造花街・吉原の陰謀

18:女を本気にさせた男の末路について

 終夜の後ろを付かず離れずの距離を保ちながら、切先が食い込んだ首元に触れて彼の背中を見た。
 見た目だけでいえば、他の観光客の男と終夜は何一つ変わらない。そう見えるこの男は、社会の裏側に身を置いている。兄と慕っていた様子の暮相は死んだ。終夜が殺していないという事を前提にすれば、同士とも呼べる旭も死んだ。その道のりは本当に、そんな薄笑いを浮かべていられる程穏やかなものだったのだろうか。
 そこまで考えて、明依は短く息を吐き捨てた。この男のよくわからない考えのせいで、宵は死ぬかもしれないんだ。そんな危険分子にいちいち情なんて湧いていたらきりがないだろう。わかってる。わかっているのにどうして。

 丹楓屋に到着すれば案内役の男。丹楓屋の中に入れば従業員が、作業をやめて終夜に向かって深々と頭を下げた。

「そういうのいいって」

 その一言をあしらう様に呟いて、終夜は一瞥することもなく通り過ぎる。

「やめてほしいんだよね。ああいうの」
「何で?」
「目立つから」

 そういう終夜に明依は周りを見たが、何も知らない観光客はチラチラと終夜を、というよりも二人を見ている。有名な観光地でペコペコされている客を見たら、どこかの有名人や特別客なのかとか気になる感覚はわかる気がした。

「アンタが短気だから、みんな怖いんでしょ」
「俺は短気じゃないよ。それに、怖いなら下手に関わらなきゃいいだけだろ」
「……もういい。話にならないから」

 絶対にループに陥ると確信した明依は、早々に話を打ち切った。なんだか友達と話をしているみたいじゃないか。そう頭に浮かんだ考えをいち早くかき消そうと首を振った。
 どちらかが弱みを握られている様な関係を友達とは言わない。どちらかを人殺しに利用するような関係を友達とは言わない。ここ最近何度も何度も、飽きるくらいこの男の悪行について脳内で繰り返しているというのに、一向に脳みそはこの男を〝悪人〟だと認めてくれない。さっさと認めてくれれば、どれだけ楽になれるだろうか。
 二階の座敷に向かって歩きながら、そんなことを考えている。そのくせ、焦燥感に駆られていた。この機を逃せば、次はいつまた会えるのかわからない。もしかするともう二度と、会えないのかもしれない。
 妓楼で客を取るだけの一遊女が、吉原を取り巻く環境を細かい尺度で知ることは出来ない。どうすれば、現状を変えられるのか。みんなが納得する都合のいい未来はないのだろうか。
 ほら、さっきまで情なんて湧いていたらきりがないと思っていた気持ちが、もう手のひらを返してきた。きっと脳みそはこの男を〝悪人〟だと認めるつもりなんて、もう毛頭ないのだ。
 例えば本気で殺されかけて人生をめちゃくちゃにされる位の事があれば、話は違ってくるだろうが。

「アンタが私を利用して殺したのは、警察官。三人とも」
「……だから?」
「吉原を守っていきたい気持ちは同じはずでしょ」
「誰と?」
「宵兄さんよ」

 そう言うと終夜は明依に背を向けたまま深く深くため息をついた。

「俺を超能力者かメンタリストか何かだと思ってる?あの男の考えてる事なんて知らないね。興味もない」
「協力できないの?宵兄さんと」
「協力なんてしない」
「でも、満月屋の座敷で私が晴朗さんに殺されかけた時、宵兄さんを頼ったでしょ」

 そういう明依に終夜は廊下の真ん中で足を止めた。

「二人で協力して、私の事を助けてくれた」
「宵を頼ってでも面倒な処理はしたくなかっただけだ。言ったろ。アンタに死なれると面倒なんだ。満月楼は今俺の管轄で、後処理は俺がしないといけないんだから」

 じゃあどうしてあんな優しい笑顔で、本当に心の底から安心した様な顔で頭に触れたの。言ってみてよ。
 そう問い詰めれば終夜はどんな返事をするだろう。きっと平然とした顔でかわすのだ。随分自意識過剰だね。とか、そんな言葉で。
 しかし明依は、どうにもそんなことを聞く気にはなれなかった。その聞く気になれない、という感覚を無理やり言葉にするなら、無粋、野暮、と言った類の言葉になる。勿論、当然の(ごと)く終夜が本当に面倒だと考えている可能性を除外した結論。本当にどうかしているのは、自分の方なのかもしれない。

「俺は考えを改めるつもりもない。つまり俺がそう思っている限り、俺達はどちらかしかこの街では生きられない」

 一体どうしてそこまで宵に執着する。吉原全てを敵に回すという最悪の事態を招いてまで宵を殺した先に、一体何がある。
 清澄は以前『なんだかんだ言っても、主郭の人間は君に一目置いている』と終夜を評価していた。宵に対するその考えが諸悪の根源。それを捨てさえすれば、吉原で生きるという道は残されているかもしれないのに。

 どんな言葉をかけたらいい。揺るがない地位も、誰かを説得させられるだけの立場も、自らの意見を口にする機会も、ましてやこの吉原で生きていく強ささえ持っていない。そんな女が、吉原のほとんど全てを敵に回そうとしているこの男に向かって。

 明依がそんなことを考えているうちに、終夜は襖に手をかけて開け放った。途端に終夜の顔面には猪口が一直線に飛んでくる。終夜は動揺一つ見せずにその猪口を片手で受け止めた。

「遅い!!」
「すみません、勝山大夫。ついつい話し込んでしまいました」

 勝山はほんのりと赤い顔で終夜を睨みつけていた。吉野と勝山と三人なのだから大して心配はいらないだろうと高を括っていたが、よくよく考えれば勝山は相手を考えて酒の量を控える様な人ではないはずだ。頭の中にはあの地獄の宴会が浮かんで、なんだか泣きそうになってきた。

「この私を待たせるなんていい度胸じゃないのさ。黎明」

 そう言って凄む勝山の言葉は、先ほど終夜が吐いた言葉と一緒だ。この二人の関係性もなかなか不思議だ。気の強い姉と生意気な弟。と言った所だろうか。

「本当にすみません、勝山大夫」
「まあまあ。そんなに怒らないでください。吉野大夫も、待たせてすみません」
「いいのよ。勝山大夫と二人でお酒を飲むことなんてないんだもの。貴重な機会だったわ」

 謝罪を口にする明依に続いて終夜はそう言うと、勝山の前にしゃがみこんで彼女の持っている猪口に酒を注いだ。勝山はしぶしぶと言った様子で口をつけた。どうやらまだ徳利に直接口をつけて飲む程酔っぱらってはいないらしい。
 勝山は終夜に向かって徳利を差し出す。終夜が先ほど勝山から投げつけられた猪口を差し出すと、彼女は徳利を傾けて酒を注いだ。トクトクと心地のいい音がする。
 終夜はなみなみ注がれたそれを一口で飲み下すと、トンと音を立てて台の上に置いた。

「終夜、アンタまさか。帰るつもりじゃないだろうね」
「あれ、バレちゃいましたか?仕事が山程残ってるんですよ」
「なんだい。黎明とこそこそする暇はあって、私の酒は飲めないってのかい」
「そう言わないで」

 終夜はなだめる様にそう言うと、立ち上がった。

「いつかゆっくり飲みましょう」

 いつも通りの様子でそう言う。それなのにどこか寂しい音をしている様に聞こえるのはきっと、勘違い。そんな気は最初から微塵もない様な。もしくは、それが叶わない事を知っている様にも聞こえるのはきっと、全部勘違いだ。
 終夜は明依の手を引いて勝山の近くに移動すると、背後から肩に手を置いて無理矢理座らせ、先ほど自分が台に置いた猪口に酒を注いで握らせた。

「今日はこの黎明が付き合いますよ。いつまでもどこまでも付き合うって気合十分でしたよ」
「何勝手に、」
「いい度胸だ、黎明」

 明依の言葉を遮って、勝山は大きく頷きながらそういう。

「ちょっと……!勝手に、」

 終夜は猪口を持っていない方の明依の手に何かを握らせた。

「じゃあ頑張って」

 明依が手に握っているものが何なのかを確認するよりも前に終夜は明依の手を両手で握る。結局、明依の言葉は何一つ終夜に届く事はなく、さっさと座敷を出て行く終夜の背中をただ見ているだけだった。
 明依が恐る恐る手をひらくと、そこには〝袖の梅〟と書かれた小さな紙袋が一つ。酒を飲む観光客が必ずと言っていい程購入する、吉原で売られている二日酔いの薬だった。

「二日酔いの薬を持参するなんて。黎明、アンタ終夜の言う通り気合入ってるね」

 あのクソ男。と心の中で精一杯強がった明依だったが、すぐにこれから地獄が始まる予感に泣きそうになった。そんな最中にも、吉野は涼しい顔で猪口に口をつけていた。
 勝山は吉野の猪口が空になればすぐに酒を注いだ。それでもやはり、吉野は涼しい顔をしてる。自暴自棄になった結果、とうとう自分の姐さんを怪しんだ明依は、少し身を乗り出して吉野を見た。吉野は勝山に見えない様に自分の足元に桶を置いて、怪しまれない様に酒をそこに入れていた。
 それがアリならもうバレてもいいから、風呂桶くらいのサイズを持ち込みたい。
 そしてこの座敷、いや丹楓屋出入り禁止にしてくれないだろうかと考えてから、前回の座敷で盛大に裏切りをかました丹楓屋の楼主を思い出して腹が立った。完全にとばっちりだ。

 しかし、地獄絵図の様な想像は杞憂だったらしい。いや、もしかするとこれからが本番なのかもしれないが、明日からの夏祭りの事や花祭の時の事。他愛もない話を三人でしていた。
 そしてふとこう思う。改めて、間違いなく自分は恵まれている。松ノ位を二人もこんなに近くで見る事が出来て、同じ座敷で酒を飲める人間なんて吉原には、いや世界中探したって片手で足りる程度だと断言できる。本当に日奈と旭と宵が世界の全てでそれ以外は見えていなかった。少しだけ明瞭になった目が、以前よりも繊細に世界の在り方を見せる。
 生きるという行為はなんて難しいんだろう。自分の尺度で測ったもの達で、自分の内側に世界を造っていかないといけない。その自分の尺度自体が正しいのかどうか、誰も教えてくれないというのに。

「雛菊が死んでからのアンタは、なんだか少し変わった気がするね」

 まさに今考えていた内容に、明依は思わず酒を口に運ぼうとしていた手を止めた。
 吉原の裏側を知っている人間は色々とハイスペック過ぎないか。そろそろ、実は人の心が読めます。と言われても、そうだと思いました。くらい自然と答えてしまいそうだ。

「悪い意味じゃない。大人になったって言うのかね。死んだ人間は戻らないって、諦めがついたんだろ」

 随分と大雑把な言い方だが、詰まる所そういう事だ。死んだ人間は戻らない。どれだけあっけらかんと前を向こうが、泣き喚こうが、絶対に。

「でも私、日奈に言いたい事も言わないといけない事もあったんです」

 ただ気持ちを吐き出しただけ。でも本当はそうじゃない。安い言葉をかけてほしいだけだ。〝気持ちは伝わっているよ〟とか、そんな言葉。
 その感情が連れてきた記憶は、旭と話した最後の夜。日奈が松ノ位に昇格すると決まった時、次はお前だと旭は言った。聞き流さずに言い返した。不安に思っている自分の気持ちを書き換えてほしかったから。
 自分はいつからこんなに卑怯な人間になったんだと思った。あの時も、今この瞬間も。結局人間というのはそう簡単には変わらない。
 明依という人間はきっと最初から、こんな人間だった。

「そりゃ随分と自分勝手だね。アンタにとって自分の気持ちが楽になる唯一の方法。自己満足ってヤツだ」

 思わず息を呑んだ。どれだけ時間をかけて考えたって、この言葉に対する反論は思い浮かばないだろう。

「アンタと終夜の関係なんて興味もないけどね。粗方(あらかた)、想像通りだろうよ。自分(てめェ)で作った秘密くらいは責任もって、自分(てめェ)で抱えて墓場まで持って行きな。終夜ならきっと、そうするだろうね」

 淡々とした口調でそう言うと、勝山は猪口に入った酒をくいっと煽った。

「厳しいのね」
「アンタが甘すぎんのさ」

 吉野と勝山はそれぞれ短い言葉でどこか冷たく言い放った。

「終夜がこそこそ動き回って、アンタの足を引っ張っていた事は予想してたさ。ただ、アンタの心をへし折るくらいの事は平気な顔でやってのけると思ってたよ。十六夜から二人が一緒にいるって聞いた時はとうとう本気かと思ったけど、結局想像はハズレらしい。……まあどうせ、考えたってわかりゃしないのさ」

 あっけらかんとした口調でそういうが、それは到底状況を納得している人間から出るようなあっさりとしたものじゃなかった。その様子はどこか寂しそうでもある。
 勝山は仕切り直すように酒を煽った後、台の上に猪口を置いた。

「黎明。アンタの道中を見た」
「立派だったでしょう。ウチの子は」

 どこか誇らしげにそういう吉野を、勝山は鼻で笑った。その勝山の行動にバカにしたような素振りはなく、吉野に対する親しみが込められている気がした。

「立派だったさ。だからこそこんな所で男にいい様にされて腐っていくのは、至極勿体ない気がしてね。……やる気はあるんだろうね」
「……やる気、ですか?」

 明依はとっくに酒を飲むことをやめて背筋を伸ばしていた。勝山の問いかけにそう答えると、彼女はぐっと眉間に皺を寄せた。

「松ノ位に昇格するために、何でもする覚悟はあるのかって事だ!」

 考えなければいけない事が多すぎて完全にショートした明依の頭だったが〝松ノ位〟〝昇格〟という単語が、やっとの事で繋がった。

 松ノ位がいれば、雪は満月屋に戻って来られる。大夫という吉原最高峰の称号を自分自身の力で手に入れるという事は、吉原という街から認められるという事。そうすれば今度は、自分自身を認めてあげられるかもしれない。
 揺るがない地位に、誰かを説得させられるだけの立場。自らの意見を口にする機会が与えらえた先で、終夜にかける言葉を見つけられたなら。
 それを叶えるには、一秒すらあまりに惜しい。

「あっ、あります!」
「もう部屋に引きこもってくよくよ悩んでる暇なんてありゃしないよ。血反吐はく覚悟はできてるんだろうね!!」
「吐きます!!血でも、何でも……!!」

 もともと終夜が本気なら、とっくにない命だ。こうなれば血でも何でも吐いてやる。
 完全にボルテージがあがり切った二人に吉野は「それはちょっとやりすぎじゃないかしら」と困った様に呟いていた。
 そんな吉野をよそに勝山は立ち上がると明依を見下ろした。

「女を本気にさせた男の末路を身をもって知るといい。あのバカも少しは大人しくなるだろうよ」

 かっこいい。やっぱりこんな人になりたい。そんな憧れと並行して頭の中では勝山の言う〝あのバカ〟、終夜が過ぎる。

「何やってんだい。早く立ちな」

 なぜ。という疑問を飲み込んで明依は立ち上がった。

「行くよ」
「……行くってどこに?」
「アンタに足りないものを持ってる女の所さ」
「……私に足りないもの?」
「そう。吉原で一番性格の悪い女に会いに行く」
「一番性格の悪い女って……誰ですか?」
「扇屋の夕霧大夫だよ」

 扇屋、夕霧大夫。傾城の名をほしいままにする絶世の美女。

「今から……?」
「善は急げって言葉を知らないのかい」

 勝山は既に座敷の襖に手をかけている。それを見た吉野も立ち上がった。どうやら本当に扇屋に行く気らしい。
 一体何のために会いに行くというんだ。波乱の予感がする。
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