造花街・吉原の陰謀
傾城・松ノ位編

01:一顧傾城

 夏祭り前日の夜。丹楓屋にて勝山(かつやま)吉野(よしの)と酒を飲んだ後、『松ノ位に昇格するために、何でもする覚悟はあるのか』と問われ、あると答えて今に至る。
 明依(めい)、吉野、勝山の三人は吉原の街を歩いていた。

「あの、勝山大夫……本当に行くんですか?」
「なんだい。ビビってんのかい」

 当たり前だ。酒で火照るはずの身体が、冷たくなるくらいには緊張している。酔いなんてとっくに醒め切った。吉原に四人しかいない大夫二人を引き連れて、別の大夫に会いに行こうとしているなんて、この造花街の中で考えうる限り一番非現実的な夢物語だ。

「当たり前です。夕霧(ゆうぎり)大夫ですよ……?」
「だから?」
「だからって……」

 そういわれるともう何と口にしていいのかもわからない。涼しい顔をしている吉野も含めてこの二人は対等な立場だろうが、明依からすれば一国の女王を相手にしている様なものだ。妓楼という場所を一国と例えるなら、あながち間違いではないはずだ。

「何のために夕霧大夫の所に行くんですか?」
「側でよく見てみるといい。あの女はアンタに足りないものを持ってる。一番わかりやすい形でね」

 一番わかりやすい形。という言い方と夕霧大夫という人物から連想したのは単純な〝美しさ〟だ。
 美しさが足りないという話なら、会ってもどうしようもないに決まっている。いい医者を紹介するとか、そんな話か。と明依は割と本気で考えていた。

「そうね。確かに、わかりやすいかもしれないわね」

 やっぱり自分に足りないのは美しさなのか。残る松ノ位である高尾(たかお)は顔を見たことがないにしても、他の三人は皆顔の系統は違う。なら、美しさの定義とは。
 もう完全に自分に足りないものが〝美しさ〟で固まりかけている明依は、吉野の言葉で美しさの真理に近付こうと、酔っぱらいも顔負けの愚行を脳内で繰り広げていた。
 そんなことを考えているとこれから夕霧に会う緊張なんて忘れて、気付けば扇屋の前に来ていた。

「いらっしゃいまし」

 見世の中に入ると、穏やかな笑顔を浮かべた従業員の年配の女が近寄ってきたが、すぐに目を見開いた。

「たっ、丹楓屋の勝山大夫!?」

 女はそう言うと、勝山から明依、吉野へと視線を移した。

「満月屋の吉野大夫まで……。あの、これは一体、」
「邪魔するよ」

 勝山はそう言うと、状況を把握できていない女の横を通り過ぎて妓楼の中に入った。
 やっぱり事前に連絡はしていなかったのかと思った明依は、どうすべきかとおろおろしていた。

「お邪魔させていただきますね」

 吉野は唖然とする女に微笑みかけると、勝山の後に続いた。

「……お、お邪魔します」

 放心状態の女に明依も小さな声でそう呟き、小走りで吉野の後を追った。
 店の雰囲気は満月屋とも丹楓屋とも、勿論小春屋とも違っていた。決して悪い意味ではなく、意識高い系の女性達ばかりだ。
 どこもかしこも豪華絢爛に飾られた妓楼の中。遊女の薄い笑顔から感じるのは穏やかさではなく、間接的な妖艶さだった。女との会話と酒を楽しむというよりは、一流の女と一流の酒を飲むその空間そのものを楽しむ様な雰囲気。
 異世界にある城に迷い込んだ気になる。その絢爛さに明依はせわしなく顔と目を動かした。竜宮城に招待された浦島太郎はきっと、こんな気持ちだっただろう。

 我に返ったのか、女は勢い余ってこけそうになりながら、必死の形相で先頭を歩く勝山に追いついて速足で彼女の真横を歩いた。

「まさか!まさかとは思いますが!うちの夕霧が、とうとう何かしでかしましたでしょうか!!お二方の贔屓客を寝取ったとか!!!」
「あの女なら、そろそろ男関係で殺されても文句言えないだろうね」

 淡々とそういう勝山に、従業員の女は「ヒィ!!」とおびえた声を出した。
 身内同然の妓楼の中の人間にまで『とうとう』と言わせるなんて、夕霧という女性は一体どんな人間なのだろうか。
 たどり着いたのは、富士山に色とりどりの花が咲く明らかに他とは雰囲気の違う金色の襖だった。

「夕霧、入るよ」

 勝山は何の遠慮も前触れもなくそう言いながら襖を開け放った。唖然としている明依は、勝山の背中越しに室内を見た。

「話があるなら予定くらい抑えてくれなきゃ」

 鈴を転がす様な声という表現とはまた違う。艶があり、同時に愛らしくもある声だ。声の主は、一糸纏わぬ姿でこちらに背を向けて立っていた。

「着替えもゆっくり出来ないじゃない」

 そう言いながら夕霧は振り返ると、片手を腰に当ててどこか挑発的な笑顔を作った。その様子はまるで、無駄一つないしなやかな身体を見せつけている様でもあった。
 この吉原の街で一番美しいと言われる遊女。
 扇屋松ノ位、夕霧大夫。

「夕霧!!アンタ、とうとうやらかしたんじゃないだろうね!!!」
「あら、何を?」
「何をって……!!このお二方の客を寝取ったのかって事だよ!!」

 女は夕霧に詰め寄るが、当の彼女は飄々とした態度だ。夕霧に裸を見られて恥ずかしいという感覚はないらしい。

 江戸時代の頃の吉原は厳しく、馴染みとなった客は仮の夫婦としてみなされるため、別の遊女の所へ行く事は浮気としてご法度だったそうだ。
 一方この造花街では明確な定義はない。しかし松ノ位ともなれば、代わりなんていくらでもいる。よほどあっさり切り捨てられる覚悟があるのだろう。客側が見世側の機嫌を損ねないようにする。どこか特殊な世界だ。

 明依はと言えば、夕霧のあまりの美しさに見とれていた。顔はもちろんだが、裸体が綺麗すぎるのだ。出るとこはしっかりと出て、締まるところはしっかりと締まっている。もはや造形美ともいえる身体つきを、なにもせずに保つ事は不可能だろう。そこに途方もない努力があることは、少し自分の身体に気を使っている人間ならよくわかるはずだ。

「さあ、どうだったかしら……。どの殿方?記憶にある範囲なら、思い出してあげてもいいわ」

 夕霧のその態度に、女は顔を真っ青にした。

「そんなくだらない話じゃない。さっさと服を着な」

 勝山は呆れた様子でそういった。

「なによ、突然訪ねて来ておいて。私はこのままお話したって構わないのよ」
「風邪を引いたら大変よ。着物を着た方がいいわ」

 夕霧は吉野の言葉に「それもそうね」と答えると隣の部屋へと移動して行った。とりあえず大事ではない事に安堵した従業員の女は、吉野と勝山に挨拶をして部屋を出て行った。
 勝山に促されて部屋の中に座ってから、辺りを眺めた。それはそれは豪華で、貢物と思われるものがたくさん並んでいる。すべての物を日本らしくしようと必死な吉原の中で、初めて真っ赤なバラの花を見た。バラの花というのはこんなにきれいだっただろうか。

「それで、話ってなにかしら」

 しばらく部屋を眺めていると、夕霧がそう言いながら部屋に入ってきた。
 派手な花魁衣装に、結っていない栗色の髪。息を忘れる程よく似合う。先ほどまで綺麗だと思っていた赤いバラが、完全に脇役だ。
 そんなことを考えていると夕霧と正面から目が合って、明依は思わず背筋を伸ばした。

「この子確か、吉野の所の子よね。あなたの世話役の片割れ」
「そうよ」
「それで。もう一人のお客様は、どちら様かしらね」

 『もう一人のお客様』という言葉に明依は視線を彷徨わせたが、どう考えても三人だった。明依が視線を彷徨わせている間、夕霧はゆっくりと明依の方へと近寄ってきた。はっとしたがどうしていいのかわからないままおどおどしていると、夕霧は明依の目の前に腰を下ろした。

「深い仲かしら?」
「ふ……ふか、深い仲……?」

 夕霧の色気に完全にあてられて動揺しながら、明依は少し身を引いた。

「例えば今日、勝山と吉野と酒を飲むことを心配して、こんな風に優しく抱きしめるような人?って事よ」

 そう言うと夕霧はゆっくりと明依を抱きしめた。

「あの……!夕霧大夫!!」

 パニックに陥りながらもどうすることも出来ないまま、ただ夕霧に身を任せてあたふたとしているだけだった。
 女でよかった。男だったらこの瞬間に理性が一片残らずはじけ飛ぶ自信がある。ただ一つだけ言わせてほしい。これが原因で自分の中の新しい扉が無理やりこじ開けられたら責任を取ってほしい。一回だけでいいから。後はもう捨てられても文句言わないから。
 身を固くしながらそんなことを考えていると、夕霧は明依からさっと身体を離した。小さな銀色の円盤を指に挟むように持って。

 どういう事なのかわからない明依の前でその円盤をまじまじと眺めた夕霧は、「あら」と嬉しそうな声を上げた。

「はーい、終夜(しゅうや)。聞こえる?」

 夕霧が発した予想していなかった人物の名前に、明依はさらに混乱した。
 しかし、夕霧の『もう一人のお客様』という発言と抱きしめられたという事実からすぐに一つの考えに思い至る。自分がどれだけ終夜という人間を信用していないかわかる証拠でもあった。
 あの男が何の理由もなく抱きしめるなんて、やはりありえなかったのだ。その時にもっと怪しんでいるべきだった。しかしまさか、帯に盗聴器を仕込むなんて考えに至るはずもない。

「女はみんな、秘密があるから美しいの。こんな無粋な方法で暴くものじゃないわ。女を暴きたいならベットの中だけにしなさいな。どれだけ愛していたってね」

 夕霧はそう言うと、盗聴器を握りつぶして放り投げた。

「なんだかおもしろい事になっているのね。満月屋の評価は楼主の(よい)への評価。勝山と吉野と三人で話すという時点で、話の内容を想定したって所かしら」

 だからといって、盗聴器を仕掛けていい理由にはならないだろう。
 明依は先ほどの夕霧へのドキドキも忘れて、溜息を吐き捨てた。どうしていつもいつも、結果的にあの男のいいようにされるんだ。

「本当にあの男は」

 勝山は呆れて苛立っている様子でそう呟いて溜息を吐き捨てていた。吉野は隣で困った様に笑っている。

「それで。終夜を運んでくるためにここまで来たわけじゃないでしょう。私に何の用かしら」

 夕霧は三人の前に座ると、勝山の顔を見た。

「なに。本気で松ノ位に上がりたいって言う遊女に、手始めに吉原で一番性格の悪い女に会わせてやろうと思っただけさ」
「〝自分に正直〟って言ってくれないかしら」

 勝山の言葉に夕霧は余裕たっぷりの様子でそう返すと、明依の顔を見た。

「名前は?」
黎明(れいめい)です」
「そう」

 ちょうどタイミングよく運ばれてきたのはお茶だった。従業員の女はそれを真ん中に盆ごとおいて去っていった。
 四つの内どれ一つとして同じデザインのものはなかった。中国やベトナムを思わせる明るい色と柄だ。

「ねえ、黎明」
「はい」

 明依は自分がお茶を配ろうと身を乗り出したが、夕霧の言葉に手を止めて彼女を見た。

「この中で、どれがお好きかしら」

 夕霧にそういわれて、明依はもう一度まじまじと湯呑を見た。どれもこの吉原では珍しい柄で迷ったが、緑色に太陽と花が描かれているデザインの湯呑を手に取った。

「嘘でしょう?」

 急にそう言いだす夕霧に明依はびくりと肩を浮かせて、何事かと様子をうかがっていた。吉野と勝山は何をすることもなくその様子を見ていた。

「私の一番嫌いなものだわ。私は身の回りの物を全て自分で選ぶの。これは唯一、世話役が選んだものよ。センスないのね。楽しくお話できそうにないわ」

 どこか馬鹿にしたような様子の夕霧に苛立ちを覚えなかった訳ではないが、それよりも先に、選択肢を間違えた。しまった、と思った。それから、正直どれも変わらなくないか?と思う明依に、夕霧は畳みかける様に溜息を吐き捨てた。

「満月屋はダメね。あの雛菊(ひなぎく)って子も挨拶に来たけど、パッとしなかったし」

 その言葉に、先ほどまで考えていたすべての内容は真っ白になる。そして内側から何かが煮え立つ様な感覚。吐き出した息は、喉元で震えていた。
 明依は湯呑を見ていた目を閉じて顔を上げると、正面から真っ直ぐに夕霧を見た。

「あなたが日奈(ひな)の何を知ってるの?」

 夕霧は少し目を細めて、挑発的な顔で薄く笑っていた。

「何も知らないわよ。見た目以外はね」
「自分の主観だけで評価するのは、視野が狭いんじゃないですか」
「あなた今、誰に向かって口答えしているのかお分かりかしら」
「夕霧大夫、あなたに言ったの。何も知らないくせに、私の大切な友達をバカにしないで」

 自分の気に入らない事があれば他人を批判する。吉野や勝山とは大違いだ。勝山の言う通り、本当に性格の悪い女だ。
 そう思って夕霧を睨む明依だったが、当の彼女は突如として柔らかい顔で声を漏らして笑った。

「腐り切ってはいないのね」

 夕霧がそう言うと勝山が鼻で笑った。

「なかなか肝が据わった遊女だろ。終夜に殺されかけても、まだ噛み付いて利用してやろうって負けん気の強さがある」
「だから終夜のお気に入りなのね。あなたの好みが、愛の重い男だといいけど」

 状況が読み込めない明依は、夕霧と勝山を交互に見た。

「面白いじゃない。仕込んであげるわ」

 どうやら挑発されて試されていたらしい。という事までは分かったが、それでも明依は状況を飲み込むことが出来ずにいた。
 〝仕込む〟って何を?とびきりの夜のテクニックとか?と本気で考えている明依の目を見た夕霧は薄く笑った。

「男に踊らされるだけなんてつまらないわ。どんな時もね。あなたもそう思わない?」

 夕霧のいう〝どんな時も〟という言葉の中には完全に夜の事情が入っている。先ほどまで心底性格の悪い女だと思っていたというのに、今ではその色気にまた押されかけている。
 この人はすべての言葉にエロさを仕込める魔女なんじゃないかとすら思って明依は放心していた。
 ほとんどまともに働いていない頭を精一杯動かして「はい」という小さな言葉だけを呟いた。

「黎明。あなた明日から一週間、ウチに来なさい。……満月屋の楼主に手紙を」
「はい」

 明依の返事を聞くより前に夕霧は話を進める。世話役と思われる女は夕霧の言葉を聞いて、すぐに立ち上がった。

「夕霧大夫。どうぞ、明依をよろしくお願いします」

 吉野はそう言うと丁寧に頭を下げた。それにつられて明依も慌てて頭を下げた。

「私は甘くないわよ」
「血反吐はく覚悟があるらしいよ」
「あら、いい度胸じゃない。嫌いじゃないわ」

 夕霧と勝山の会話を聞きながら明依は頭を上げた。一体何を仕込まれるのかはわからないが、その一週間を乗り切れば何か変わるのかもしれない。

「さて、話は終わりよ。お引き取り頂けるかしら?今日は先約があるの」

 夕霧がそういった途端、襖があいた。吉野と勝山が立ち上がる中、そこにいた人物に明依は目を見開いた。

「ああ、あなたは……満月楼の。こんばんは。月が綺麗な夜ですね」

 襖の前にいたのは晴朗(せいろう)だった。殺しかけた人間の顔を忘れかけている事も衝撃だったが、それよりもどうしてこんな場所にいるのかという疑問に頭の中は埋め尽くされていた。

「行くよ」

 勝山の言葉で我に返った明依は、急いで立ち上がって二人の後を追って部屋を出た。

「何の用事ですか」

 そういう晴朗の首に腕を回した夕霧は、首を傾げて彼の顔を見た。

「私が会いたいと思った。それ以外に理由がいるの?」

 たったそれだけの行動が酷く幻想的に思えた。たとえ性格がどれほど悪かろうとも、やはり彼女が眩むほど美しい事実は揺るがない。
 そんなことを思っている明依の前で、襖は音を立ててしまった。

 明依は急に現実世界に引き戻された様に我に返った。そして、先を歩く吉野と勝山の後を追って、扇屋を後にした。
 もう立派な一人の大人のつもりでいた。しかし夕霧を見ていると、自分がまだ何も知らない子どもの様に思えてくる。大人というのは、もしかするともっともっと奥が深いのかもしれない。
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