ってさ、独特の雰囲気っていうか顔つきっていうか、そういう共通点があるらしい。あのカメラは、吉原でテロを起こしてやろうとか、あのムカつく遊女を殴ってやろうとか、そういうことを考えている人間を〝危険人物ですよ〟って教えてくれる。……あと、指名手配中の犯罪者や吉原が把握できている限りの警察官、それから竹ノ位以上の遊女なんかは既に顔と所属が登録されている。だからこの門を通ると、警備室にはアラートが鳴り響く。それはそれは盛大に。だから俺達は梅ノ位をここから自由に出入りできるという意味を込めて〝表門〟。それ以上、つまり遊女と呼ばれる人間を〝裏門〟って隠語で呼ぶんだ」

 警備室にアラートが鳴り響く?と、明依は嫌な予感がしながらも、確認の為に終夜を見た。

「……つまり、どういう事?」
「今、警備室は大パニックって事」
「でも、大丈夫なんでしょ?説明しておくってあの門番の人、言ってたし……」
「門番と警備室には通信手段があるから、あの様子だったら言おうとはしてくれてるんじゃない?警備室に今、門番からの通信を取るだけの余裕があるかって問題だけど」

 最悪だと思った。

 もしもあれが吉原から逃げ出そうとしたと思われたのであれば、折檻(せっかん)待った無しだ。

 こんなことが宵に知れたらどうしたらいい。幻滅されるかもしれない。それだけは避けなければ。今すぐにちゃんと、説明しなければ。でももし、満月屋に付くより前に主郭の人間につかまってしまったら。

 やっぱりこの男に関わるとろくな事がない。

 どうすればいいのか見当もつかず、終夜を罵倒する言葉一つ出てこない。
 警備室の人達が終夜に背中を押されて門を出た事を見ていた可能性はどれくらいで、門番が警備室の人間が状況を説明してくれた可能性は一体どれくらいなんだろう。

「終夜!!!明依!!!」

 太い声が喧騒をかき消して鼓膜を刺した。明依がびくりと肩を浮かせて声の主を見ると、炎天が複数人を引き連れて鬼の形相で走ってくる。

「やっぱり来た。じゃあ、逃げよっか」

 そう言うと終夜は、明依の手を掴んで走り出した。

「離して!炎天さんにちゃんと説明するから」
「面倒だよ。門番が警備室に話して、事実確認するのを待つ方がいい」
「誰のせいでこんなことになったと思って、」
「俺は外の世界で言う所の世間知らずなアンタに、この吉原の事を教えてあげようと思っているだけだよ」

 大きな通りから逸れて、人込みを的確に縫って走る。もう本当に、本当に意味が分からないから困る。いつ捕まって問い詰められてもおかしくない状況だ。

 危機的ともいえる。
 それなのに、この男に任せておけばどうせ全て大丈夫なんだろうと思っている。

 そしてその安心感は、平坦な日常から一歩外に連れ出される様な、非現実に引き込まれて心を躍らされるような、訳の分からない感情を連れてくる。そのくせその感情のすぐ隣には、宵に対する罪悪感がひしめき合って、がなり立てている。

 安心感?何度も殺されかけておいて?何度も面倒ごとに巻き込まれておいて?おそらくこの世で一番大嫌いな男に。この街で一番まともじゃない人間に。だからもう本当に、意味が分からないのだ。

 終夜は何の看板もない二階建ての建物の前で止まって引き戸を開けると、明依に先に入る様に促した。壁に書かれているメニューを見る限り、蕎麦屋の様だ。一人の老婆がカウンターの向こうに座っているが、居眠りをしているのかこちらに気付く様子はない。

「おばあちゃん、起きて」

 終夜は戸を閉めた後、明依の手を離してそう言いながらカウンターに近づいた。

「お~い。蕎麦屋のおばあちゃーん」

 終夜がカウンターから身を乗り出して何度も老婆を呼ぶが、一向に目を覚ます気配がない。そんな様子に、終夜はため息を一つついた。

福戸(ふくと)屋の女将さん」

 その言葉に、老婆はやっと目を開けた。

「あーはいはい。終夜くん」
「起こしてごめんね。上がっていい?」
「どうぞどうぞ、お上がんなさい。正面の部屋を使うといい。ちゃんと整えてあるから」
「ありがとう。ここ、置いとくね」

 そういうと終夜は懐からそこそこ分厚い封筒を取り出してカウンターの上に置いた。

「受け取れないよ。いつも治安がいいのは、終夜くんのおかげなんだから」
「気にしないでよ。遠慮してもらう程でもないからさ」

 もしあの封筒の中に入っているのが現金なら、〝遠慮してもらう程〟の金額なのでは。と下世話な事を思った明依をよそに、終夜は慣れた足取りで蕎麦屋の二階に向かう。

「あの、お邪魔します」

 明依は少し戸惑った後そう言って、老婆に頭を下げてから終夜に続いて階段に足をかけた。

「じゃあね、楽しんでお嬢さん」
「……はい。どうも、ありがとうございます」

 明依がそう返事をして階段を上がっていると、先を行く終夜が笑った。

「何笑ってんの?」
「だって、何も分かってなくて返事してるんでしょ?」
「店の味を楽しんでって事じゃないの?」

 どこかバカにするように笑う終夜に、明依は階段を上がりながら終夜の背中を強く睨んだ。蕎麦屋で『楽しんで』なんて、それ以外に何があるというのか。

「貴重な情報源なら、貴重な情報源らしく教えてほしいんだけど」
「そうだね。まァ、これはなんていうか。文化だから別に俺が教える必要もない訳なんだけど、江戸と言えば蕎麦。蕎麦屋と言えば二階なんだよ」
「わかるように言って」
「言わなくてもわかるって」

 終夜は正面の部屋の襖の前に立ったが、明依に道を譲った。

「なんで私が開けるの」
「アンタの反応が手に取る様にわかるから」

 本当に、この男の考えている事は分からない。

 この襖を開けた先がそうであったらいいなと思うのは、ゲームができるだとか、漫画が置いてあるだとか、吉原にいては経験出来ない事なら凄く嬉しい。

 それなら『楽しんで』の意味も分かる。しかし可能性としては、賭け事の場になっているというのが一番高い気がしていた。そんな事を考えながら、明依は正面の襖を開けた。

 狭い和室に、布団が一枚敷いてあるだけの部屋だった。
 何を考えるより先に勢いよく振り返ったが、終夜にぶつかって部屋から出る事は出来なかった。

「遊女はこういう場所も積極的に利用する」
「何でこんな場所で、そういう事になるの!?」
「アンタ本当に箱入り娘だね。さすが大見世の遊女さまだ」

 終夜は両手で明依の肩を掴むとそのまま部屋に入って襖を締めた。

「楼主がしっかりしていない妓楼では、生活する金さえまともに渡されない。だからこういう場所で客にサービスして稼いでるんだよ。遊女たちにとっては福を呼ぶ店。だから〝福戸屋〟って呼ばれてる」
「何考えてんの?」
「何って言われても、蕎麦屋の二階って言ったらこういう事だし。恨むなら、のこのこついてきた無知な自分と、アンタ可愛さに吉原がどれだけ汚れた世界か教えなかった()()()()を恨むといい」
「嘘でしょ……。お願いだから、ちょっと待って……!」

 明依はゆっくりと後ずさりながら終夜の胸を押して抵抗するが、明依の肩を握っている手がそれを許すはずもなかった。

「自分の側を離れなかったら、全てから守ってあげられるなんて本気で思ってたのかな。本当に、意味わからないよね。帰ったら宵に〝終夜と蕎麦屋の二階に行った〟って言ってみなよ。きっとこの前以上に怖い()()()()が見られるよ」

 終夜の言葉を咀嚼する余裕は、今の明依にはなかった。終夜に足をかけられてバランスを崩してとっさに目を閉じると、布団に思いきり尻餅をついた。

「まさかさ、俺がアンタに情報を与えて、はいおしまい。なんて甘い事考えてた訳じゃないよね」

 痛みで顔をしかめた明依が目を開けると、終夜は明依の目の前に顔を寄せて笑っていた。

「世の中には昔から〝等価交換〟って価値観がある。俺が情報をあげる代わりにアンタが俺に渡せるものなんて、他にないでしょ」

 確かにそうだ。どうしてこんな素性の知れない男から一方的に情報をもらえると思っていたのか、おめでたい自分の脳みそに腹が立つ。

 終夜は明依の半襟に指を引っ掛けた。終夜の冷たい指が肌に直接触れる感覚に、汗が噴き出した。

 終夜に思いを寄せていた日奈への裏切りの様に思う。
 同時に宵からの信頼を踏みにじる様にも思う。
 これからも生きていかなければいけないこの街に対する反逆の様にさえ思う。

 物理的に言えば誰よりも近い距離にいるはずなのに、心理的に自らが作った距離と壁が、終夜をどこまでも遠くに引き離す。自分の中にこれほどまで他人との距離を感じたのは、初めての事だった。

「あの座敷の続き、しようよ。ね、こっち向いて」

 優しく触れられた頬が、だんだんと冷たくなって、それから中間温度に落ち着いていく。目が合えば綺麗な顔で笑う終夜に、無理矢理現実の外側に追いやられる。この感覚が嫌いだ。自分が自分でいられなくなる感覚。

「そんな顔しないで。女将さんの言う通り、楽しもうよ。やっと、二人きりになれたんだから」

 終夜をまだ知らなかった頃、日奈と旭の話を聞いて〝終夜〟という人間を想像していた時の方が、よほどこの男との距離は近かった様な気がする。

 この男を好きになれない。

 日奈と旭が信じた〝終夜〟という人間を、信じられない。

 それが今、堪らなく寂しい。
 日奈と旭と明依。一緒だったのに明依だけが違う、今は、何もかも。どうしてこんな状況でこれほどまでに冷静に、こんなことを思っているのかわからない。

 現実逃避だろうか。
 日奈と旭の幼馴染と、今からこの部屋で二人だけの時間が流れて、そして何もかもが終わって、明依を捨てる様にこの部屋を去った時に正気を保てるように。
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