造花街・吉原の陰謀

15:染め上げるより速く

「吉原で見つかった死体、みんな警察官だったんだってよ」
「こんな事やってるんだもん。いつ警察が来たって、」
「ちょっと……!やめなよ」

 明依はひそひそとそんな噂話をする満月屋の竹ノ位の遊女の隣を通り過ぎる。
 噂話の的になったのは、吉原で見つかった死体の正体についてだった。
 楪が殺されたことも当然驚いたが、彼が警察官だったことに明依は衝撃を受けていた。関わったのは短い時間だったが、何の違和感もなかった。強いて言うのなら、最初に感じたあの仄暗い不気味な雰囲気が印象的だったことくらいだ。

 あんなやり方以外に、本当に方法がなかったのかどうかは知らない。しかし終夜は、吉原を守ろうとしているのかもしれない。
 そこまで考えて、明依は首を振った。この思考回路も、もしかすると終夜の思い通りなのかもしれない。あの男はまるで他人の気持ちを全てわかっているかの様な素振りを見せていたじゃないか。もうこれ以上振り回されたくないんだから、頭の中から消えてくれ。そんなことを考えていると、いつの間にかいつも酔いを覚ます縁側にたどり着いていた。

「こんなところにいたのね、黎明」
「十六夜さん」

 声の主は十六夜だった。十六夜は明依の側まで歩いてくると、穏やかな顔で笑う。

「最近、夏祭りの件でよくここに来るの」

 どうしてだろうか。今、十六夜から聞いた言葉に安堵している。宵に対する個人的な感情ではない事に安堵したのだろうか。
 明依はゆっくりと息を吐いて笑顔を作った。自分自身の感情に振り回される事に少し疲れてしまった。終夜にしても、宵にしても。いや、疲れたというよりも飽きたという表現の方が正しいのかもしれない。〝悲劇のヒロインモード〟〝陶酔モード〟なんて自分自身で名前を付けておいて、一度深みにはまってしまえばそんなお気楽でもいられないらしい。

「宵兄さんを呼びましょうか?」
「いいえ。今日はあなたに用事があってきたの。ここ最近勝山大夫がね、アイツは一体いつ飲みに来るんだ。って言うのよ」

 そういえば以前満月屋で会った時に、十六夜はそんな事を言っていた。今の今まですっかり忘れていたし、一種の常套句の様なものだと思ってすらいた。そう考えて、たしかに勝山という人間はそんな取り繕うような事はし無さそうだなという結論に至った。

「それで私に黎明の予定を聞いて来るようにって。それから、」
「あら、十六夜。こんにちは」

 十六夜は言いにくそうに口を開いたが、言葉の途中で明依の後ろからそう声をかけたのは吉野に視線を向けた。

「吉野大夫、こんにちは。ウチの妓楼で黎明が潰れた時以来ですね」

 それは語弊があると思う。あれは潰れたんじゃない、勝山という酒乱モンスターに潰されたんだ。

「そうそう。勝山大夫ったら、明依の首を掴んで引きずってきて……本当に、楽しい人よね」

 吉野はそう言いながらくすくすと笑う。十六夜もそれに釣られて笑っているが、その楽しい人の被害者になった人間の気持ちを考えてくれと願った。

「お邪魔してごめんなさいね」
「あの、吉野大夫。失礼を承知で申し上げるのですが……」
「ええ。何かしら」

 思ってもみない言葉に、吉野は不思議そうな顔をしていた。

「今度ウチの妓楼で黎明とお酒を飲みたいと勝山大夫が言うのですが……吉野大夫の事も呼んで来いと言われました。しかも、()()()に。……本当にすみません」

 明依の頭の中では『アイツは一体いつ飲みに来るんだい。まさか忘れてるんじゃないだろうね!十六夜、アンタちょいと行ってきな。……ああ、そうだ。どうせならついでに吉野も呼んできな。無理なら別に構いやしないよ』と、後半ほとんどテキトーな口調で口にする勝山がはっきりと浮かんだ。
 吉原の大夫を呼びつける役回りなんて、絶対にしたくない。吉野は絶対に嫌な顔をしないと断言できるが、言いにくそうにしている十六夜に心底同情した。

「あら、私の事も誘ってくれるの?嬉しいわ」

 そういって笑う吉野に、十六夜が安心したとばかりに息を吐いた。

「では、二人で日程を決めておいてください。また来ますから」

 自分がもしこの役を仰せつかったら多分生きた心地がしないと思う。吉原にたった四人しかいない大夫を呼び立てるなんて、清水の舞台から飛び降りるくらいの覚悟だ。吉原にいる遊女たちにとって松ノ位、大夫という称号のつく人間はそれほど遠い存在だ。世話役として吉野の側にいた明依でさえそうなのだ。何の関わりもない中見世以下に所属している遊女からすると、本当に雲の上の様な存在だろう。
 大変でしたね、お疲れ様です。という同情の視線だけは十六夜に向けておく事にする。

「そうだ。次代頭領の件、噂になっていますよ。ここの楼主はさすがだって」

 普段涼し気な顔をしている事の多い十六夜が、まるで自分の事の様に嬉しそうな顔で話す事に明依はほんの少しの違和感を覚えていた。

「宵さんは細やかな配慮ができる方だから」
「そうですね。私も元従業員として、なんだか誇らしくなります」

 二人はそう言うと、穏やかな笑顔で微笑み合った。やはり十六夜の雰囲気は、勝山よりも吉野に似ている気がする。性格的には反対側にいる様にも思うが、いったい十六夜は勝山のどんなところに憧れて丹楓屋に異動したのだろうか。

「でも、そんな浮かれてもいられませんよね」
「上位三名が頭領候補として正式に公表された。これから先、吉原はどうなるのかしらね」

 上位三人、なんて名ばかりだ。時雨の話から、主郭の人間たちは吉原休園の時期に陰を総動員して終夜を殺す算段を付けているのだろう。
 この選抜はおそらく、終夜を片付けた後で誰を頭領にするか揉めない為の布石。それに気付かない終夜ではないだろう。明らかに終夜に不利な状況だ。それなのに、この吉原で最後に笑うのは終夜なのではないか。なんて想像をしている。

「僕()終夜に賭けています」

 突然聞こえた声に明依はびくりと肩を浮かせた。驚いて警戒したのは十六夜も同じようで、一歩身を引いていた。
 晴朗は明依と目が合うと、爽やかな笑顔を向ける。どうやら〝僕()〟というのは明依に向けて放った言葉らしい。
 この人は何者なんだろう。自分がいない時期の吉原の情報を深く知っているなんて。終夜は気にしなくていいと言っていたが、気にするに決まっている。得体の知れない人間ほど、怖いものはないじゃないか。

「晴朗さんはどうして、終夜くんに?」
「強いから。ただ、それだけです」

 吉野の質問に、晴朗はさも当然と言った様子で答える。
 そして晴朗は、吉野から十六夜に視線を移した。明依が十六夜を見ると、彼女は晴朗の持っている刀を凝視していた。晴朗が刀にそっと触れると、十六夜はゆっくりと視線を上げて晴朗を見た。

「この妓楼の方ですか?」
「元は、そうです」
「では、はじめまして。……と、言いたいところなのですが、お会いしたことがありましたか?」
「いいえ、覚えがありません」
「そうですか。では何か、後ろめたい事でもおありですか」

 そう言いながら晴朗は、触れている刀に指を絡めようと動かした。

「刀から手を離してください、晴朗さん」

 晴朗のその動きに警戒するよりも前に、宵は何の予兆もなく視界の隅に入ってきた。
 明依は思わず目を見開き、十六夜の前に立つ宵を見た。何の音も聞こえなかったのだ。足音も、着物が擦れる音さえも。それは、終夜を彷彿とさせた。

「彼女は、俺の大切なお客様です」
「どうやら僕はとんだ勘違いをされているらしい」

 怒っているのだろうか。宵が晴朗に向ける視線は、いつもより少し強くて冷たい。そんな宵の視線なんて気にも留めていないのだろう。晴朗はいつもの笑顔を宵に向けた。

「誰彼構わず襲ったりしませんよ」
「そうですか。それは失礼しました。俺にはあなたが、彼女に敵意を向けている様に見えたものですから」
「一服しに来たら楽しそうな話が聞こえたもので、混ぜてほしくなったんですよ」

 晴朗はそう言うと、懐から出した紙巻煙草を咥えてマッチで火をつけると縁側に腰を下ろした。やはり、見た目だけは穏やかな晴朗に紙巻煙草は似合わない。

「もう帰るのか?」

 宵は晴朗の様子をしばらく伺った後、十六夜に向かってそう問いかけた。

「はい。もう帰ります」
「じゃあ、送って行くよ。楼主に話があるから」
「はい」

 宵の提案に小さくそう呟いて俯く十六夜の顔はとても嬉しそうで、それでいて今にも消えてしまいそうな程、儚い。美しくてつい、見とれてしまうくらい綺麗だった。

「じゃあ明依、吉野大夫も。俺はこれで」
「ええ」

 そういう宵に、吉野は短く返事をして穏やかな笑顔を浮かべた。
 うん、じゃあね。とか、またね。そうやって、いつものように軽く返事をしようと考えていたのだと思う。だからほとんど無意識に、口を開いた。

「行こうか、小夜(さよ)

 結局、それより先に口を開いたのは宵だった。
 〝小夜〟というのが誰なのか、この状況でわからない程純粋ではないらしい。吉野の本名とも違う。それなら間違いなくその名前は、十六夜の本名のはずだ。
 一体いつから、本名を呼ぶ様な関係になったのだろうか。いや、何もおかしい事はないじゃないか。宵が終夜に連れていかれて、十六夜が協力して。それから以前の楼主と遊女の関係から、もう少し踏み入った関係になる事なんて。

 あの花魁道中で、少しは自分に自信がついていた。世界がほんの少し、色付いて見えていた。宵を少し、遠くに感じた。それはきっと悲しい事ではなくて、自分の中で小さな一区切りがついたからだ。もしかすると、自分の足で立つ為の一歩だったのかもしれない。胸を張っていればいつか、宵の幸せを願えたのかもしれない。

 去る二人の背中を何もできずに見つめながら、明依は必死にこの感情に抗う方法を探していた。たった一瞬で、一気に、宵に心の内を染め上げられた様な、元の場所に引き戻される様な感覚。
 がなる様に騒ぎ立てる心の内。それから、この状況で自分が二人の関係性にどう思うのか。という疑問について、脳は間もなく処理を終え結論を出すだろう。
 だからそれより先に、何か。何か別の事を考えろ。

「明依、あなたは終夜くんをどう思う?」

 吉野の問いかけに、脳はあっという間に二人の関係性についての算出をやめて、〝終夜〟という人間について持っている情報をかき集め始めた。

「終夜、ですか……」

 その単語を確認するようにぼそりと呟いた後、深く息を吐くと共に肩の力を抜いた。同時に頭の中では終夜の悪行が時系列で通り過ぎ、日奈と旭の顔が浮かんだ。

「日奈と旭の、友達だった人。……だから、悪い人じゃないって信じたいんだと思います」
「どんな理由があっても、他人の人生を奪う傲慢(ごうまん)な人間を〝善人〟とは言わないんですよ」

 晴朗の口調はいつもとは違い、年上らしく諭すような言い方だった。

「どの口が言うんですか?あなたもでしょ?」
「僕は生まれてこの方自分が善人だなんて思った事も、憧れた事もありませんから」

 晴朗はどこかバカにしたようにニコニコと笑って明依にそういった。思いきり睨みつける明依を無視すると、晴朗は口につけた煙草を離して淡い煙を吐き捨てた。

「夏祭りが終わればこの街は、本当の地獄になる。一般人には見知った顔の断末魔も転がる死体も傷になるでしょう。だから、あなたたちはただ耳を塞いで、目を閉じていればいい。そうしたらきっと、いつの間にか収まるところに収まっていますよ」

 短くなった煙草を地面に押し付けながら、晴朗は最後の煙を吐き捨てた。

「一つ。柄にもなく警告をするのなら、関わらないのが身の為ですよ。平々凡々に生きていたいなら」
「待ってください」

 明依は立ち上がってその場を去ろうとする晴朗を引き止めてから、大きく息を吸った。

「誰が終夜を殺すの?」

 その声は、思っているよりも震えていた。
 晴朗は明依を振り返ると、穏やかな笑顔を作った。

「僕が殺します」

 そう言うと、晴朗は踵を返して去っていった。
 晴朗は終夜と戦いたがっていて、終夜は宵を殺したいと思っている。主郭の人間たちは終夜に狙われる宵を守る気でいるし、宵も宵で終夜の視線を振り切るつもりはないらしい。
 どんな方向に考えても、終夜に勝ち目があるとは思えなかった。それなのにどうしても、この街で最後に笑うのが終夜であるという考えが、消えない。

 もしこれが自分の深層心理が見せる幻だというなら、肝心なその理由はぼやけたままでいる方が身の為なのかもしれない。
< 63 / 79 >

この作品をシェア

pagetop