造花街・吉原の陰謀

03:高彩度の世界へ

 目が覚めたら昼すぎだった。誰にも邪魔される事なくぐっすり眠れたのは、夕霧の計らいだろうか。寝不足続きだった数日に比べると、頭が随分と冴えている様な気がした。

 松ノ位になりたいから、自分に足りないものを探す為にこの妓楼に来た。夕霧の元で少しでも多くの事を学ばなければいけない事だけは確かだった。もしこの状況が夕霧の計らいなら、おそらく従業員は来ない。部屋から出なければ誰かを手伝う必要もないのだろう。しかし、部屋の外に出なければいけない。夕霧は、この部屋には来ないだろうから。
 夕霧は何かを教えようとしてくれている。それは明確な目標設定を経た単純な時間の確保、断る勇気ではない事は何となくわかっていた。きっともっと先にある何かだ。

 やはり、満月屋の環境は心地がいいと実感するばかりだ。部屋から出なければ、自分を心配して訪れてくれる人がいる。それのなんて、幸せな事か。

「あら、黎明ちゃん。よく眠れた?」

 部屋の外に出て廊下を歩いていると、待っていましたとばかりに従業員の女は声をかけてくる。

「はい。おかげ様でよく眠れました」
「それじゃあ早速で悪いんだけど、襖障子の掃除をしてもらえないかしら?」
「いいですよ。ただ、夕霧大夫の時間があいたら、そっちに行きます」
「ええ、わかった」

 従業員の女は、ほとんど聞き流す形で掃除道具を選びながらそういった。
 それから明依は、襖の敷居を掃除していった。

「黎明。今、いいかしら」

 明依が顔を上げると、そこには笑顔を浮かべた夕霧がいた。
 本当にいつもいつも、嫌なタイミングで来る。時刻は昼過ぎ。このペースだと、街が一層騒がしくなる時間までに掃除は終わらないだろう。しかし、断る勇気を持て。という事なら、ベストなタイミングなのかもしれないと思いながら明依は立ち上がった。

「すぐに行きます」

 そう言って、掃除を頼んだ女従業員の所へと歩いた。

「夕霧大夫に呼ばれたので、失礼します」

 明依がそう言うと、女は信じられないという表情を作った。

「そんな……困るわよ。一人じゃ終わらないんだから!」

 一人じゃ終わらない事なんてわかっているし、心苦しいとも思っている。そんな明依をよそに「どうしたらいいのよ」「だったら最初から引き受けないでちょうだいよ」と女は(わめ)いていた。
 さっき言ったじゃん。とか、勉強しに来たんだって。とか、いろいろな言葉が浮かんだが、結局たどり着いたのはシンプルな言葉だった。

「戻ってきたときにまだ残っていたら、その時は手伝いますね」

 それから明依は女の返事も聞かずに夕霧の元に歩いた。
 彼女は、笑っていた。

「断る勇気は持てたかしら」

 そう言いながら踵を返す夕霧に続いて、明依も彼女の隣を歩いた。

「……心が痛いです」
「その心の痛みは、あなたの良心や優しさじゃない。〝優しい〟を具現化した様な吉野だったらどうするか、考えてみたらどう?」

 確かに優しさではないかもしれない。どこまでも穏やかで〝優しい〟を具現化したような吉野がもし同じ状況であの場面に遭遇していたら、「それじゃあ、失礼しますね」と爽やかな笑顔で去って行くに違いない。

「その心の痛みはね、誰かに嫌われるかもしれないと思う恐怖心から護ろうとする、反射的な自己防衛。その根本的な原因は、あなたにはなくて松ノ位と呼ばれる人間には必ずあるもの。……自分を都合よく利用しようとしている人間に心を痛めている暇があるなら、私とあなたの違いでも考えておきなさい」
「夕霧大夫は他人に優しくしてあげようとか、考えないんですか」
「考えるわよ。私に何か大きなメリットがあれば」
「……じゃあ、どうして私の面倒を見てくれるんですか?夕霧大夫には、何のメリットもないじゃないですか」
「面白そうだったからよ」
「……それってメリットなんですか?」
享楽(きょうらく)的な生き方をしないなんて、死んでいるのと同じじゃない。本当かどうかもわからない噂話よりよっぽど面白いわ。あなたと終夜の関係」

 薄く笑いながら廊下を歩く夕霧を見て、やっぱり美しいなと思った。自分と松ノ位の違いなんて、そもそも何もかもが違い過ぎてわからないし強いていうなら美しさだ。おまけに夕霧は終夜との関係を面白がっているし。わからない事だらけで、嫌になりそうだ。
 明依はため息を吐いた。

「私とあの男は、夕霧大夫の思っている様な展開には絶対になりません」
「男女の関係ほど曖昧なものはないわ。だって女は気まぐれな生き物よ」

 明依は頭の中で終夜に抱きしめられたあの感覚を思い出していた。しかしそれは盗聴器を仕掛ける為の行為だったことを思い出して、今すぐに文句を言ってやりたい気持ちに駆られた。

「ありえない。今だってあの男の顔面をぶん殴ってやりたくて仕方ないのに」
「いつかその拳をひらいて、そっと抱きしめてあげたいと思う日が来るかもね」

 夕霧が発した言葉に唖然としている明依をよそに、彼女は自室の襖を開けて部屋の中に入る様に促した。
 明依が部屋の中に入って腰を下ろせば、初めて夕霧と会った日に明依が選んだ緑色に太陽と花が描かれているデザインの湯呑と茶菓子が乗った小さなお盆が、世話役によって側に置かれた。
 しかしそのお茶を飲む気にはなれなかった。この湯飲みは夕霧が大批判していたものだ。また何か試されているのではと思うと、やすやすと手を付ける気にはなれなかった。

「もうあんな意地悪はしないわよ」

 夕霧は呆れた口調でそう言うと、片手を差し出してどうぞという仕草をした。
 明依は恐る恐る湯呑に口を付けて盆の上に湯呑を戻したが、本当に何事もなく美味しいお茶を一口含んで飲み下しただけだった。
 世話役がいなくなり、二人だけになった部屋は、しんと静かだ。

「それで、わかった?自分に何が足りないのか」

 それが分かれば苦労しない。考える事をサボっていた訳ではなくて、本当に違う事が多すぎてわからないのだ。それは今の明依にとっては、広い浜辺で一つの貝殻を見つける程途方もない作業に思えた。

「……美しさ」

 違うだろうな。いやでも、本当にそうだったらどうしよう。そんな思いで口にした言葉だったが、夕霧から〝違うに決まってるでしょ〟くらい軽い言葉が返ってくるものだと思っていた。

「じゃあ私の容姿に生まれていたら、あなたは松ノ位になれる?」

 夕霧は真剣な顔で、明依を見ていた。
 気圧されるような存在感。それは確かに、吉野や勝山から感じる何かと同じだった。

「見た目だけがいい女なんて、世の中には掃いて捨てる程いるのよ。断言するわ。今のままのあなたじゃどれだけ恵まれた容姿を持っていても、絶対になれない。私はこの顔に生まれていなくても、この場所にいるわ。絶対に。……どうしてそう思うか、わかるかしら」
「わかりません」

 夕霧は少し息を吸ってゆっくりと吐き捨てると、真剣な表情を消した。目を細めてどこか挑発的な顔で笑った。
 夕霧という人間と関わったのはここ数日の事だ。それなのにその一連の流れを、その顔を、余りに夕霧らしいと彼女が口を開くより少し前の短い時間に明依は考えた。

「もしもこれから先、贔屓客が全員寝返ったって。もしもこれから先、どれだけ劣悪な環境の切見世に身を落としたって、たった一人で生き抜く強さを、私は持っているから」

 黙っている事しかできなかった。ただ、頭の中はせわしなく動いていた。この人は一体今、何を伝えたいのか。その本質を、本能的に探ろうとしていた。
 
「私には自分で定めた軸がある。それは、他人のごときの影響では絶対に揺らがない。私は自分に自信がある。あなたと違ってね」

 〝自信〟というものの正体を、叩きつけられた様な衝撃だ。
 『側でよく見てみるといい。あの女はアンタに足りないものを持ってる。一番わかりやすい形でね』
 夕霧の元に来る前に勝山の言った言葉は、確かにその通りだと納得していた。裸を見られても恥ずかしがるどころかこのまま話を続けてもいいという言葉が出る時点で、答えは出ていた様なものだった。
 夕霧の言う〝自分の定めた軸〟というのが、終夜の言う〝自分の尺度〟だ。自分の内側に作っていく、価値観。それを信じ切ることを自信というのだ。
 今までずっと、他人を基準にしてきた。信じる基準となる物がないんだから、自信なんて湧いてくるはずもなかったのだ。
 納得していると同時に、とても簡単な事だと思った。どうして今までそれに気付きもしなかったのだろうという衝撃で放心している明依をよそに、夕霧は明依の膝元にある湯呑に視線を移した。

「初めてここに来た時、私がこのデザインが嫌いだって言ったから選択を間違えたって思ったんでしょ。可哀想なほど自分の基準がなくて、自信がない子だと思った。それから吉野と勝山がここにあなたを連れてきた理由もね」

 明依はいつの間にか身体に入っていた力を抜いた。

「もし吉野が同じことを言われたらきっと〝私は素敵だと思った〟と言うでしょうね。勝山なら〝アンタの意見は聞いてない〟と言うわ。私なら〝センスがないのはあなたの方よ〟って返すかしら。それぞれ違う回答だけれど、根本的に言いたい事はたった一つ。あなたと私は違うという事」

 あの状況でそう言っている三人が、当たり前の様に浮かぶ。絶対におどおどしたり、自分を曲げたりはしないだろう。
 そうか。自分を曲げる、というのは軸がある人間に使う言葉なのだ。

「吉野もきっと、あなたに自信を持てと教えていたはずよ。覚えはない?」
「……自信を持て、ですか」

 明依は考えを巡らせてみたが、自信を持てと言われた事があっただろうか。小さい事でなら言われたかもしれないが、印象としては非常に薄い。しかし、夕霧がそういうなら、吉野はきっと伝えようとしていたはずだ。

「吉野はそんな無責任な言い方はしないかしらね。そうね、吉野なら……〝胸を張りなさい〟というかしら」

 蒔かれた種が、芽吹く様な感覚。
 『もう駄目だと思う時こそ、自分を騙してでも胸を張って堂々としていなさい』
 吉野から何度も聞いた言葉だ。その言葉で吉野を思い出して堂々と出来ていた正体は、まさに自信。ただ根本的に、その言葉の意味を考えた事なんてなかった。
 自分にはできるという虚勢から始まり、自分を信じさせるだけの過去の出来事を、例えば倒れるまで芸事に打ち込んだという事実や、出来ないことが出来る様になったという成功体験の積み重ねを思い出す。それから自分が今この瞬間に下した選択が正しかったのだと一方的に思い込む。

「もしかすると吉野は、あなたが自分自身を愛することが出来るなら、あなたにとって松ノ位になんて価値はないと思っていたのかもね」

 そう言われて思い出したのは、日奈だった。思えば日奈には目的があったのだ。旭の吉原を解放したいという思いをサポートするという目的。日奈はきっと、そんな自分を愛していた。目標に向かって直走っていた。自分との違いが、まさかこんなところでわかるなんて、思ってもいなかった。

「だけどあなたの状況が変わった。だから同じ立場の私に頭を下げたのね。私の元で学ぶことが、今のあなたにとって最善だと考えたから。素敵な女性の元で学んだわね、黎明」

 ただ自信を持てと言うだけじゃない。〝私は今までのあなたの努力を認めている〟という吉野の想いが、『胸を張りなさい』という言葉に余す事なく詰め込まれているような気がした。
 なんだか無性に、胸の内から溢れ出して止められないくらい、顔が見たい。

 この感情はどうにも例えようがないが、強いて言うのなら何も知らない子どもの頃の様だと思った。自分の限界を知らない。何も怖くない。そんな感覚。花魁道中をした時よりずっと確かな、自分という人間を自分でコントロールできるのだという確信。
 何が変わったわけではない。明依という人間の軸は未完成のままだ。しかし生きるという行為において、強力な武器を得た事は間違いなかった。

「この世界に正解はない。だからまずは、自分が正しいと(おご)りなさい。他人や世間とのすり合わせなんて、一番最後でいいのよ。縛られているものが少ない分、幸せでいられるから」

 世界はこんなにも、鮮やかな色で溢れていただろうか。
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