造花街・吉原の陰謀

4:いつまでもこのまま

「明依、起きてるか?」

 風呂に入って今日はもう寝ようかと思っている時、満月屋の三階にある自室の前でそう問いかけたのは旭だった。居住階に立ち入っているという事は、楼主である宵の許可を取っているという事だ。旭という時点でなにも警戒することはないのだが。

「起きてるよ。どうぞ~」

 間延びした声でそういえば、襖をゆっくりと開けて旭は部屋の中に入ってきた。

「めずらしいね。どうしたの?」
「話したいことがあるんだ。少し時間、いいか?」

 少しでも恋愛フラグが立っていれば歓喜するシチュエーションなのだろうが、生憎それほど脳内お花畑にはなれないらしい。

「もちろんいいよ。座って」

 旭は胡坐をかいて畳に座ると、明依に向き合った。

「日奈が大夫になった事?」
「それはさっき直接本人に祝ってきた。めでたいよな。昼間は二人に言いたくてうずうずしてた。でも、本題はそれじゃない」

 よく人の変化に気付く旭の事だ。旭がこれから何を言おうとしているのか想像することは、そこそこ付き合いの長い明依にはさほど難しいことではなかった。

「昼間にさ、吉原が自由になったら皆で外に行こうって話した時の明依の表情が忘れられなくて話に来た」
「あれはね、」
「本当は行きたいくせに、気負い過ぎだって話」

 あらかじめ考えて置いた言い訳さえ遮って、旭は言葉を続けた。あからさまにむっとした様子の明依を気にも留めず、旭は明依の目をしっかりと見ていた。
 旭はいつもそうだ。自分の事には鈍感なくせに、人の事になると感情の変化を敏感に感じ取る。それに何度救われたかわからない。しかし、明依自身が考えあぐねている今回の事に限っては、触れないでほしいと思った。

「私、吉原(ここ)結構気に入ってるもん」

 はいそうですか。と終わる訳もないとは思っていたが、こう旭にじっと見つめられていては、なんだか責められている様な気持ちになってくる。

「もうこの話、終わりにして。気が滅入りそう」
「こっちは墓場まで持って行くって決めた事を暴露する覚悟で来てんだ。無理に決まってんだろ」

 睨まれていると思う程真剣な旭の表情に気圧されて、明依は押し黙った。旭が言おうとしていることがもし、実は日奈の事が好き。なんていうわかり切った話なら、遮って知っていると言ってやろうと思っていた。明依が思いつく旭の秘密なんて、それ以外には見当たらなかった。

「みんなが笑顔でいられる様に吉原を自由にしたい。なんて言ったけど、あれ嘘。本当は、この場所が本当の意味で自由になったら、きっともっと明依が笑っていられるって思ったから。明依が吉原に来た時は余りにも強がってて、柄にもなく俺が守ってやらなきゃって思った。どうしたらいいのか考えて、吉原を根本的に変えることにした」

 恥ずかしげもなく真剣な表情でそういう旭が、恋愛対象を口説く為に言った訳ではないと分かっていても、明依は顔が赤くなるのを感じた。障子窓から入り込む明かりが、吉原のいたるところに飾られている提灯の暖色であった事だけが唯一の救いだ。
 明依がきっかけで吉原を変えたいと思ったなんて、普段の旭なら気恥ずかしがって絶対に口にはしないだろう。似た者同士、明依も同じだからだ。

「明依が宵兄さんに拾ってもらった事をどれだけ感謝してて、宵兄さんの事を大切にしてるのかも知ってる。でも、俺や日奈も明依の中で大切な人に分類されているって事も知ってる。俺にとってもそうなんだよ。だからこんな地獄の檻の中じゃなくて、いつか吉原が変わった先で幸せになってほしいって思うのは、当然だろ」

 そう言い終わった後、旭はすぐにそっぽを向いた。それから何も喋らない旭と、何をしゃべればいいのかわからない明依との間には痛い沈黙が流れる。

「わかったら行くって言えよ。張り合いないと、つまんねーし」

 急に恥ずかしくなったのか、旭は先ほどとは打って変わってぶっきらぼうに言い放つ。確かに旭と日奈は喧嘩をしないし、終夜にはいつも言い負かされているイメージだ。つまり同レベルだと思われているんだという事に気が付けば、なんだかおもしろくなってきて、いつかもわからない未来に対して過度に不安を感じても損な気がした。

「宵兄さんに人生を拾ってもらった私が、年季も明けてないのに吉原を出て行きたいなんて言えないけど。でも、本当は楽しそうだなーって思った」
「わかってるに決まってんだろ」
「一緒に行きたいなって思った」
「最初からそう言えばいいんだよ。行くぞ、一緒に」

 旭は明依の返事を聞く前に拳を突き出した。曲りなりにも遊女である女相手に選んだのが、握手じゃなくて拳。しかし、思いやりに溢れた旭らしいやり方だ。
 明依はぎゅっと手を握ると、旭の拳に軽く突き当てた。

「大丈夫。俺に任せろ。明依のしがらみとかそういうのも全部、何とかする」
「頼もしいじゃん、旭」
「そうだろ。いい男だろ」

 やっぱり我ながらどこまでも可愛くないなと明依は思ったが、それでもこの距離感が互いにとって心地いい事だけは分かっていた。

「明依、話終わったかな?入ってもいい?」
「うん、いいよ」

 襖越しのくぐもった声は日奈のものだった。襖を開けた日奈は旭の隣に座った。

「旭。ちょっと外してくれない?すぐ呼ぶから、まだ帰らないでね」

 日奈がこんな提案をするのは初めての事だ。結局旭は日奈の部屋で待つことになったのだが、入り口の襖を閉めるまで不思議そうにしていた。

「明依。あのね、大夫になったら話そうって決めてた事があるの。ずっと考えてたんだ」
「うん。なに?」

 日奈は旭程単純じゃない。何の話をしようとしているのか想像を巡らせた明依だったが、何一つ思い当たる事はなかった。旭がいると話辛い事なのかと思ったが、日奈が旭に何か隠し事があるとも思えない。

「旭は必ず次の頭領になるよ。そうしたらきっと、強制的に吉原で働く人はいなくなると思う。でも、吉原の外に出たって、低学歴の私達に仕事なんてないし、手習いを教えて自立するにしても安定しない。不安だからってそのまま嫌々吉原で働く事を選ぶ人も、出戻りで遣り手の仕事をする人もいると思うんだ。それならいっそ、この場所で安心して働ける材料の一つとして、夜間も預かってくれる保育園を作ったらどうかな、って思っているんだ」

 女として売れなくなればたちまち立場をなくす。明日のわが身さえ保証されていない吉原でこれから最高位の大夫になろうというのに、浮かれずに同じ境遇の他人すら思いやっている。それがあまりに日奈らしく、どこまでも心優しい友が誇らしかった。もしかすると、だからこそ日奈は今よりもずっと自由の利く大夫になりたかったのかもしれない。

「こういう視点から改善策を考えるのは、旭には難しいんじゃないかと思って。大夫になれば、私も今よりは自由に動けるようになる。私は私のやり方で吉原を支えたいって思うの。だから大夫になったら誰よりも先に、明依に聞いてほしいって思ってたの」

 他人事の様に思っていた遊女の末路は、自分にも当てはまる事なのだとぼんやりと認識した。しかし確かに夜の世界しか知らない女達からすれば、夜に変わらず働くことが出来る安心材料として保育園という存在は貴重かもしれないと明依は思った。
 日奈にこんな考えがあるとは夢にも思わなかった。もっと言えば、ずっとこのまま吉原で他愛もない日々を過ごすものだと思っていたのだ。自分の考えなしの行き当たりばったりの思考になんだか少しうんざりした。

「変かな?」

 何も答えない明依を見て不安に思ったのか、日奈は眉を潜めて言った。それにはっとした明依は、すぐに首を横に振った。

「ごめん、ちょっとびっくりしちゃって。全然変じゃない!凄くいいと思う」

 そう言うと日奈は深く深く息を吐いた後、胸に手を当てて困った様に笑った。

「よかったー。私ね、明依が背中を押してくれたら、どれだけ無謀でも上手くいくような気がするの。だから旭には申し訳ないんだけど、一番に明依に話すって決めてたんだ」

 育ての親である親戚夫婦との関係を断ち切る為とはいえ、自ら吉原に入るという行為は、自ら汚れて行く事と同義だと思っていた。しかし今だけは胸を張れる様な気がした。これほどまで、自分にも価値があるのだと思わせてくれる人はきっと、人生の中でそう出会う事はないだろう。明依はそんな人物に二人も出会った。それだけで吉原の暗い夜も越えていこうと思う勇気が貰えるのだから、持つべきものは友とはよく言ったものだ。

 その後すぐに日奈が旭を明依の部屋に呼び戻して、同じ話を聞かせた。「どうして明依と一緒じゃ駄目だったんだよ」という旭に「これは明依に一番に言うって決めてたの」と相変わらず日奈の態度は頑なだった。
 明依はほとんど二人の話を聞いていただけだったが、〝吉原を変えようの会〟が解散となったのは、随分と経った頃だった。二人は明依の部屋を出て行って、今度こそ寝ようと思っていた時、小走り廊下を駆ける音が明依の部屋の前で止まった。

「話忘れたことがあった」
「なに?」

 旭は襖を開けたが、中に入っては来なかった。

「日奈が大夫になったからって、気負うなよ。日奈は明依が来るよりもずっと前から吉原で稽古をしてた。それだけの違いだ」

 同じ姐さんを持って先に大夫になる日奈がいる状況で気負うな、はいくらガサツな明依であっても難しい事だ。拾ってくれた楼主の為にも努力を惜しんだつもりはなかったからだ。しかし、日奈が大夫に選ばれたのは芸事の歴の違いもあるだろうが、もっと内面的な部分の評価であることは明依にもわかっていた。

「わかってんのか、次はお前の番って事だ」
「同じ妓楼から二人の大夫が出る事も初めてなんだよ?三人目は、」
「それは、前例がないだけだろ。なけりゃ、作ればいいんだ」

 今日はなんだかおかしい。そうだね、と聞き流していればいいのに、旭に言い返すようなマネをしている。いつもの事の様に見えて、そうではなかった。まるで不安に思っている自分の気持ちを書き換えてほしいと旭に縋っているように思えた。そして旭は、ほしい言葉をくれるのだ。自分はいつからこんなに卑怯な人間になってしまったんだろうと一度思ってしまえば、旭の励ましの言葉すら素直に受け入れる余白は残っていなかった。

「ねえ、旭」
「なんだよ」

 呼びかけておいて何か言いたいこと決まっている訳ではなかった。言いたいことがありすぎると、何も言えなくなってしまう。どうして好きでもない女の事をそんなに気遣ってくれるのか、とか、日奈の事を本当はどう思っているのか、とか、自分が旭にどんな感情を抱いているのか。
 無性に伝えたくてたまらなくなった気持ちを落ち着かせようと、明依は深く息を吐く。きっとこれは一時の気の迷いで、ただ疲れていて、誰かに甘えたいと思った時に側にいたのが、たまたま旭だっただけだと無理矢理結論付けた。

「ううん、なんでもない。ありがとね」
「気になるけど、俺が粘ってもお前絶対言わないよな」
「うん、言わない。墓場まで持ってく覚悟を決めたから」
「転用すんな」

 先ほど旭の暴露話の会話を転用すれば、旭はため息交じりに笑った。

「眠い。帰るわ。おやすみ」
「うん、おやすみ」

 別れの挨拶を交わせば、旭は今度こそ去っていく。
 両親が亡くなってから、時間は進み続けていて、失ってからでは遅いのだと明依は強く認識していた。それでもつい、いつまでも側にあるものだと思ってしまう。
 吉原の夜が明けるのは、そう遠くない話なのかもしれない。それが、不安でたまらなかった。旭と日奈とずっと変わらずに吉原で生きていくものだと思っていたからだ。時間が流れている事なんてつい、忘れて。
< 4 / 79 >

この作品をシェア

pagetop