造花街・吉原の陰謀

02:大人と子どもの間

 朝、明依は扇屋に行くために廊下を歩いていた。
 夏祭りが始まった。いつもの仕事に加えてフルーツ飴を売っている出店の管理もあるからか、従業員は忙しく動き回っているが、明依を含めた竹ノ位以上の遊女にはほとんど関係のない事だ。

 結局昨日の夜はあのまま吉野と満月屋に帰宅して自室に入ったはいいが、夕霧と晴朗の関係が気になって仕方なかった。女どころか他人にすら興味無さそうな男と、吉原一美しくどんな男も手中に落とす女だ。となれば、晴朗は夕霧に落ちたのだろうか。いや、あの様子ではどちらかと言えば、惚れこんでいるのは夕霧だろうか。いや、待て。夕霧程の女ならあの程度は朝飯前の演技だろう。だったら一体何が正解なんだ。
 それは至極プライベートな事だし、気にしたって仕方ないのだろうが。

「そんなに難しい顔をして、どうしたんですか?」

 脳内から抜け出してきたのかと思うタイミングでの晴朗の登場に明依はぎょっとしたが、すぐに冷静を装った。

「別に。なんでもないです」
「一週間ここを離れる事が不安ですか?」
「……どうして知っているんですか?」
香夜(かや)から聞きました。昨日、あの後」

 〝香夜〟という人間が夕霧だという事は分かった。おそらく本名なのだろう。この男が夕霧の名前を憶えているどころか本名を知っているというのも当然衝撃だが、『昨日、あの後』とわざわざ付け加えて想像を煽る様な真似をしている事も衝撃だ。
 放心している明依を見た晴朗は、にこりと笑った。

「遊女というのは外界の女性より大人びていると思っていましたが、やはり若いですね。可愛らしいと思いますよ」

 晴朗はその言葉を残して、明依の隣を通り過ぎて去っていった。
 自分がチョロいのだと気付きつつある明依も、このタイミングでの『可愛らしい』にときめく事はなかった。なんだか心の内を見透かされているようで気恥ずかしい気持ちもあり、まだ子どもだと馬鹿にされている様で悔しくもあった。
 一体、大人ってなんだ。

「明依」

 そんなことを考えながら満月屋を出ようとしていると、少し離れた所から声をかけてきたのは宵だった。

「宵兄さん」
「いってらっしゃい。気を付けて」

 いつもの穏やかな様子で宵はそういう。宵と晴朗の年齢はおそらくそう変わらない。
 一体、大人ってなんだ。
 自分が責任を感じていれば心を許し、相手に尽くす事も〝大人〟なのだろうか。心の内に想う人が他にいたとしても。二人の関係なんて何一つ知らないくせに、明依の頭の中には宵と十六夜が映っていた。
 一体そんな事を、どの口が言えるというんだ。宵を無実の罪で監禁して必ず殺すと宣戦布告をしている終夜に絆され、彼と一緒にいるとほざき、秘密を作った女が。

「うん。いってきます」

 そう言い残すと、明依は満月屋の外に出た。これはどうせ、一過性の執着心だ。



「おはようございます。満月屋の黎明です」

 扇屋に到着してそう告げると、一階の大きな部屋に通された。てっきり夕霧だけだと思っていたが、予想と違いそこにはたくさんの従業員がいた。

「今日から一週間、この子を私が仕込む事になっているの。だけどそうずっとそばにいられる訳ではないから、彼女の時間が空いているときはいつでも好きに使ってちょうだい」

 そう言うと従業員は口々に嬉しそうに声を上げた。状況が分からないままの明依に向かって、夕霧はほほ笑んだ。

「ウチの従業員は女ばかりだから、力作業は人手が欲しいのよ。若い子はみんな表舞台に立つでしょう。助けてあげてくれない?」
「もちろん。構いませんけど」
「じゃあ決まり。一週間よろしくね、黎明」

 夕霧は明依の言葉にかぶせる様にそういうと、颯爽と部屋を出て行った。

「黎明ちゃん。さっそくで悪いんだけど、荷物運ぶのを手伝ってくれるかい」
「はい。わかりました」

 明依は夕霧から視線を移して年配の女に微笑みかけた。

「本当に助かるよ」
「お役に立ててよかったです」

 荷物を厨房におろし、袖口で汗を拭った。
 これはかなりの重労働だ。女手だけではかなり苦労しているだろう。

「明日も手伝ってくれるかい」
「はい」

 満月屋で力作業をするときと言えば、掃除するときの水桶を運ぶ時くらいのものだ。こんな風に身体を動かすこともない。この仕事が向いているのかもしれないと思うくらい、明依は爽快な気分になっていた。

「黎明ちゃん、黎明ちゃん。次、こっちね」
「はい!」

 扇屋は女ばかりの妓楼だ。夕霧の言う通り、若い人間は皆基本的に表舞台に立っているので、力作業は大変だろう。できる事なら代わりにしてあげたい。
 それから夜まで、夕霧に呼ばれる事なく手伝いをして過ごした。もうへとへとだ。しかし、「ありがとう」と感謝されることは悪くない。遊女をしていてはあまりそんな機会もないから、余計に心地よく感じるのかもしれない。
 初日の夜、明依はそんなことを思いながら布団に入った。

「黎明ちゃん」

 すぐそばで聞こえた声に、明依は目を開けて上半身を起こした。そこには従業員の女が膝をついて座っていた。

「どうしました?」
「片付けが回らないの。少しでいいから手伝ってくれない?」
「わかりました」

 力作業でもなんでもない事に疑問を持たなかった訳ではないが、別に大して負担にもならない。助けられるのなら助けてあげようと、明依は立ち上がった。そしてまた「ありがとう」と従業員の女が言う。夕霧が教えたかったのは、感謝される事に対する自分自身の気持ちなのかもしれない。

 それから手伝いをして部屋に戻ったはいいが、一度冴えた頭はすぐに眠りにつくことが出来なかった。結局朝方まで眠っているのか起きているのかわからないまま過ごした。

 次の日の朝。昨日よりもずっとぼんやりとした頭で明依は厨房に向かった。

「おはよう。黎明ちゃん、来てくれて助かるわ」
「おはようございます」

 そう言いながら明依は小さな欠伸を漏らした。

「寝不足?」
「一度起きると、なんだか眠れなくて」
「わかるわ~。もう朝?って絶望するのよね」

 そんな他愛もない話をしながら、明依は昨日と同じ様に重たい野菜を厨房に運んで行った。

「黎明」

 そう呼ぶ声に顔を上げると、厨房の入り口には夕霧がいた。

「今いいかしら」

 明依は残りの荷物を運ぶ時間を頭の中で考えた。

「あと少し、待ってもらえませんか」
「あら、忙しいのね。だったら、またにするわ」

 夕霧はそう言い残すと厨房を去っていった。

「黎明ちゃん。それ終わったら、こっちいい?」
「あ、はい」

 結局この日明依は、二度夕霧に呼ばれたが、二度とも手伝いをしていて行くことが出来なかった。

「黎明ちゃん。起こしてごめんなさいね。お客様が酔っちゃって」

 夜更け。聞こえた声に目を開けたまではいいが、無理矢理覚醒させられた頭はぼんやりしたまま、話の内容を理解することも出来なかった。

「一緒に来てくれない?」
「……はい、わかりました」

 蚊の鳴く様な声でそう呟いて、明依は立ち上がった。
 次の日も、また次の日も。同じ毎日を繰り替えしているのかと思うくらい同じパターンで毎日が過ぎていった。
 夕霧はいつも、絶妙なタイミングでいつも声をかけてくるのだ。そして少し待ってほしいという要望は通らない。夕霧は雑用係が欲しいから利用したんじゃないかとすら疑っていた。

 5日目の夜になった。「ありがとう」と言われることは嬉しい。しかし、まともに眠れない。そんな生活も後少しだ。蓄積された疲れで頭が回らない。毎日必死に仕事してるけど、よく考えたらなんでここにいるんだっけ、と軽く考えて、今日は邪魔されませんようにと祈りながら明依は布団に入った。

 夜、開いた襖からほんのり漏れた光で誰かが入ってきたことを理解した。明依が薄っすらと目を開けると、笑顔の夕霧が枕元に座っていた。

「眠い?」
「眠いです……」
「じゃあ、私とお話で出来そうにないかしら」
「……できます」

 そうだ。そのつもりで来たんだ。それなのに一瞬考えた自分が愚かだと、例えようのない嫌悪感が胸の中に溢れた。
 明依はゆっくりと上半身を起こした。

「扇屋での生活はどう?」
「忙しいです」
「どうして?」
「どうしてって……やることがたくさんあるからですよ」
「やることがたくさんあるのはなぜかしらね」
「いろんな人に頼まれるから」
「どうしてみんな、あなたに頼むのかしら」
「それは!あなたが初日にみんなに言ったからでしょう!」
「じゃあそれをその場で断らなかったのは。本来の目的から逸れている事に気付いていても口に出さず、流されるまま時間を捨てたのは、一体誰の責任かしら」
「それは……」

 確かに自分のせいだ。でも、空いた時間に手伝ってほしいなんて言われたら、それくらいならと思うのは普通じゃないか。

「満月屋ではあなたが無理をしない様に宵が管理してくれていたでしょう。もしそれを振り切って働こうとするなら、吉野や雛菊が無理するなと心配したでしょう。何かの為に時間を作りたいと思ったら宵が出来る限り協力して、雛菊は快くあなたの分を負担したでしょう」

 その通りだ。吉野の世話役になった時、日奈は本来明依のするべき仕事を全て一人で引き受けて、芸事の練習ができるように宵に話を通してくれた。

「あなたは今、知るべきだわ。あなたの世界は狭い。この妓楼では、いえ、満月屋から一歩外に出た世界では、誰もあなたの事を守ってはくれないわよ」

 どこか真剣なまなざしで見つめる夕霧に、明依は釘付けになっていた。
 『恨むなら、のこのこついてきた無知な自分と、アンタ可愛さに吉原がどれだけ汚れた世界か教えなかった宵兄さんを恨むといい』
 『自分の側を離れなかったら、全てから守ってあげられるなんて本気で思ってたのかな』
 蕎麦屋の二階に行った時、終夜はそう言っていた。
 満月屋の中で、大切にされていたんだ。その世界しか知らなかった。知ろうとも考えなかった。ずっとここで生きていくんだって、変わっていく未来には見ないふりをしていたから。
 明依は少し俯いて、夕霧の言葉の続きを待っていた。

「この世の中は理不尽だわ。優しい人間が損をするように出来ている。特にこんな場所では、助けを求める声さえかき消えてしまうの。……自分の身くらい、自分で守れるようになりなさい」
「……私を頼ってくれるのが嬉しかったんです。満月屋では頼られる事なんてなかったから。本当に困っているみたいだから、時間の許す限り手伝ってあげたいって思いました」
「だったらそのまま続けるといいわ。その結末を私が当ててあげる」

 明依は俯いていた顔を上げて、夕霧を見た。

「このまま一週間、あっという間に過ぎ去るわ。そして満月屋に帰って誰にも邪魔されずに眠って、起きて、あなたはこう思う。〝ああ、一週間も時間を無駄にしてしまった〟って。そして責任転嫁しだすのよ。私に、どうしてあんなことを言ったの。って、そしてあなたに仕事を頼んだ従業員に、夕霧大夫の元で勉強をしに来たのに、どうしてここはいいから行ってきなさいって促してくれなかったの。ってね」

 明依は息を呑んだ。そう思う自信があったからだ。この状況を自分のせいだと思う勇気が自分にはない事に何となく気付いていた。

「わかるかしら。人間はね、まず最初に自分を大切にしてあげないといけないの。自分を満たしてあげて、その余力を他人にあげないといけない。他人に何かを与えるとき、返してもらえると思ったらいけない。余力であげるものだという事を忘れちゃダメよ」
「……自分を、大切にする?」
「そうよ。自分が満たされてないまま誰かに何かをしてあげれば、それは見ていられない程醜い、恩着せがましいものになる。自分が満たされてないから、その分を返してほしいと思ってしまう。私がさっき話した結末と同じね」

 明依は身体ごと、夕霧に向き直った。

「もう一度言うわよ、黎明。ここは満月屋じゃない。誰もあなたの事を守ってくれないわ。あなたは何のためにここに来たの?」
「松ノ位になりたいからです」
「あなたは今、目的地の書かれていない地図をただ持っているだけ。しっかりと目標に、目的地に印をつけなさい。辿るべき道が見えてくるわ。まずは断る勇気を持つ事ね」

 夕霧はそう言うと、胸元から何かを出して明依の枕元に置き、マッチに火をつけた。それがお香だと気づいた時には既に、嗅いだことのない上品な匂いが漂っていた。

「おやすみなさい、黎明。今日はゆっくり眠りなさい」

 落ち着いたその声を聞くと、どこか安心した様な気持ちが胸の中に広がる。
 夕霧が去った室内で、横になりながら考えた。何一つ自分の力じゃない。遊女としての位の高さだって、与えられたものだ。自分の尺度を持っていない事にも、つい最近まで気付かなかったんだから。
 日奈と旭がいた頃、これ以上の幸せは望まないと決めていた。よく考えれば当たり前じゃないか。誰よりも幸せ者だった。この妓楼に来なかったら世間の厳しさも何もかも、本当に何も知らないままだったかもしれない。そんな状態で年季が明けて吉原の外に放り出されたら。考えただけで恐ろしい。終夜の言う通り、自分はとんでもない世間知らずだ。
 恐ろしいと思いながらも、どこか穏やかな気持ちだ。
 不思議な程ゆっくりと深く眠りの中に落ちて行った。
< 68 / 79 >

この作品をシェア

pagetop