造花街・吉原の陰謀

02:一揃いの雛菊

 三味線の音が、明依(めい)の自室の中いっぱいに響いていた。明依はここ最近、部屋に籠って三味線を弾いていた。とはいっても、座敷で弾くくらいなら腕前としては問題ない。5年も死に物狂いでやっていれば、案外上手になるものだ。
 落ち着かない。(ゆき)満月(まんげつ)屋を去った日から。何かしていないと落ち着かない。この様子は、吉原に来てすぐの覚える事が山ほどあり、寝る間も惜しんで全神経を使っていたあの頃に似ていた。
 右手首に駆け抜ける様な痛みが走り、明依は思わず撥を手放した。

「痛っ」

 変に力が入ったんだろうか。動かすとズキズキと痛む手首を見てため息をついた。
 ここ数か月、ツイてないなんて言葉では片付けられない程最悪だ。そう言えば、竹ノ位の誰かが厄年だとか騒いでいた。吉原の遊女たちは、そういう話が好きだ。明依は全く興味がなかったが、もし自分が厄年だったら非科学的な事を信用して宗教なんかに縋りたくなるくらいには悪い事が起きすぎている。

「明依」

 襖の外から聞こえた(よい)の声に「はい」と返事をしながら立ち上がり、三味線をスタンドに立てかけた。

「話があるんだけど、少しいい?」
「うん。どうぞ」

 そう言うと宵は襖を開けて部屋の中に入ってきた。部屋に二人きりはさすがに気まずいのではと思った明依だったが、どうやら宵は完全に仕事モードの様で気まずいと感じた自分が恥ずかしくなるほど平然としていた。

「次の頭領の話なんだけど、吉原全体の意見を聞くために投票で確認する事にしたらしい」

 その言葉に、明依は思わず息を呑んで宵を見た。

「それで決まるの?」
「いや、そうじゃない。通例では選抜された人の中から、主郭の重役と頭領が話し合って決めているそうだ。ただ今回は、試験的にやってみようって話になったんだって」
「そっか……」

 もしこの投票で決まるとして終夜が一番票を取れば、もう誰も何も言えなくなってしまうだろう。どうやら今すぐ吉原が終夜の物にはならないらしい。もし終夜の物になれば、以前炎天が言っていた様に終夜は宵を消すつもりかもしれない。
 終夜を排除しようとする動きが、本格的になってきた。間を取り持っていた旭が死んだ時から、こうなることは決まっていたのだろう。終夜は間違いなく吉原の危険分子だ。自分には関係ない事だと割り切ってしまいたい。それなのに、日奈と旭の見ていた終夜という人間の確信を未だに掴んでいない事も、頭を撫でられた時の安堵した彼の顔も、気になって仕方ない。
 そんなことを考えている明依に、宵は一枚の紙を差し出した。受け取って眺めたその紙には、終夜や晴朗をはじめとした主郭の人間。それから、楼主や松ノ位の遊女の名前も妓楼の所属と共に記載されていた。

「これ、どういう事?」
「主郭以外の人間も含めてやってみようって話になったらしい」
「これでもし、宵兄さんが終夜より票を得たら」
「確実にとは言えない。ただ叢雲さん達は俺に票が集まった場合、それを持って裏の頭領に掛け合うつもりらしい。そうなれば、可能性はあるかもしれない」

 宵は吉原で評判がいい。何も力になれなかった罪悪感は消えはしないが、少しだけ見えてきた希望に、明依は深く息を吐いて笑顔を作った。それからもう一度、宵から手渡された紙を見た。やはり晴朗から聞いた通り、叢雲、清澄、炎天の名前はなかった。
 楼主の中で一番票を取るのはおそらく宵だろう。しかし、それを上回る可能性があるのが、四人の松ノ位の遊女達だ。

 満月屋、吉野大夫。三味線を弾けば朝鳥が歌い、手紙をしたためればその文字の美しさに恐縮した相手は返事を書くことが出来ない。という逸話を持つ程、現在の吉原に芸事や教養で彼女の右に出るものはいない。どこまでも穏やかなその様子を、まるで天女の様だという人もいる。
 丹楓屋、勝山大夫。現代の花魁像に近しい容姿からか、吉原内外での評判は非常に高く強かな様子に魅了される男性は多い。決して吉原内の流行をなぞらず、胸元を大きく見せる独自のファッションをはじめとして、彼女のスタイルが吉原内の流行を作ることも少なくない。何より吉原の歴史の中で唯一、梅ノ位から昇格を果たした遊女として、吉原の人間は彼女を異才と呼ぶ。
 扇屋、夕霧大夫。女でも思わず見惚れてしまう程美しい容姿を持つ遊女で、花魁道中の規模や客からの貢物の額は桁違いだと言われている。噂では何人もの富豪が彼女の手中に落ちて一文無しになったという、まさに傾城と呼ぶべき遊女だ。
 三浦屋、高尾大夫。四人の大夫の中で一番謎に包まれた人物で、常に顔の全体を布で隠している。よほどの上客でなければ花魁道中をせず、一度会った相手と会話の内容はどれだけ時間が経っても決して忘れないと言う疑わしい話もある。噂では、声も所作も眩む程美しいと言われているが、覆われた布の下は物凄く醜い顔をしているという話だ。しかしこれも信憑性は全くなく、逆に美しすぎて揉め事になるから顔を隠しているとも言われている。

 当たり前の様に名前が載っている吉野は、無期限に延期になったとは言っても身請け先が決まっている。もし頭領選抜の票を多く獲得した場合、身請け話は延期どころか無かった事になるのだろうか。それがありえないとは言い切れないのが吉原という恐ろしい場所だ。
 晴朗の話からすれば、旭が生きていたら大した揉め事もなく彼に決まっていた事だろう。もしも暮相という頭領の息子が生きていたら、きっと彼が頭領になっていたんだろう。叢雲、清澄、炎天の三人はやはり頭領選抜に参加するつもりはないらしい。今の状況になって一番得をする人間は、やはり終夜以外には思い浮かばない。

「宵兄さん、頭領の息子さんにあった事ある?」
「頭領の息子?暮相さまの事?」

 不思議そうな顔をする宵に、明依はこくりと一度頷いた。

「どうしてそんなことが気になったんだ?」

 何かに首を突っ込もうとしていると思われたのだろうか。宵は疑う様に少し眉を潜めて、真意を探ろうとしているかのように明依の目をしっかりと見た。

「旭に似てるって話を聞いたから」
「なんだ。そういう事か」

 困った様に笑いながら答えた明依に、宵は少し息を吐いて安心したようにそう言った。

「残念ながら会った事はない。俺が来た時にはもう、吉原にはいなかったから」
「そっか」
「ただ、あの人が死んだ時の事はよく覚えてるよ。はたから見ていてもわかるくらい、主郭内は騒然としていたよ。まさかこんなことになるとは思わなかったって」

 きっと当時の主郭は大混乱だったんだろう。叢雲、清澄、炎天の三人は今もその罪を背負っている。旭はあの性格だ。きっと自分の無力さを恨んだ事だろう。もしかすると、その自負の念から明依を救おうと思い至ったのだろうか。可能性は高いだろう。
 それなら、終夜は。終夜は一体、どんな気持ちだったのだろう。何が違うんだろう。日奈と旭の見ていた〝終夜〟と、吉原の厄災と呼ばれる〝終夜〟と。ただ一つ確かなのは、終夜がしている事は決して善行とは呼べない。終夜が日奈や旭の言う善人なら、宵や明依をこんなに苦しめる事はしないだろう。
 明依はつい先ほど痛めた手首を無意識に撫でた。

「……そうだな。諦められないよね、こんな形で」

 明依が手首を撫でていた原因に察しがついたのだろうか。そういう宵に顔を上げると、彼は立てかけてある三味線を見ていた。
 諦めたくないに決まっている。大夫になることが出来れば、こんな投票なんて面倒な事をしなくても頭領に掛け合う事が出来たかもしれない。雪は今まで通り満月屋にいられたかもしれない。その時終夜は、どうなるんだろう。

「明依の負担になるかもしれないけど。日奈は……きっと旭も、本気で信じていたんだと思うよ。明依が大夫になる事」

 宵の言う通りだ。きっとあの二人は、心の底から信じてくれていたに違いない。『吉原で次に大夫になるのは、絶対に明依だ』という雪から聞いた日奈の言葉も、『わかってんのか、次はお前の番って事だ』と最後に会った夜に旭が言った言葉も。きっと真剣に明依という人間に向き合って発してくれた言葉だった。
 懐かしい。旭とよく喧嘩した。それを見て、日奈が笑っていた。三人でよく笑い合った。当たり前だと思っていた。だっていつか終わりが来るなんて、誰も教えてくれなかったから。そして当たり前だと思っていた三人の関係を、今は懐かしいと思っている。
 明依は最後に見た惨劇の中の日奈の笑顔を思い出していた。

「日奈、笑ってたね」

 日奈との思い出、日奈の死。記憶の中でなぞって、感情が揺れる。喜怒哀楽の全てを通って落ち着いた先で、明依は息を深く吐き出した。心が痛む。ただ、少しくらいなら思い出を語る事が出来るようになった様だ。時間の流れというものを今、明依はひしひしと感じていた。
 明依が顔を上げれば、宵は見守る様な優しい視線を向けていた。それが何となく気恥ずかしくなって明依は宵から視線を逸らして次の話題を考えた。

「……えっと、宵兄さんも、あの(かんざし)を清澄さんからすすめられたの?」
「清澄さんから?」

 宵は日奈に簪を贈ったと言っていたのですぐに話が分かると思ったが、宵は不思議そうな顔をして明依を見ていた。明依は訳が分からず、宵の次の言葉を待っていた。

「俺が日奈に贈った簪は、吉原の外で買ったものだよ。清澄さんの店じゃない」

 あれは間違いなく二つの簪と一つの(くし)の三つで一揃いの内、最後の一つの簪だった。簪の内の一つは旭が大夫昇進祝いに渡して、櫛は同じ理由で明依が渡した。明らかに贈答品の簪を、日奈は自分で購入したのか。そんなはずない。明依が店を訪ねた時には既に簪はなかった。日奈が持っていたのは確実に旭と明依が渡した二つだけだったはずだ。それじゃあ、一体誰が。
 あの飄々とした男の顔を思い浮かべて、それから疑心を抱いた。心がすぐさま反発する。あの男は、そんな人間じゃないはずだ。『俺が行った時には、もう死んでた』終夜はそう言ったじゃないか。しかしもしそれが嘘だったら。『日奈に会いに行った』と最初に言った言葉が正しかったら。日奈が笑っていた理由は、最期に想い人に会えた喜びだったのだろうか。


「明依」

 宵の声に顔を上げると、彼は心配そうな顔で明依を見ていた。

「うん、平気。大丈夫」

 明依がそう言うと、宵はどこか安心した様子で肩の力を抜いた。

「ねえ明依。もし俺が、吉原の頭領になることが出来たら」

 もし宵が頭領になったら。もしも本当にそんな未来が来たら、一体終夜はどうなるんだろう。
 そんなことを、たった一瞬だけ考えた。すると宵は息を漏らして小さく笑った。

「明依は優しいね」
「え?」
「終夜の事を考えていたんだろ」
「違う。そういうわけじゃなくて……」

 「そういうわけじゃなくて」ともう一度口にしながら、考えた。

「終夜、どうして私の事を守ってくれたんだろう」
「個人的な感情だったら?」

 心臓が一度だけ、ドクリと跳ねる。それがどういう理由なのかわからない。あの蕎麦屋の二階の事を思い出したのか。それともただ宵に、勘違いされたくないと思っているからか。ただ、嫌な音だった事は確かだ。
 明依は目の前にいる宵よりも自分を騙すために、声を漏らして笑った。

「ありえないよ。絶対に」
「この世に、絶対はない」

 誤魔化すように笑う明依とは相反して、宵はどこか冷たい表情で視線を明依から逸らすように流した。しかしそれは一瞬の事で、すぐに戸惑う明依に向かってほほ笑んだ。

「なんてね、冗談だよ。主郭の事情は知らないけど、終夜の事だから本当に世間や客を納得させる為にする根回しが嫌なのかもしれないよ」

 いつもの様子の宵に、明依は肩の力を抜いた。時々宵に、何もかも見透かされているのではないかと思うときがある。心の内側に局所麻酔をかけられた状態で探られている様なあの感覚。正直、その探られる様な感覚は、好きじゃない。

「用紙に投票する人の名前を書いたら、主郭の前に設置されている箱の中に入れて」

 宵はそう言うと、一枚の小さな投票用紙を明依に渡した。明依がそれを見ていると、宵は立ち上がった。

「宵兄さん」

 立ち上がった宵は、明依の言葉に歩き出そうとしていた足を戻して向き直った。

「大丈夫よね」

 この投票でもし、何の結果も得られなかったら。これが今の、唯一の希望なのだ。

「今はただ、信じて待っていよう」

 宵はそう言うと、襖を開けて部屋の外に出て行った。
 『この世に、絶対はない』そうかもしれない。ただ、宵が大丈夫だと言えば、大丈夫になる様な気がしたのだ。明依は不安な気持ちを吐き出すように深く息を吐くと、文机と向かい合って投票用紙に宵の名前を書いた。
 それからもう一度、名前の書かれた用紙を見る。
 〝終夜〟
 あの簪を日奈に渡したのは、彼なんだろうか。
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