造花街・吉原の陰謀

03:雨宿り

 朝。まだぼんやりとした意識の中で目を開いた。
 目の前には枕元に座り込んで明依を覗き込んでいる双子の幽霊の少女、海がいた。

「ひッ、」
「うるさい」
「まだ何も言ってなかっただろ」

 明依が叫び声をあげるより先に海が明依の口元を手のひらでふさいだ。明依が少しは落ち着いた事を確認した後、海は明依の口元から手を離した。空は何食わぬ顔で海の後ろに立っていた。

「ちょっと、もう……やめてよ……」

 明依はバクバクとうるさくなる心臓に手を当てた。眠気なんて今の一瞬で吹き飛んだが、落ち着こうと横になった体制のまま反対を向いて、海と空に背を向けて布団を被った。しかし海は、明依の被っていた布団を勢いよく剥ぎ取った。

「も~」
「投票、行かないと」
「……そうだ。投票、行かないと」

 明依はそう言うと勢いよく起き上がった。結局一日あけてしまった。宵以外に投票する選択肢なんてないというのに。

「悩んでるのか」

 呆れたようにそういった空は、明依と目が合うと革張りのスーツケースを畳の上に置いて腕を組んだ。

「別に悩んでるわけじゃないけど」
「じゃあどうして、宵が説明した昨日の時点で投票しなかった」
「それは……」

 空の質問に、どんな風に答えていいのかわからなかった。別に終夜を庇っているわけじゃない。宵に生きていてほしいのだから当然で、終夜に投票するなんて選択肢は最初からない。ただこの行為は、終夜を完全に敵と見なす事の様に思えた。日奈と旭の見ていた終夜という人物像も掴めないまま、満月屋の座敷で守ってくれた事も、あの安心した様な顔も、もしかすると日奈に簪をあげたのは彼かもしれないという事も全て、なにもかも、なかったことにして。

「お前の場合、宵に入れるのが安牌(あんぱい)だ。匿名とは言っても、調べれば筆跡の癖から誰が誰に入れたのかはわかる。終夜を庇うつもりがないなら、さっさと宵の名前書いた投票用紙を箱の中に突っ込んでこい」
「わかってる、そんな事……」
「もしかして、終夜がいいヤツかもしれない。なんて考えてないか」

 いいヤツ、そんなはずない事は分かってる。わかっているのに、ここまで言われてもまだ躊躇していた。

「もしも、だ。仮にそうだったとして、じゃあお前主郭を、吉原のほぼ全てを敵に回している終夜をたった一人で信じられるのか。終夜がそんなものを望むはずがない。だからなんの力にもならない。誰も得をしない。無意味な〝信じる〟って行為に、命を賭けられるか。そんな度胸も、根性もないだろ」

 いつも通りの平坦な口調。しかし空のその口調からは明らかに、何らかの感情を含んでいた。

「何も間違ってないよ、それが普通なんだから。この状況で終夜の味方をしようなんて、イカれてる」
「確かにイカれてる。そういうの、自殺行為っていう」

 空に続いて海も平坦な口調でそう行った。

「これだけははっきり言っておく。終夜は、善人じゃないぞ」
「……わかってる」

 明依がそう言うと、空と海はいつものように顔を見合わせた。海は側に置いてあったスーツケースを持って立ち上がった。空もスーツケースを持つと、二人はさっさと部屋を出て行った。
 わかっているのにどうしても、心が反発する。
 明依は勢いに任せて立ち上がると、そのままの勢いで布団をたたみ、さっさと身支度を整えた。それから投票用紙を掴んで部屋を出た。悩んでいたってどうせ、終夜に投票するわけじゃない。どちらにしても宵に投票するのだから、気になることは早めに済ませるに越したことはないじゃないか。

「おはようございます」

 正面から聞こえた声に明依は立ち止まって顔を上げた後、思わず眉間に皺を寄せた。

「よく普通に声がかけられますね、晴朗さん」

 ここ数日、前回の座敷の件が問題になったのかは知らないが、妓楼で顔を見る事はなかった。解雇でもされたのではと思っていたが、そうではなかったらしい。
 明依の言葉に、晴朗は不思議そうに首を傾けていた。

「何の事ですか?」
「私!あなたに!殺されかけているんですよ!」
「ああ、なるほど。そういう事ですか。でも、もう眼中にないですから」

 その言い方。と思ったが、明依は反論する気すらなくして溜息をついた。

「やはり肝が据わっている。本気で殺しにかかってきた人間を前にして、平然としていられるなんて。それほどの度胸があるなら、僕が仕込みたいくらいです」

 どうしてこの年齢になって悪事に手を染めないといけないのかと思っている明依に、晴朗は「どうですか?」と爽やかな笑顔で本気か冗談かわからない問いかけをしてくる。

「もう眼中にないなら、私の事は放っておいて下さい」

 明依はそう言って晴朗の隣を通り過ぎた。

「満月楼の楼主に投票するんですか?」

 少し後ろから聞こえる声に、明依は再び溜息を吐いた。人気のない廊下、聞こえる足音は一人分。終夜と同じだ。

「放っておいてくださいと言ったはずです」
「僕は終夜に入れました。冷静に考えてみても彼以外にはいないと思うのですが」
「その終夜が問題だから、別の誰かをという試みなのではないですか」
「その誰かがもし、禁忌肢だったら?」
「禁忌肢って?」
「決して選んではいけない選択肢の事です」

 明依は立ち止まって晴朗の方へと振り返った。

「何が言いたいの?」

 晴朗は少しの間、色のない表情で明依を見ていたが、すぐに笑顔を作った。

「僕じゃありません。終夜の考えですよ。〝もっと疑って、ふるいにかけてもいいくらいだ〟と」
「……主郭の事情なんて、私には関係ありませんから。投票しろと言われたなら、相応(ふさわ)しいと思う人に投票するだけです」

 明依はそう言うと、今度こそ晴朗を無視して歩いた。まだついてきているんだろうかと考えている時点で負けなのだろうが、なるべく考えない様にした。しかし人間の意志というのはお粗末なもので、結局満月屋の出入り口で興味本位で振り返った。
 晴朗は笑顔を浮かべて、ひらひらと明依に向かって手を振っていた。

「いってらっしゃい。気を付けて」

 自分はなんて意志の弱い人間なんだ、と本気で思いながら少し戸惑った後、晴朗にぺこりと頭を下げた。自分はなんて度胸のない人間なんだ、と本気で思いながらため息をついた。

 本当に、これでいいんだろうか。間違っているはずがない。だって終夜は、宵に旭殺害の罪を被せようとした。吉野の身請け話を無期限に延期にした。明依を脅して、大夫にしないように仕組んでいた。だから、間違っているはずがない。間違っているはずがないのに、気分が晴れない。
 そんな事を考えながらしばらく歩いて、ふと気が付いて空を見上げた。灰色の分厚い雲で覆われている。もうじき雨が降るだろう。傘を持って来るべきだったが、わざわざ来た道を戻るのは酷く億劫だった。もう半分以上来てしまったのだから、急いで出してきてしまおう。そう思って小走りで駆け出そうとした矢先、空はぽつりと明依の頬に雨粒を落とした。

「雨」

 明依はそう呟いた後、深く息を吐き捨てた。

「……最悪」

 日奈と旭のおかげで色付いていた世界が、本当の色を見せ始めた。それなのに曇天の灰色が、景色の色を奪ってみせる。本当に、上手くいかない事ばかりだ。気分が晴れない事ばかり。
 主郭に行くにしても満月屋に戻るにしても、きっとこの雨はあの日の様に着物を余す事なく濡らすだろう。また、重くなった着物を引きずらないといけないのか。旭が死んだ日の様に。

「お困りですか。お嬢さん」

 ふざけた様な口調で言われてたかと思えば、肩を抱かれて引き寄せられた。途端に頭上では、雨粒が軽快に跳ねる音が聞こえてくる。
 派手な着物から伸びる太すぎる事も細すぎる事もないしなやかな筋肉がついた腕。前髪を中央で分けた髪型は洗練された雰囲気を加速させている。

「久しぶり。明依」
時雨(しぐれ)さん」
「もうすぐ吉原一大イベント、夏祭りだろ。今年も世話になるって宵に挨拶しに行こうと思ったら、偶然お前を見つけたんだ」

 そう言うと、時雨は明依の肩に回していた腕を腰に回した。この人は言ってしまえば男性版勝山だ。天性の女好きで、それを全く隠さない。

「俺は吉原一運のいい男だな。茶でもどうだ」

 明依は相変わらずの時雨の様子に苦笑いを浮かべた。それを除けば宵と話が合う様で、よく明依のわからない話を二人でしている。ちなみに時雨の「茶でもどうだ」は「こんにちは」くらいの意味しか含んでいない。

「ありがとう時雨さん。おかげで雨に濡れなくてすんだ」
「間一髪だったな」

 明依は視線を感じて、時雨の隣に立っている男に視線を移した。見た事のない男が、じっとこちらを見ていた。年齢は大して変わらない様だが、深く刻まれた隈がどこか仄暗く不気味な印象を受ける男だった。
 男は明依と視線が絡んだ後、別に焦る様子も見せず薄く笑うと丁寧に頭を下げた。

「明依は会った事なかったか。最近俺の付き人になった、(ゆずりは)だ」
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」

 笑顔のままそういう楪に、明依も同じ言葉を返しながら頭を下げた。

「俺の予想ではもう少し後で降る予定だったんだがな。……そうだ、明依。雨が止むまでウチの妓楼に来いよ。ゆっくり茶でも飲もう。俺もこの雨の中、動くのは億劫なんでね」

 二度誘ってくるのだから本気なのだろう。そう判断した明依は、一度頷いた。これからやらなければいけない事を後回しにする理由にして。

「うん。行く」
「そういう事だ、楪。帰るぞ」
「はい」

 時雨は明依の腰に手を添えたまま歩き出した。特に何とも思わなかったが、普通異性とここまで近い距離感にいるなら胸がときめくものなんじゃないだろうか。

「雨は嫌いだが、傘持って外に出てみるモンだな。おかげで俺は今、宵に邪魔される事もなく明依の側にいられるんだ。こんなラッキーハプニングに出くわすなんて、自分の運の良さが怖いな」

 この人だから胸がときめかないんだと信じたい。いやしかし、時雨は吉原一人気のある男と言っても過言ではない。そんな人物とこんなに近くにいるのだ。きっと普段異性を相手にし過ぎて感覚がバグったのだろう。それにしても胸くらいはときめいてほしいものだと思うが、変に冷静になっている。晴朗の時もそうだったので、おそらく職業病の様なものなのだろう。
 道を歩いているだけでも「時雨さん。雨が止むまでウチで休んでいきな」と茶屋の主人に声をかけられ、断れば隣の店のご婦人から「この前はありがとうね」と感謝される。それに軽く答えれば、「あの着物。小春(こはる)屋の時雨さんじゃないの?」と観光客のお姉さんから黄色い声が飛ぶ。人気者とはまさに、この男の為にあるような言葉だ。
 それに軽く答えながら時雨が所属している妓楼〝小春屋〟に到着する。満月屋の様な豪華絢爛さはなく、質素で小さな見世だ。それでもこの見世は夜になれば、ひっきりなしに客が訪れる。
 中に入れば、小春屋の楼主がにこやかな笑顔を浮かべて立っていた。

「おや、黎明さん。なにかありましたかな」
「なんもねーよじーさん。俺が茶に誘っただけだ」
「そうかそうか。ゆっくりしてお行きなさいね。雨も降っとる事だしね」
「はい、お邪魔します」

 そう言って明依が頭を下げると、小春屋の楼主は曲がった腰に手を当てて部屋に入っていった。

「では、僕はこれで失礼します」

 そう言って楪が頭を下げると、時雨は彼の肩に手を置いた。

「おい、楪。俺は厨房のばーちゃんに美味い茶菓子を頼んでくる。その間を持たせてろ。それも付き人の仕事だろ」
「……しかし、」
「言っておくが、明依の見世の楼主はキレると怖いぞ。粗相の無いようにな」

 冗談めいた口調でそう言うと、時雨はさっさと廊下を歩いて行った。
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