造花街・吉原の陰謀

5:終焉と開闢の雨音

 空が機嫌を損ねて分厚く雲を張る夜でも、吉原の街は提灯から漏れた光で燃えるように赤く染まっている。

 笑う観光客と、微笑む格子越しの女達。
 明依にとってそれは、何もかも見慣れていて、何もかもいつもと同じはずだった。

 ただ、がむしゃらに走っていた。
 すれ違う観光客に肩をぶつけても、謝罪を呟く所か振り返る事もしないで。

 今の明依にとってみれば、自分を贔屓にしている客が座敷で待っていることも、厳しい罰が待っているかもしれない事すら、些細な事の様に思えた。

 数分前、満月屋一階にある宵の部屋に必死の形相で手をかけた見回りの男は、息を切らした掠れた声で言った。『宵さま!大変です!旭さまが、』それから先の言葉は、思い出したくもない。

 そんな事があるはずない。たった一週間ほど前には、いつも通り三人で笑っていたんだから。満月屋を飛び出してからたった数分間で、明依の脳内は何度もその様子と否定を繰り返していた。

 重たい雲はとうとう雨を疎らに落とした。

 主郭へ続く石段を上がりきった先にいた二人の門番は互いに顔を見合わせた後、歩みを進めて明依の行く手を阻む様に立ちふさがった。

 雨音の間隔が、だんだんと狭くなっていく。

「立入許可証は?」
「持って、いません。お願いします、通してください」
「この中には入れない。帰りなさい」

 見世一つを任されている楼主ですら、特別な許可がない限り主郭の中に入れない。
 吉原では誰もが知っている事だった。

 それでも明依が自分を引き留めようとする門番の服を掴んで抵抗するのは、こうする以外の方法が皆目見当もつかなかったからだ。

「お願いだから、旭に会わせて!」
「いい加減にしろ!」

 門番の一人に肩を強く押された明依はバランスを崩し、踏み止まろうとした足で自らの着物の裾を踏みつけた。

 これからどうなるのか理解して早々、身体中に絶え間なく感じる衝撃は、痛みを感じる暇もないほど断続的で、不規則だった。

 やがて明依の身体は地面に叩きつけられて動きを止めた。

 これを冷静と呼ぶのかはわからないが、先程まで自分の中で燻っていた熱の様なものが落ち着き、冴えていく様な感覚を明依は確かに感じていた。

 雨に濡れる事も厭わず、履物さえ履いていない、狂気とも取れるその様子ははたから見ればもしかすると、遊女自らが色恋に溺れた末路の様に見えたかもしれない。
 そんな笑えない小話を考える程度にはまだ気力はあるらしい。

 それでも起き上がるどころか、指一本を動かすことも目を開ける事すら億劫で仕方がなかった。
 それから間もなく、すぐ側で雨を軽快に弾く音がした。

「こんな所で寝てたら、風邪引いちゃうよ」

 降雨の音と寒さには似合わない明るい声に明依が目を開けば、番傘の中棒を肩に預けて気だるげにしゃがみ込んでいる青年がいた。
 声とは相反して、表情はどこまでも冷たい。

 どうしてそう思ったはわからない。
 ただ何となく、本当に何となく彼の事を間接的によく知っていると明依は確信していた。

「終夜」

 呟く様な声でそう呼んだ途端に彼は明依の腕を掴んで持ち上げて、ほとんど無理矢理身明依の上半身を起こした。

「うん。なに、明依」

 どうやら本当にこの青年があの終夜の様だ。
 それから明依の頭に浮かんだのは、終夜には何のメリットもない利己的な考えだった。

「お願い。旭に会わせて」
「うん、いいよ。じゃあ行こっか」

 終夜は薄ら笑いを浮かべた後であっさりとそう言うと、立ち上がって明依へと手を差し伸べた。

 明依はその手を握って立ち上がろうとしたが、それよりも前に終夜が早く立てとばかりに明依を引き上げた。
 明依がぬかるんだ地面に足をつけたことを確認した後で、終夜は手を離してさっさと歩き出す。彼の向かう先には、いつの間にか石段を降りてきていた二人の門番。二人とも何かにおびえる様に俯いている。

 終夜が二人の前で止まると、二人はひっと息を飲んだ。
 終夜の横顔は、相変わらず薄ら笑いを浮かべていた。

「聞こえてたなら早く開けてよ。門番だろ」

 上ずった声で返事をした二人の門番は、転びそうになりながら石段を駆け上がっていく。
 終夜はその様子を少しの間目で追った後、明依の方へと首を傾げるように振り返った。

「置いて行くよ」

 そう言い残して先を行く終夜の少し後ろを歩く明依は、自分が全身泥にまみれている事に気が付いた。
 雨を吸って普段よりもさらに重たくなった着物も、認識すればたちまち感覚となって身に染みていく。

「主郭に沿って右側に歩いて行くと、主郭内に入れる古い扉があるんだよ。知ってた?だから、鍵さえ何とかなれば簡単に入れるよ。見張りがいないし、今は俺以外使ってないから。今度試してみなよ」
「私は今日、今、旭に会いたいだけ」
「せっかく教えてあげたのに、可愛くないなァ」

 そう言いながらも終夜の声はどこか楽しそうで、笑顔を張り付けたままだ。
 明依の名前を知っていた時点で、この男が終夜というのは間違いないらしい。
 それならどうして、平然として笑っていられるのだろうと明依は疑問に思ったが、口に出すことはなかった。今この男の機嫌を損ねれば、二度と機会は巡ってこないと分かっているからだ。

 門の前にたどり着くと、先ほどまで固く閉ざされていた門は全開になっていた。
 その両端で向かい合う様に立っている門番は、依然として青白い顔でおびえていた。終夜が間を通り過ぎた時、門番二人はどこか安堵した様に少し肩の力を抜いた。

「あ、そうだ門番。これ、持ってて」

 終夜の言葉に、二人の門番はびくりと肩を浮かせてあからさまに怯えている。

 明依の前まで戻ってきた終夜は、何のためらいもなく明依の着物の帯をほどくとそれを門番の一人に放り投げた。
 それから明依の肩を掴んでくるりと後ろを向かせた後、着物をはぎ取り同じように門番へと放り投げる。

 門番は投げられた着物をもって立ち尽くし、唖然とした表情を浮かべている。

「大丈夫大丈夫。こんな造花街じゃ、一瞥(いちべつ)しただけで着物と長襦袢の違いが分かるヤツなんていないよ」

 唖然としている門番の視線を受けた終夜はそう言ったが、明依にとってそれはもはやどうでもいい事だった。
 雨を吸った着物が無くなった分、身軽になったと思っているくらいだ。とにかく今はそんな取るに足らない事よりも、旭に会いたかった。

「これから満月楼の楼主が来るからこう伝えてよ」

 そう言いながら、終夜は自分が着ていた長羽織を明依の肩にかけた。

「〝アンタの宝物は、傷一つ付けずに送り届けるよ〟って」

 終夜そう言うと明依の背中を片手で押して歩くように促した。そして自分も明依の隣を歩き、主郭の中へと歩き始める。

「きっと不安でたまらないだろうから」

 そう呟いた終夜の横顔を明依が盗み見れば、至極楽しそうに笑っていた。
 主郭の広間の中央には、二階へと続く階段と朱色の手すりが圧倒的な存在感を見せつけていた。

「二階は主郭以外の人間は立入禁止。だから楼主を招いての会議や、外部との接触の時には、一階のどこかの部屋を使う事になってる」

 そう説明しておいて、終夜はためらいなく中央の階段を登って行く。

「つまり竹ノ位でこの階段に足をかけるのは、きっとアンタが初めてだって事。得したね」

 黙ってさっさと階段を上がってこい。と終夜は言いたいのだろうと、明依は黙って階段に足をかけた。

「終夜」

 階段を上がり切った二階の廊下を歩いてすぐの事。終夜の名前を呼びながら、向かいからガタイのいい男が近づいて来てきた。

 男は明依に視線を移して、品定めする様な厳しい視線を向けた。それに動揺するような気力は今の明依にはなく、かといってニコリと遊女らしく笑う事もしない様子はもしかすると、男に不機嫌な印象を与えたのかもしれない。

「どういうつもりだ?」
「ここは男は天国の吉原だよ?買ったんだよ。遊女(この人)を」

 明依から再び終夜へと視線を移しながら圧をかける様な口調で問いかけたが、当の終夜はとっくに見慣れた薄ら笑いを浮かべたまま飄々と言葉を返すだけだった。

「例外は認めない。廓遊びがしたいなら、しきたりにのっとってするんだな」
「防音しっかりしててもさ、隣の部屋で知らない誰かがって思うと落ち着かないと思わない?」

 全く的外れなことを言う終夜を、無遠慮に男は睨んでいる。

「そんな特殊な性癖ないけど、慣れたら芽生えちゃうモンなのかな?」
「ふざけるのも大概にしろ。どうしてここに、」
「まあまあ、そんなにイライラするなよ」

 男の言葉の途中で終夜が彼の胸に一枚の紙を突き付けながら通り過ぎる。自分が咄嗟に受け取った紙を見た男は、ぐっと眉を寄せた。

「ひとしきり遊んだら、ちゃーんと満月楼に返しておくからさ」

 終夜はそう言いながら軽い足取りで廊下を進んでいく。明依は何をいう事もなく、終夜に続こうと足を延ばした。

「待て。満月楼、黎明」

 男は響く声でそういって、先ほど終夜が突き付けた紙を明依に差し出した。明依が立ち止まってそれを受け取ると同時に、男は明依に背を向けて歩き出した。

「その紙は持っていろ。それから、今はあの男の側を離れるな」

 受け取った紙には〝立入許可証〟と明依の源氏名である〝黎明〟の文字が書かれていた。明依はその紙を握ったまま終夜の後を追った。

 脳内に散らばっている疑問をまとめようなどという考えは、明依にはなかった。一刻も早く旭に会いたいという思いだけが先行している。

 いつの間にか随分と薄暗い廊下を歩いていた。
 こころもとない光に浮き彫りにされた自分の影が不気味に揺れ動く様が、明依をほんの少しだけ平常心へと傾けた。それから心臓がバクバクとうるさく動き出して、とうとう平衡感覚さえままならなくなっていく。

「ここだよ」

 そういって終夜は、ストラップ替わりに擦り切れた布が巻き付けてある鍵の束を取り出した。

 襖には似合わない南京錠を外して廊下に放り投げた後、襖を開けて明依に道を譲る様に身体をずらした。

 部屋の中は当然畳張りで、廊下よりもさらに小さな明かりと、布団が一つ敷いてあるだけだった。

 側に行きたいのに、側に行きたくない。そんな心の矛盾は初めてだった。
 終夜に軽く背中を押されて先に部屋の中に入る。少し戸惑った後、やっとの事で一歩を踏み出した。

 『黎明。いっつも忙しそうだな』当たり前の様に源氏名というレッテルで呼んで『もう少し、気ィ抜いたら?』なんてわかった風な口をきく旭が苦手だった。

 『朝からずーっと三味線とにらめっこで、腹減らねーの?飯いこうぜ』と、いつも構ってくる旭が嫌いだった。

 無理がたたって倒れた時、目が覚めて側にいたのは旭だった。
 『ほらな、気ィ抜いたら?って言っただろ』と呆れ笑いを浮かべていた。それから、『俺さ、みんなが、笑ってられる様に吉原変えてみようかなって思ってるんだ』と言う旭に、大した返事はしていないと思う。見張る為に主郭から派遣された人間のくせにと、思った事は覚えている。

 『だから明依、とりあえず友達になろうぜ』なんて脈絡のない事をさも当たり前の様な顔で言ってのけて、初めて源氏名ではなく明依と名前を呼んだ。

 少なくとも、もし旭に取った態度を自分がされていたら、友達だなんて頼まれても願い下げだ。
 余りの諦めの悪さと、支離滅裂な発言にふっと笑ってしまって、旭は不思議そうにしていた。

 吉原に来て、初めて笑った日だった。

 明依はそっと布団の側に座り、眠っている旭の長いまつげを親指でなぞって頬に触れた。

「旭」

 みっともない程縋るような響きが耳を通って、心に落ちて視界を滲ませる。

 ぽたぽたと旭の頬に落ちる涙を自分の両の手のひらで拭ってもきりがなかった。

 冷たかった。
 雨に体温を奪われた手よりも、ずっと。
 一向に温かくならない旭の頬には弾力がない。

「なんで、こんなことに」
「吉原だけの話じゃない。裏側を生きる事を決めた人間は、誰もまともに死ねるなんて思ってないさ」
「誰が、殺したの」
「さあ。でも、じきに分かるんじゃない?」
「どうしてそんなに、他人事なの」

 明依の声を最後に、シンと部屋は静まり返った。

 旭にとっては、終夜も明依も同じ友達という括りの中だった。それなのにこの明らかな温度差は何なのか。

 わざわざ主郭内に入れるように取り計らってくれた恩人に言う言葉ではない事をわかっていてもなお、会う前からの不信感と合わさって苛立ちは増していった。
 総じて、八つ当たり、と言えばそれまでなのかもしれない。

「別に大した理由じゃない。もう、済んだだけだよ」

 そう呟いた終夜の抑揚のない声から何を思っているのか、気味が悪いほどに伝わってこなかった。

「何回名前を呼んだって死んだ人間は帰ってこないし、死んだ人間に声は届かない。俺はアンタにそんなことをさせたくてここに入れた訳じゃない」

 明依が終夜を見ると彼は既に背を向けていて、入り口の襖に片手を添えていた。

「人間は縋りたい生き物だろ。最後の最後くらいは発った旭の為じゃなくて、これからも生き続けなきゃいけない自分の為に縋ってみたら。アンタ、そういうの下手そうだけど」

 言い終えると襖を後ろ手で閉め切った終夜の言動は、心遣いの様に思えた。

 だから今は、終夜に対する感謝や罪悪感も旭を殺した犯人に対する憎悪も全て後回しにして、その心遣いに甘えようと思った。

 何事にも終わりがあることを知っていた、はずだった。
 精一杯誰かと向き合うというのは、なんて難しいんだろう。
 後悔しない様に誰かと関わるというのは、なんて難しいんだろう。

 もう少しだけ正直になればよかった。
 もう少しだけ甘えていればよかった。
 もっと可愛い自分で笑いかけていればよかった。
 もっとたくさん、会う時間を作っていればよかった。

 最後に旭と会話した日、旭を引き止めた時に、感情のままに好きだと伝えておけばよかった。

 そんな明依から旭に向ける言葉に、ごめんねは余りに卑怯で、ありがとうは都合がいい言葉の様に思えた。
 そっと涙が頬を伝って、噛みしめた唇が震えた。

「旭、私ね」

 終夜が呼びに来るまでのそう長くない時間を、ただ泣いてばかりで過ごすのは馬鹿げていると思った。
 しかし震える喉元が何度も、言葉を紡ぐことを遮ろうとする。酷く(わずら)わしい。

「楽しかったよ。旭と、一緒にいられて」

 明依は旭の手に自らの手を重ねて、それから彼の胸元へと耳を寄せる。友達よりもたった一歩近い距離が、明依にとって精一杯の〝自分の為に縋る〟方法だった。

「楽しかった」

 目を閉じて眉を寄せれば、涙はとどまることなく溢れてくる。

 二月某日。明依の中の世界が一つ、消えた。
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