造花街・吉原の陰謀

6:窓の明かりは灯らない

「ねえ俺さ、送り届けるって、言ったよね?」

 雨はもう止んでいた。主郭の門前の石段を降りながら、終夜は呆れているのか楽しんでいるのかわからない口調で言う。

「送り届けてもらうなんて言ってないし、必要ないって言ってるの。一人で大丈夫」
「自分の身も守れないくせに、何が大丈夫なの?」
「万が一何かあっても、私の責任だからいいの」

 旭を殺した犯人が捕まっていない以上、安全というわけではない事は明依にもわかっていた。しかしそれでも、今は一人になりたかった。これから、おそらくまだ起きているであろう宵の所へ行き、勝手に出てきた事と座敷に上がらなかった事を謝らなければならない。いつも穏やかな宵も、今日ばかりはそうはいかないだろう。
 明依は今日まで一度だって宵の言い付けを破った事はなかった。拾われた身として、努めて誠実であろうとした。それが当たり前だと思っていたのに、旭が殺されたと見回りの男に聞いた時、頭の中が真っ白になって気付けば駆け出していた。きっと宵は呆れている事だろう。その代償はきっと安くない。だから今から宵に会いに行くまで、少しでも一人で考える時間が欲しかった。
 本音を言えば、それすらも後回しにしたいくらいだ。それくらい今日はもう、気力がなかった。

「聞いてた通りの意地っ張りだ」

 独り言の様に呟いた終夜の声は、どこか楽しそうだ。一体誰から聞いたのか。終夜よりも先に階段を降りていた明依は立ち止まり、振り返りながら口を開いた。

「わかったよ。今日はアンタの言う通りにしてあげる」

 明依が言葉を発するよりも先に終夜はそう言って、石段に腰かけた。

「殺人鬼には気を付けてね」

 終夜は片手でひらひらと手を振った。案外あっさりと引き下がった終夜に安堵した明依は、終夜に向き直って頭を下げた。

「終夜。最後に旭に会わせてくれて、本当にありがとう」
「どういたしまして」

 明依が顔を上げて終夜を見ると、頬杖をついて明依を見下ろしていた。

「おやすみなさい」
「うん、おやすみ」

 石段を降りきり少し歩いて振り返ると、そこにはもう終夜の姿はなかった。明依は満月屋までの道を歩き出した。
 宵に迷惑をかけていることに対して謝らなければいけないという事は当然わかってはいるものの、心から本当に申し訳ないという気持ちが芽生える程の余裕はない。気を抜けば膝から崩れ落ちそうで、大声で泣きわめいてしまいそうだった。

 どこの見世も閉まっている。大門もとうに閉まっているだろう。今夜客を取った遊女ももう眠っているかもしれない。まるで自分だけがこの世界に閉じ込められた様に静かだった。

 結局宵になんと話せばいいのか話はまとまらないまま、気付けば満月屋のすぐ側まで来ていた。出入口の戸の前に誰かが立っている。

「明依か?」

 一歩一歩と明依に近寄りながらそういった声は、落ち着きのない声だった。

「宵兄さん」
「勘弁してくれ、明依」

 明依が宵の名前を呼ぶと、彼は駆け出して明依を力強く抱きしめた。石段から落ちた時に打ち付けた部分がかすかに痛んだが、それよりも抱きしめられているという事実に困惑していた。

「門番からお前の着物を渡されて、主郭の中に入っていったって聞いた時は、本当にどうしようかと思った」
「ごめんなさい」
「いいんだよ、無事に帰ってきてくれただけでいい。よかった、本当に」

 こんなに余裕のない宵を見るのは初めてだった。どれだけ心配してくれていたのか痛いほど伝わってきて、疲れているから宵への報告を後回しにしたいと一瞬でも思った自分を恥じた。

「痛っ」

 抱きしめられた腕にさらに力が入り思わず明依がそう言うと、宵は弾かれた様に明依から腕をほどいた。それから明依の手を掴んで袖を捲る。

「この怪我、どうしたんだ?」

 青あざが出来た明依の腕を見ている宵は、唖然としている。

「もしかして、何かされたのか?」
「違うよ、何もされてない。ただ、自分で着物の裾を踏んで、門前の石段から落ちただけ」
「頭は打ってないか?もし気分が悪くなったら、すぐに言うんだよ。それに、身体がかなり冷えてる。まずは風呂に入っておいで」
「宵兄さん、怒ってないの?」

 心配する言葉だけ並べる宵に思わずそう聞いた。嫌味の一つくらい言ってもいいはずだ。楼主の顔に泥を塗る様なまねをした。

「本当は叱らなきゃいけないのに、ダメな楼主だね」

 明依の腰に手を添えて満月屋の中に誘導しながら、困り笑顔を浮かべた宵は優しい口調で言った。

 一人で風呂場に移動した明依は、着物を脱ごうとして終夜の長羽織を持ってきたことに気が付いた。これについては返すべきなのか捨てるべきなのかわからないが、〝立入許可書〟と書かれた紙もある。羽織は洗って返すしかないのだが、あの様子では主郭の中には入れない。しかし、普段どんな行動をしているのかわからない終夜を闇雲に探すのはあまりに非効率的だ。なぜか終夜を恐れている門番に頼んだところで返してくれる保証もない。何より、直接返さないのは失礼だ。一体どうしたものかと、泥だらけになった全身を洗い流して、髪を拭きながら考えていた。

 宵の部屋の襖を開けると、宵は茶を啜っていた。そして隅には、壁に寄り掛かりぼんやりと宙を見上げている日奈がいた。ゆっくりと振り返った日奈の目元は、真っ赤になっている。
 日奈と目が合った瞬間、明依の心臓はドクリと音を立てた。急激に現実に引き戻され、胸の内が陰る様な感覚があった。

「明依、ケガしてるんでしょ?」
「大丈夫だよ」
「私知ってるんだよ。明依の大丈夫、は口癖みたいなものだもん」

 日奈はうっすらと笑って立ち上がる。明依の側に座り、傷の治療を始めた日奈の手は、震えていた。自分の目で見たことを日奈にどんな言葉で伝えたらいいのかはわからないが、その後日奈が泣いてしまう事だけは手に取る様にわかった。
 明依は自分の腕を治療する日奈から顔を逸らした。

「本当だったよ」
「……そっか」

 明依の一言に日奈はそう言う。少しの沈黙の後で日奈を見れば、眉を潜めてぽろぽろと涙を流していた。声を殺して、見ている方の胸が痛むくらい悲しそうな顔をして。
 明依は涙が零れない様に咄嗟に上を向いた。旭に直接別れを告げる事が出来たのは自分だけだ。明依よりも旭との付き合いが長い二人を差し置いて、勢いだけで駆け出して、ほとんど無理矢理旭に会ってきたのだ。今になってそれが、裏切りの様に思えた。そんな後ろめたさを抱えている状態で、しかも、旭の前でも飽きる程涙を流した自分がここで泣く事は、随分と身勝手な事の様に思えた。

「二人とも、意地っ張りだね」

 宵はそう言いながら明依と日奈の手を互いに握らせる様に動かした後、自分の手で二人の手を優しく包み込んだ。

「明依も日奈も、お互いに思う所があるんだろう。でも、自分が悲しくて泣きたい気持ちまで(いつわ)る必要はないんだよ。……二人とも今だけは、自分を許してあげたらどうかな」

 宵の言葉に明依と日奈は顔を見合わせた。日奈は胸の内に押し寄せる何かの感情に耐える様にぐっと眉を寄せて、目に涙をためていた。

「明依」

 日奈の喉元で震えた声を合図にどちらからともなく抱きしめあって、声をあげて泣いた。宵は何をいう事もなく、二人の背中を優しくさすっていた。
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