造花街・吉原の陰謀

23:きっと同じ言葉を選ぶ

 通された部屋に野分と二人で入ると、宵は襖を隙間なく閉めた。野分の前に座るとばかり思っていた明依だったが、自分の目の前に座った宵に思わず姿勢を正した。

「俺はこの妓楼の楼主、宵だ。よろしくね、明依」

 そう言って人の好さそうな笑顔を浮かべる宵に、明依は視線を揺らした後でぺこりと頭を下げた。

「明依。お前はこの場所がどんな所かわかる?」
「……何となく」

 明依は失礼だとは思いながら、宵とは目を合わせずに俯いて呟いた。宵を見ていると、不思議な感覚になる。例えるなら、まるで心の内側を局所麻酔をかけられた状態で探られているようだった。引き出してほしくない部分を探られている事は分かっているのに、抵抗することが(はばか)られる様な雰囲気さえある。

「もう野分さんに聞いたかもしれないけど、この場所は、表向きは江戸時代に栄えた花街を模したテーマパーク。しかしその裏側は吉原遊郭同様、遊女と呼ばれる女性たちが春を売る場所だ。俺の言う言葉の意味が分かるね」

 宵はあくまで事務的に確認するようにそう言う。まるで羞恥心を感じている自分がおかしいのかと思うくらい、淡々と平然に。

「親子喧嘩の家出って訳でもなさそうだね。ここで働く気があるというよりは、帰りたくないっていう方が正しいのかな」

 宵のその言葉に明依は息を呑んだ後、唇を噛みしめた。もう妓楼に挨拶をしに行くのは嫌だと野分に散々言ったが、吉原に居場所がなければあの家に戻らないといけない。きっともう、あの突沸したような殺意は戻ってこないだろう。

「明依、お前は今はどうしたい?」
「……家に、帰りたくない」
「遊女は吉原を、女の地獄という。一度入ると年季が明けるまで外に出られない。女性にとっては外の世界よりも辛い場所だ」
「それでも、帰りたくない」
「もう一度聞くよ。ここが何をする場所か分かっているね」

 その仕事を望んでやりたいなんて思っていない。しかし、誰に触られてもそれがどれだけ辛くても、あの家に帰るよりは絶対にマシだと断言できる。
 その言葉に明依は俯きながらしっかりと一度頷いた。

「じゃあ俺が、明依のこれからの人生を買おう」

 明依は顔を上げて宵を見たが、宵はすでに野分に笑顔を向けていた。

「そういう事になりましたので、野分さん。明依の事はお任せください」
「本当かい、宵」

 野分も唖然としている。吉原で15歳という年齢がどれほど価値がないのか、人のいい野分のその反応を見るだけで十分に伝わってくる。ここは先ほど二、三十件訪ねた妓楼とは見た目からして格が違う。きっと宵は今、とんでもない決断をしたのだろう。

「すぐに手続きをしましょう」

 そこから先はとんとん拍子で進んでいった。野分が主郭に報告に行ってすぐに、主郭から何人も人が来て書類を書いたり指紋を取ったりした後、大門の外にある損料屋にて一度着替えて宵と共に吉原の外に用意してあった車に乗り込んで親戚夫婦の家に行った。

「それでは、よろしくお願いします」

 宵はスーツを着た男達にそう言うと、彼らは親戚夫婦の家に入っていった。

「宵兄さん」
「旭、急に悪いね」
「ううん、全然。一応、最終確認なんだけど……」

 スーツを着た明依と同じくらいの年齢の男、旭はちらりと明依を見た。

「あの、本人の前で言うのは心苦しいんだけど……。何かの間違いって事はないよな。あんな大金払って……この子、15くらいだろ」
「明依の事情を聞いてね。これまでの養育費、それから手切れ金、口止め料。後腐れの無いようにあの金額にした。間違いも問題もない」
「……そうか。なら、いいんだけど」

 旭はそう言うと、哀れみを込めた目で明依を見た。

「お前。なんで何でわざわざ、自分を売ってまで吉原なんかに来たんだよ」

 何も知らないくせに。そんな目で見ないでよ。そう思ったのは、自分が下した決断に対して胸を張れるほどの自信がなかったからなのかもしれない。明依は旭から視線を逸らした。

「アンタに関係ないでしょ」
「うわ、可愛くな」

 旭は呆れたようにそう呟いた。
 可愛くなくて結構だ。とばかりに顔を背ける明依に、宵は困った様に笑った。

「なんか言われたらテキトーに言っとくから。二人でその辺、散歩でもしてきたら?」
「じゃあそうしようか、明依。この辺りでどこか行きたいところはある?」
「行きたいところ?」
「そう。行きたいところ。食べたいものとか、飲みたいものとか」

 旭の言葉に、宵がそう明依に提案する。もしかすると、外を歩く最後なのかもしれない。そう思うと、逆に考え込んでしまってどこかに行きたいという願望も出てこなかった。時間も時間だ。営業している店も少ないだろう。

「じゃあ、コンビニ」

 明依のその言葉で行き先が決まり、二人は街灯に照らされた夜道を歩いた。

 宵の話によればあのスーツを着た男達は、控えのない契約書に一方的に名前を書かせて印鑑やら指紋やらを押させて、お金を渡して帰ってくるらしい。今親戚夫婦はおそらく恐怖で身の縮む思いだろう。それにほんの少しだけ、申し訳ない気持ちになった。

 コンビニに到着すると、宵はコーヒーを選んで明依はココアを選んだ。何か食べた方がいいと宵に言われたが、全くお腹が空かなかった。大学生と思われる無気力だった女性コンビニ店員は、明依と宵を二度見した。学生が制服で出歩いていい時間じゃない。

 通報されないだろうかと気が気でない明依は思わず背筋を伸ばしたが、その隣で宵は平然とした顔をしていた。スマートにスーツを着こなした男と、制服を着た学生が二人で夜にコンビニにいるのだから当然と言えば当然だが。

 兄弟というには少し年齢が離れているし、恋人というには明らかに健全だとは言い切れない時間。しかし、援助交際と呼ぶにはあまりに宵の容姿は整っていて、逆に明依はどこにでもいる地味でも派手でもないただの学生だった。

 その店員の視線は、二人がレジで飲み物を差し出しても変わらなかった。
 明依はやはり当然だと思うばかりだ。もし自分がコンビニ店員の立場だったら、この二人の関係性が気になって仕方ないだろう。

 明依がカバンから財布を取り出すよりも前に、宵はスーツからスマートフォンを出して支払いを済ませると、店員から飲み物を受け取った。店員と目が合うと「ありがとうございます」と爽やかにお礼を言った。その様子に女性店員は、先ほどまでの怪しむ様子を一瞬で取り下げて「はい」とどこかぼんやりともうっとりとも取れる様子で答えた。

 それから「いこうか」と明依に声をかけて歩き出す。余裕のある様子に、本当にどこまでも洗練された雰囲気のある人だと思った。

 店の外に出ながら宵は明依にココアを手渡した。「ありがとう」と明依がお礼を言うと、「どういたしまして」と宵は答えた。

「さすがに目立つね。スーツに制服じゃ」

 そう言うと宵は少し楽しそうに笑って、缶コーヒーのプルタブに指を引っ掛けた。

「援助交際だと思われたかな。通報されてないといいけど」
「あの様子だと、大丈夫だと思うけど」
「明依だったらどう思う?年の離れた男女が、スーツと制服着ていたら」

 明依は少し考えた。しかし思いついた内容は、先ほど初めて会った人間に話していいものなのか悩む内容だった。

「怒らない?」
「怒らない怒らない」

 宵はそう言いながら缶コーヒーに口をつけた。なんだか大人の余裕の中に遊び心も持っている人なんだと思った。
 最初に見た宵の姿が着物だったからだろうか。印象が違う様に思えた。今の方が、妓楼の中で見るよりも随分と穏やかだ。同時に、スマートな大人という印象もあった。

「外資系企業に勤めてて女にモテて仕方ないイケメンと、片手間で相手してる無垢な学生」

 明依がココアにストローをさしながらそう言うと、宵は口に含んでいたコーヒーを噴出した。

「そんなに褒めてくれるんだなー、って思って聞いてたのに。最後しっかり(けな)されてた」

 宵はそう言うと今度こそコーヒーを飲み下した。時々思い出したかのようにクスクス笑ったかと思えば「今時の中学生は〝外資系〟なんて言葉を知ってるんだな」と感心した様に言っていた。

 宵は親戚夫婦の家に真っ直ぐに帰る道を選ばなかった。コンビニから家の距離なんてたかが知れている。だからほんの少しの、遠回り。

「明依。お前はこの選択を、後悔しないか」

 少し硬い口調で明依にそう問いかける宵に、明依は思わず彼の顔を見た。

「自ら選んだ道だって、胸を張って言える?」

 今の今まで涼しい顔をしていた宵の表情に、ほんの少しだけ憂いがある様に思えた。楼主という立場である宵の葛藤の様なものなのだろうか。

「……わからない」

 明依は俯いて少し考えた後、そう答えた。それが今の素直な気持ちだった。

「わからないけど、今よりはずっとマシだって断言できる。胸を張って言えるかはわからないけど、後悔なんてしないよ」

 今になって思えば、これはあまりに楽観的な考えだったと思う。それでもこの時、この言葉を選択してよかったと思った。
 なぜなら「そうか」と言った宵を盗み見たほんの一瞬、彼は本当に安心した様な顔で笑っていたから。
 それぞれ持っている飲み物を飲み終えるくらいの短い散歩を終えて、二人は旭達の待っている車に到着した。

 外を歩く事が最後だという予感は、半分正解で半分不正解だった。
 外は歩けた。怪しまれないように中学卒業までは学校に通う事になったからだ。
 しかし友達と遊ぶことも、寄り道をする事も、買い物に行くことも出来なかった。常に誰かに、ほとんどの場合は旭に見張られて生活していた。

 学校の帰り道、吉原と契約したにも関わらず外で生活をしているのは明依が初めての事なのだと旭が言っていた。それも全て宵の特別な計らいで、彼が直接主郭に相談して決めたらしい。
 楼主になってまだ期間は短いが、信頼のある宵だから出来た事だと誇らしげに旭は語っていた。

「本当に凄い事なんだぞ。お前、宵兄さんに感謝しろよ」
「アンタに言われなくても感謝してるから」
「マジでお前。……本当に可愛くないな」
「アンタだって全然かっこよくないじゃん」
「おい。それは話が違ってくるだろ。俺は〝可愛げがない〟って話をしてんだよ。撤回しろ!」
「しない」

 あくまでも見張るという話だったが、二人はいつもこんな調子で言い合いをしていた。それから旭が急に自分の立場を思い出して明依と物理的に距離を取る。という流れがもはやお決まりとなっていた。

 いつも通りの学校生活を送りながらも、実感がなかった。あの隔離された幻想的な世界で生活している自分が全く想像がつかなかった。
 中学を卒業した日。学校の前に迎えに来た車に乗り込んだ。

「思い残すことがない様に、よく見とけ。最後の浮世の景色だぞ」

 車の中、ぼんやりと景色を見つめる明依に、旭はそう言った。それは意図的に固くした様な、無理矢理口にした様な口調だった。

「別に思い残す事なんてない」

 明依はそう言いながらも、ほんの少しだけ意識して景色をなぞった。
 卒業証書も制服もバックも、何を言われることもなく損料屋で回収された。きっと二度と見る事はないだろう。

「今日からよろしくね、明依」

 旭に連れられて満月屋の中にある宵の部屋へと移動すると、彼は優しい顔をして笑う。
 野分に連れられて吉原に来た当時は断られてばかりで若干自棄になっていたが、中学を卒業するまで冷静にいろいろな事を考えた。

 この人がいなかったらもしかすると親戚夫婦を殺していたのかもしれない。もし殺す度胸が消え失せていたなら、地獄だと気づいた世界に逆戻りしていたかもしれない。

「感謝しています、楼主さん」

 明依のその一言で目の前に座る宵と旭は目を見開いた。

「私を拾ってくれてありがとうございます」

 深々と頭を下げた後で頭を上げると、宵は少し焦った様子を見せていた。

「そんなに(かしこ)まらなくていい。この前みたいな……いつも通りでいいから。とにかく、そんなに気負わないで」
「今までみたいな横着でふてぶてしい態度でいいってさ」
「旭。……もう少し言葉を選ぶんだ」

 その日、明依という人間は誰にも怪しまれる事なく、現代社会から姿を消した。



「雪。そろそろ行こうかね」

 そういう野分の言葉で、明依は我に返った。満月屋の外。明依が顔を上げれば、野分の隣で俯いている雪がこくりと一度頷いた。
 今朝からずっと、悪夢の中にいる様な感覚だった。今日雪は、満月屋を去る事になる。

「雪」

 宵と吉野の側にいる明依は、それから黙り込んだ。かける言葉なんて、何一つ浮かばなかった。もしかするともう、二度と会えないんじゃないだろうか。そんな不安が胸の中に溢れ返っている。
 雪は顔を上げて明依を見ると、明依の前まで歩いてきた。

「お迎えに来てね」
「え?」

 雪は今にも泣きそうな顔でそう言う。明依は意味が分からず、雪の言葉の続きを待っていた。

「雛菊姐さん、いつも言ってた。『吉原で次に大夫になるのは、絶対に明依だ』って」

 思わず息を呑んだ。いろんな感情が押し寄せて、何の言葉にもならない。期待して待っていても迎えに行くことが出来ないと説明しなければいけないというのに、何一つ言葉にはならなかった。

 雪は涙をこらえる様に一度だけ強く唇を噛みしめてから、明依に向かってほほ笑んだ。

 その顔と生前の日奈の笑顔が重なる。

 明依は雪から目が離せなかった。雪の中には間違いなく、今はもういない日奈という存在が根を張っている。そしてきっと、大きな花を咲かせているのだろう。

 雪はすぐに振り返って野分の元に走っていった。

 日奈が雪に言っていた〝いつも〟にはきっと、二人が嫌いだと言い合って話していない期間も含まれているのだろう。日奈が雪を育てた期間は、とても短い。それでも間違いなく雪の中には、日奈という人間の教えが刻み込まれている。

 どうしてそれを守ってあげられなかった。一体どうしたらよかった。これから一体、どうしたらいい。

「明依。胸を張りなさい」

 明依は弾かれた様に顔を上げた。後ろに立っている吉野は、去る雪の背中から目を離さず真っ直ぐ見つめていた。

「どれだけ辛くても、今だけは笑顔でいなさい。それがたくさんの笑顔をくれた雪に対する礼儀よ」

 明依は込み上げる気持ちを抑えつけて雪を見た。雪は恐る恐るという様子で振り返った。
 吉野が明依がもう大夫になることが出来ないと知っているのかはわからない。

 ただ本当に、その通りだと思った。胸を張ればすぐに溢れてくる。雪との楽しかった日々が、一瞬で明依の心を埋め尽くした。

「またね!雪!」

 明依は雪に向かって大きく手を振った。雪は嬉しそうに笑うと、大きく手を振り返した。
 至極ありきたりな言葉。誰にでも思いつく言葉の一つにある重みを、明依は今ひしひしと感じていた。

 ふと向かいの建物の屋根を見ると、足を放り出して座っている終夜が見えた。
 終夜は明依と目が合うと、挑発的な顔で笑った。
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