造花街・吉原の陰謀

16:天邪鬼たち

 勝山と丹楓屋で酒を飲む約束をしている明依は満月屋の外に出た。辺りは提灯の暖色に溢れていて、相変わらず昼よりも観光客が騒がしい。吉野は何やら予定があるようなので、別々で行くことになっている。

 明日からとうとう、吉原の夏祭りが始まる。満月屋の前に組み上がった木造の屋台は、幼少期の思い出にある夏祭りの屋台よりも頑丈に見える。持っている記憶の中で一番近いのは、おでんの屋台だった。
 満月屋と小春屋はりんご飴をはじめとしたフルーツ飴を売る事になった様だ。明日から販売するそれを厨房で見せてもらったが、江戸時代にこんな色とりどりのフルーツなんて絶対一般的じゃないだろ。という言葉を飲み込んだのはきっと自分だけじゃないはずだ。主郭が何も言わないのなら、これでいいんだろう。
 明日から始まる夏祭りに向けてのシミュレーションなのか、おとなしい色合いの着物を身に着けた梅ノ位の女の子が数人、腰に前掛けを巻いて屋台の前に立っていた。いかにも、看板娘。という格好だ。

「おー、明依。とうとう明日からだな」
「時雨さん、来てたんだ」

 そう言いながら満月屋から出てきたのは時雨だった。水色の大きなりんご飴と団子の様に刺さったいちご、パイナップル、ぶどうの贅沢な串をそれぞれ手に持っている。自分で明日からだと言っておいて、完全にお祭り気分じゃないかと明依は苦笑いを漏らした。

「ああ。売り上げの一部を渡すって言ってんのに、宵がいらないの一点張りなんだよ。仕入れ代だけでいいって」

 そう言うと時雨は少し困った顔をした。いかにも宵らしく、明依は笑みを浮かべた。それから思い出した様にトクンと鳴って痛む胸の内には気付かないフリをする。

「ほら、味見しとけ」

 そう言いながら時雨は、三種類のフルーツが刺さった串を明依に差し出した。

「うん、ありがとう」

 噛り付く大きなりんごじゃなくて、一口サイズのフルーツ飴を迷いなく差し出すところが時雨らし過ぎるし、さすがだと明依は思った。

「今日は勝山大夫の所に行くんだろ?」

 さすが吉原。松ノ位が行う宴会などの話は聞き洩らさないらしい。

「そうだよ」
「途中まで一緒にいこうぜ」

 時雨はそういうと、明依の返事を聞かずに歩き出した。二人は横並びに歩きながらそれぞれ持っている飴をかじった。
 夏祭りという雰囲気が前日にして既に出来上がっているからか、頬張ったフルーツ飴は堪らなく美味しい。仕事でもないのだから力が入っているわけでもないが、身体の力を緩ませてくれる様な気がした。

「ねえ、時雨さん」
「んー」
「終夜ってどうして、そこまで宵兄さんにこだわるの?」
「さあな。あの男の考えてる事なんて、どうせ誰にも分らねーよ」

 時雨はどこか気だるげに、冗談めいた口調でそう答えた。

「なあ、明依」
「何?」
「宵か終夜。二人の内一人しか、この吉原にいられないとしたら。どっちに賭ける?」

 『明依が許してくれるなら、俺はいなくならない。もしも、俺か終夜か。どちらか一人しかこの吉原に存在することが許されないとしても』
 そういった宵の言葉を思い出して、また胸がトクンと鳴って痛んだ。
 冗談やめてよ、笑えないから。と呆れて言う事が出来ればどれだけよかったか。その状況は、刻一刻と迫っている。夏祭りの期間は約一か月半。それを過ぎればきっと。
 頭の中では、(せわ)しなく宵と終夜の事が浮かんでいた。八千代の言う通りだ。好きか嫌いか。はっきりそう決める事が出来たらいいのに。そうしたらきっと、宵に決まっていると胸を張って言う事が出来るのに。

「……わからないよ」

 明依は弱々しい口調で呟いた。自ら聞いておいて時雨は何も喋らない。いつも通りの吉原の喧騒だけが、背景音として意識の外側をただ流れていくだけだ。

「わからないのはお前だけじゃないよ。明依」

 はっきりと、それでいて穏やかで優しい。どんな感情で口にしたのかわからない口調で時雨は言う。大して大きくもない声が、いやにはっきりと明依の耳に届いた。

「それ、」
「またな」

 時雨は明依の言葉を遮ってそう言いながら、明依の頭上にポンと手を置いた。それから既に食べ終えて手に持っていたフルーツ飴の串をさっと奪った時雨は、人込みの中に消えていった。

「……どういう意味?」

 先ほど紡ぎ損ねた言葉を呟いた後、明依は串を持ったまま固めていた手をそっと解いた。
 観光客に肩をぶつけられて、道のど真ん中でしばらく立ち止まっていた事に気が付いた明依は、それからとぼとぼと丹楓屋までの道を歩いた。

 何を考えていたのか、よくわからない。何も考えていなかった様な気もするし、ずっと忙しなく何かを考え続けていた様な気もする。ぼんやりとした明依の思考を止めたのは終夜の姿だった。明依は思わず、少し離れた裏通りとも呼べない建物と建物の間に隠れた。
 丹楓屋の前に終夜がいる。往来する観光客が邪魔でよくは見えないが、組み上がった屋台の前で丹楓屋の楼主と話をしている様だ。丹楓屋の中に入るには終夜の側を通る事になる。絶対に気付かれるだろう。別に堂々としていればいいだけの話なのだろうが、それだけの自信が今の明依にはなかった。終夜を目の前にした自分がどんな反応をするのか、自分の事だというのに明依には検討もつかなかった。
 とりあえず、終夜があの場を去るのを待とうと思い立ってから十分は経ったと思う。一向に終夜が丹楓屋の前からいなくなる気配はなかった。往来する観光客が重なって十秒程終夜の姿が見えなくなった後、丹楓屋の前に終夜の姿はなかった。
 しばらく様子を伺った後、明依は身体中に入っていた力を意図的に抜いた。そして観光客に紛れて丹楓屋までの道を歩こうと足を進めた。

「この私を待たせるなんていい度胸じゃないのさ。黎明」
「ひっ……!」

 突如としてすぐ後ろから聞こえた勝山の声に、明依はビクリと肩を浮かせた。

「なーんてね。アンタが俺を監視し始めて12分23秒」

 勝山の声から一転、ここ最近で聞きなれた声に反射的に振り返ろうとしたが、腕を引かれて狭い路地に逆戻り。焦点が定まる事はなかった。

「〝下手くそ〟だねェ。おかげで気になって仕方ないんだ」

 この男は以前、明依の声を真似て宵を部屋から追い払っていた。つまり勝山の声を真似たのは明依の腕を強く握っている男、終夜だという事だ。
 いつもより少し明るめの声。どうやら素人の視線で監視する事は、終夜にとって〝下手くそ〟らしい。以前、満月屋で同じ言葉を出した明依に対する当て付けのつもりで言っているのなら、案外根に持つタイプかもしれない。言葉の端々から客がどんなタイプの人間かを想定する遊女としてのスキルが、無意識に終夜という人間を評価していた。
 終夜は握っていた明依の腕から手を離す。明依と視線が絡んだ終夜は、どこか冷たい表情をしていた。

 勝山の声を真似て話しかけてくるなんて。戯れと間違われても仕方のない事を自分からしているくせに、どうしてそんなに冷たい顔をしているのか。
 初めて出会った時と同じだ。主郭の前の石段を転がり落ちた明依の側でしゃがみ込んでいたあの時と。声と相反して、表情はどこまでも冷たい。
 余りにバラバラの行動に一周周って冷静になっているのかもしれないし、主郭の重役を招いた満月屋の座敷の様に〝遊女モード〟に切り替わっているのかもしれない。

 この男は本当に、とんだ天邪鬼(あまのじゃく)だ。

「何か用事があるなら、今ここで言ってよ」
「あの投票結果は終夜の思い通り?」

 大人が二人すれ違える程度の、狭くて暗い道。渦中のはずの喧騒がまるで、他人事の様だ。

「思い通りじゃない。でも、予想通りだよ。……それから旭の事だけど、新しい情報が掴めそうだよ。わかったらまた教えてあげる。じゃあね」

 終夜は話す隙も与えずそう言うと歩き出し、明依の隣を通り過ぎた。

「待ってよ。教えてほしい事があるの」
「そう都合よく何でもかんでもペラペラ喋らないよ」
「貴重な情報源なんでしょ!」
「俺が気乗りしてる時はね」

 そういって喧騒の中に紛れようとする終夜を引き止めようと、明依は彼の手首を握った。

「逃げないで。お願いだから」

 自分から出た切羽詰まった声に、明依は少し戸惑っていた。しかし今逃げられれば次いつ話ができるかわからない。
 明依は片手で握っている終夜の手首に力を込めた。終夜が振りほどく気がない事を確認すると、それからそのすぐ近くをあいているもう片方の手でしっかりと握った。

「その言い方、癇に障るな」

 一瞬よりも短い時間の尺度だと思う。終夜の腕を両手でしっかりと握ったはずで、その感覚はまだ手の中に残っている様な気さえしている。
 それなのに、気が付けば両手首を握られているのは明依の方だった。

「逃げてるつもりなんてないんだけど」

 この男が本気だったら、自分は死んだ事にも気が付かないんだろうなんて、他人事のように考えていた。
 終夜は握っている明依の手首に力を込めていく。

「痛いんだけど」
「知ってる」
「放して。痕が残ったらどうするの?」
「蕎麦屋の二階に上がった時も、首に痕つけないでって言ってたもんね。それってプロ意識?」

 平坦な口調でそういう終夜を、明依は何も言わずに真正面から睨みつけた。
 今日の終夜はどこかおかしい。しかしそれはきっとお互い様だ。明依は自分自身の感情の変化に気付いていた。
 旭を殺した犯人は終夜だと決めつけていた時の感情を、今更心の内側から無理矢理引っ張り出そうとしている。自分自身に対する最大の抵抗と強がりなのかもしれない。

「客取れないよね。痕が残ったら。どうしようか。どうしたい?」
「言ってる事もやってる事も、アンタの苦手な晴朗さんとほとんど変わらないと思うんだけど」

 急に力を込めた終夜に明依が思わず顔をしかめると、彼は明依の耳元に唇を寄せた。

「もしそうなったら、逃げてみる?この街から」

 自分の耳を疑った。まさか終夜からそんな言葉が出てくるなんて、想像もしていなかったから。

「冗談だよ」

 終夜はそう言うと、明依の手首を握っている力を緩めた。

「それで、教えてほしい事って?気分が変わらないうちに、さっさと言ってよ」

 そういう終夜は先ほどとは違い、明依の知っている飄々とした態度の終夜だった。
< 64 / 79 >

この作品をシェア

pagetop