造花街・吉原の陰謀

04:この街で一番美しい女

「……なんか今、自分にできない事なんて無さそうな気がします」

 夕霧は煙管を手に取って準備を始めながら、明依の言葉に耳を傾けていた。

「そうやって何度も転んで、何度も起きるといいわ。転ぶ事に慣れた頃には、受け身の取り方くらい学ぶものよ」

 一体どんな人生を歩んだら、そんな言葉がすらすらと出てくるのだろうか。
 明依はそんなことを考えながら、夕霧が煙管を口に咥えるまでの動作を見ていた。所作が美しい。吉野の様に特別丁寧な訳でも、勝山の様に特別豪快な訳でもない。そしてその思考を停止させるほど、やはり圧倒的に美しい。

「あなた、本当に私の顔が好きね」
「……そうみたいです」

 夕霧は細く素早く煙を吹いた後、薄く笑っていた。
 おそらく万人が綺麗だという顔をしているだろう。そして、明依にとっては凄く惹かれる顔をしている。近くで拝ませていただいたおかげで、自分の好きな顔のタイプが分かった事はありがたい。じゃあそれが何かに役立つかと言われれば、きっと生涯役立つことはないだろうが。

「私ね、夕霧の名前を継ぐ人間を育てる気はないの」
「何でですか?」
「面倒だからよ。子どもは好きじゃないしね」

 松ノ位と呼ばれる人間が育てたからと言って、必ずしもその世話役が次に松ノ位上がるとは限らない。誰からもこのままでは無理だと言われている自分がいい例だと、明依は思った。側で学べる分、可能性は高いだけの話だ。
 しかし夕霧は、育てる気すらないという。その理由は、あまりに夕霧らしい。だから世話役も、教育目的ではなく本当に自分の世話役、つまり召使の様な立ち位置で大人を傍に置いているのだろう。
 何もかも主郭という場所の決めたルールで動く吉原の中、松ノ位への拘束は甘い。間違いなく松ノ位は優遇され、自由を与えられていた。

「昔からね、顔が綺麗でよく目立ったわ」

 消えていく煙を見ながら夕霧はそういった。明依はしばらく夕霧の放った言葉の意味を考えて、それからじっと彼女を見た。

「……自慢ですか」
「あら、自慢話はお嫌いかしら」
「……好きです」

 自慢話の(たぐい)は嫌いだ。遊女なんて誰もが客のよくわからない武勇伝でお腹いっぱいのはずだ。しかし、別格の美しさを持つ人間の自慢話なら是非とも聞いてみたい。きっと自慢話も一級品に違いない。そう思って明依は、耳を傾けていた。

「何をしてもね、目立つのよ」

 どこかしみじみとした様子で夕霧はそう語る。しかし明依には、夕霧が自分に酔っている様には見えなかった。

「何もできなければ見た目だけだと言われるし、何かが出来ればいけ好かないと言われるの。喋らないだけで面白みがないと言われて、男の子と話しているだけで媚を売っていると言われていた」

 想像していなかった話に、明依は混乱したが、すぐにそれが夕霧自身の過去であることに気が付いた。

「だからよく笑って、よく話した。面白い話をたくさんした。気に入られて、よく褒められた。友達や、もちろん大人たちからも。……でも褒められることが当たり前になって、他人の評価が自分の評価になった。おかしな話よね。常に誰かと一緒にいるのに、私は常に誰かとたった一人で戦っていたの」

 自分に特別美しい容姿はないから夕霧の気持ちを理解することは出来ないが、美しい人間には悩みなんて何一つないと、何となく思っていた。神様からすべてを与えられていて、どんな境遇でも人生の全てが上手くいっている。だって、生まれた時にすでにアタリの手札を引いているんだから、他の手札もアタリに違いないと、今まで何となくそんな風に思っていた。

「小さなことさえ自分で選ぶことが出来なくなった時の事を、今でもよく覚えている。他人に合わせてばかりで、つい他人の顔色を窺って胸が締まる様な嫌な感覚も」

 こんな自信満々な人にも悩みがあったんだと思うと、なんだ同じ人間だと拍子抜けした気持ちと、軽い見方しかできていない自分が恥ずかしくなる。
 かける言葉なんて何一つ見つからなかった。

「私は小学生の時に親から吉原に売られた。その理由は何だったと思う?」
「……顔が綺麗でお金になるから?」
「いいえ。私がいらなくなったから」
「いらなくなったって、どういう意味ですか」
「両親にとっては連れて歩いていると〝可愛いお子さんね〟って言われる事が私の価値だったって事。でもそれって、小さいときだけでしょ。だから小学生になってそんな機会がなくなっていくと同時に、私の価値もなくなったの」
「そんな……」

 次にどんな言葉を言おうとしたのかわからない。ただ、喉元で詰まって、言葉が出てこない。
 きっとこの人の中ではもう、整理がついている。これほど重たい話を心の内から取り出して、淡々と言葉に変換することが出来るくらいには。

「ここへ来てから、最初は凄く寂しかった。自分に価値がないと言われている様で。だけどそれからは、いろんな人を恨んだ。私を売った親は勿論、私が勝手に親切にしてきた友達も、大人たちも。どうして助けてくれないの、どうして気付いてくれなかったの。って。それから、なんだか急にどうでもよくなった。慣れたのか、飽きちゃったのか。よくわからないけれど」

 夕霧は煙を細く噴出した。豪華な部屋の中に、煙が溶けていく。

「そして目が覚めたのよ。誰に頼まれたわけでもないのに、勝手に頑張って勝手に失望したのは自分で、全部自分のせいだったって事」
「それは、違うんじゃないですか?だって夕霧大夫は他人を思いやっていただけで、」
「思いやりはね、使い方を間違えれば自分を殺すわよ」

 はっきりとそう言い切る夕霧に明依は思わず押し黙った。

「見ていられない程醜くて、恩着せがましいものになった私の親切心や思いやりは、自分が満たされてないからその分を返してほしいと思う私自身の気持ちの問題だった。だからまず、自分を大切にしてあげた。それからは嫌だと思う事ははっきり嫌だと言った。昔とは比べ物にならない程聞き分けの悪い女になった。自分を一番大切にした結果、どうなったと思う?」

 夕霧は答えられないと分かっているクイズを出しているかのように、少し意地悪な顔をしていた。

「……殴り合いの喧嘩になったとか?」
「それもいいわね。でもハズレよ」

 殴り合いなんて絶対にやめてほしいと明依は思った。そんな事になったら、自分が夕霧の分を負担してもいい。こんな綺麗な顔に傷でもついたら一大事だ。日本の恥だ。こんな国宝級の顔面。と、真剣に考えていた。

「私が自分を一番大切にした結果、周りからちゃんとした扱いを受ける様になった。外界では自分をないがしろにしてた。自分が自分をないがしろにしているんだから、他人が私を雑に扱うのは当然の事よね。だって〝そういう風に扱っていいもの〟だって自らレッテルを張って歩いているようなものなんだから」

 人間同士であれば相性もあるのだろうが、話しやすい人、話しづらい人がいるのは事実で、その雰囲気は本人が作っている。
 自分を大切にしていれば周りもそれ相応の扱いをするようになるという事だ。
 こんな考えにたどり着いた人と自分とでは、比べ物にならないのも当然だと思った。納得させられる事ばかりだ。こんな考えを持つまでに、一体どれほど悩んで苦しんだのだろう。

「今はどうなんですか。いい噂ばかりでは、ないじゃないですか」

 〝傾城〟という言葉は美しいという褒め言葉ではあるが、その言葉にはどこか、どうしようもない男たらしという意味も含まれている。
 夕霧はどこか馬鹿にした様に笑った。

「だって仕方ないじゃない。ただ喋っているだけで勝手に誤解するんだから。大体、勝手に誤解して勝手にお金を使っておいて、私のせいにされても困るわ。どうして私がそちらに合わせないといけないの?って感じだわ」

 夕霧はそう言うと、明依に向かってどこか無邪気な笑顔を向けた。

「本心よ。性格が悪いと言われたって構わないわ。私は吉原で一番美しい女、夕霧大夫。自分に嘘をつくなんて情けない事は、もうやめにしたの」

 どうしてこの人が自分の過去の話をしたのか本心は分からない。
 ただ、世話役として誰かを育てる気はないのだとしても、ほんの少しだけでも何かを託そうと思ってくれているのかもしれない。違うかもしれないが、そうだと嬉しいから、そう思っておく事にする。
 明依が笑えば、夕霧は少し微笑んで煙管の始末を始めた。
 豪華絢爛なこの部屋も、なんだかほんの少し、心地がいい。

 なんの前触れもなく急に開いた襖に明依はびくりと肩を浮かせたが、夕霧は視線を向ける事もなく煙管の始末を続けていた。
 そこには晴朗が立っていて、部屋の中に入ると襖を締め切った。

「急に何の用事かしら」
「随分な言い草ですね。自分はいつも、急に呼び出すくせに」

 夕霧の言葉に晴朗はそう言うと、障子窓の前まで移動しながら煙草を口に咥えてマッチで火をつけた。障子窓を開け放つと入ってきた風が、晴朗の髪をなびかせていた。吹いた煙が、すぐに消える。
 晴朗は障子窓のすぐ横の壁に背を預けて、左手の人差し指と中指に挟んだ煙草を口元に持っていった。そのまま夕霧の顔をじっと見つめた後、瞬きを一つして視線を明依の顔に移した。明依が少し背筋を伸ばすと、彼は目を閉じて口元から煙草を離し、後頭部を壁に預けて煙を吐き出した。
 
「やっぱり女という生き物は理解できない」

 しみじみとした様子で晴朗はそう言うと、笑顔を作って夕霧を見た。

「徒党を組むしか能がないくせに、その輪の中でも足の引っ張り合いをし始める。どうしようもない生き物だと思っていました。互いを高め合う事もできたなんて、知りませんでしたよ」

 明依はともかくとしても、夕霧は何か表情に出ていたのだろうか。もしそんな情報を読み取っているのなら、やはり主郭という場所は恐ろしい。
 そんな事を考えて警戒している明依をよそに、夕霧は煙管の始末を終えると、立ち上がって晴朗の方へと歩いた。

「女を理解した気になっているなら、傲慢だわ」

 どこか馬鹿にしたようにそういった夕霧は、晴朗の胸元に手を添えた。夕霧は晴朗の胸に触れている手を滑らせて、彼の胸元から煙草を手に取った。

 晴朗が少し夕霧の方へと顔を傾けると、彼女は煙草を指に挟んだまま口に咥えて顔を近づけた。夕霧の咥えている煙草に、少しづつ火が移っていく。
 明依がその様子をただ眺めていた。絵を見ている様な気持ちになってくる。
 おそらく何もないだろうが、今からここで、()()()()()が始まったのだとしても、全く違和感はないなと思ったと同時に、多分最初から最後まで一秒たりとも目は離せないだろうなと、なぜかこの場に居座る気でいた。

 夕霧は晴朗から離れると、細く煙を吹きだした。入り込んだ風が夕霧の髪をさらうと、彼女は髪をさっと払った。この人は煙草も似合うのか。無敵じゃんと、明依は思った。
 壁に背を預ける晴朗と、その隣で街を見下ろす夕霧は、互いに何も喋らない。

「あの……」
「なに?」
「お二人はどんな関係なんですか」

 意を決して問いかける明依に夕霧はきょとんとした顔をしていたが、すぐに意地悪な笑顔を作った。

「一言で言いきれる男女の関係なんて、つまらないでしょ」

 えっ、やっぱそういう事なの?と思って夕霧と晴朗を交互に見た明依だったが、晴朗はいつも通り薄ら笑いを浮かべているだけだった。

「ああそうだ。今、満月楼に終夜がいますよ」

 〝終夜〟という単語で、心臓は大きく跳ねる。
 
「ちょうどいいじゃない。あなたもう帰っていいわよ」
「はい……。でも、ちょうどいいって何がですか?」
「泣寝入りするつもりなの?思わせぶりな態度とられて、実は盗聴器を仕込まれていたのに」

 夕霧の言葉に、晴朗は「本当にブレませんね、終夜は」と、どこか楽しそうに笑っていた。
 確かにそうだ。扇屋に来てからというもの精神的にギリギリで、生き抜く事に必死で、終夜の事どころか満月屋の事や宵の事を考える暇さえなかった。
 段々と腹が立ってきた。泣き寝入りなんて絶対にごめんだ。どうしても一言、言ってやりたい。

「帰ります。夕霧大夫、本当にお世話になりました。ありがとうございました」
「どういたしまして」

 明依が頭を下げると、夕霧はひらひらと手を振った。

「……晴朗さん、帰らないんですか?」
「どうしてですか?」
「どうしてって、終夜が来ているならこんな時の用心棒でしょう」
「今日は相手をしてもらえそうにないので、遠慮しておきます」

 この人は本当にどこまでも自由だなと考えた後、明依はもう一度夕霧に頭を下げた。

「黎明」

 夕霧の声に明依は立ち止まって彼女を振り返った。

「私はもう、あなたのいいところを一つ見つけたわよ」
「私のいいところ?」

 しかし夕霧は、明依の問いかけに応える気はないらしい。

「胸を張りなさい。あなたはとても素敵よ。この私が保証してあげる」

 明依は思わず、笑みが零れた。この街で一番美しい女からの保証は、大きな一歩に違いないと確信していたから。

「ありがとうございます!」

 明依はそう言うと、夕霧の部屋を飛び出して廊下を走った。

「お手伝いできなくてすみません!お世話になりました!」

 ぶつぶつと独り言を言いながら、いまだに掃除をしている先ほどの女従業員に通りすがりにそう言って、扇屋を飛び出して、満月屋までの道を最短で走る。走りながら、先ほどまでの事を考えていた。

 『この世の中は理不尽だわ。優しい人間が損をするように出来ている』
 夕霧はきっと、本当は凄く優しい人だ。
 実の親に捨てられるというのは、大切な人に裏切られる感覚というのは、どういう感覚なのだろうか。
 誰よりも憎んでいるだろう。本当にそうだろうか。もし両親が生きていて、同じ様に吉原に売られたとしたら、憎むことはできるだろうか。悲しくなるかもしれない。自分に何か、落ち度があったんじゃないかと。その理由を生涯探し続けるのかもしれない。愛したい人を憎むという、身を焼く様な呪いに蝕まれながら。

 人混みがうっとおしいばかりの街が、いつもよりずっと、綺麗に見えた。
 生きることに必死で余計なことを考える暇がなかった。それはつまり、いつも考える必要のない事を考え続けているという事だ。宵と十六夜の関係。日奈に対する罪悪感。終夜という人間。考えても仕方のない事を、考え続けている。
 扇屋での生活は確かに辛かったが、そんな事を考えずに生活していたことについては、実は自分が少し前を向く材料になっていたのかもしれない。

 明依は満月屋の中に入って廊下を走った。
 宵と終夜がいる。宵を心配してだろう。終夜を警戒する様な視線が、いたるところから集まっていた。
 二人が明依の存在に気付いたのはほとんど同じタイミングだったが、二人とも驚いた顔をしていた。帰る予定はまだ先だ。いるはずのない人間がいるのだから、当然だろう。

 宵の前では努めて誠実であろうとした。宵の前ではいい子ぶっている自分がいた。少し前の自分なら、終夜に抱きしめられた事に少しでも気づかれるようなことはしたくないと思っていたに違いない。
 今だってそう思っていない訳じゃない。だけどそれよりも、そんな事よりも。自分の心の内が叫んでいる気がした。
 別に死ぬわけじゃないじゃないか。誰かにどう思われたっていいじゃないか。
 自分の心の声が、これ以上聞こえなくなるくらいなら。

「このクソ男」

 明依は宵の目の前にいる終夜の胸ぐらを掴むと、思いきり引き寄せた。
 あの造形美ともいえる夕霧の身体からも、彼女が努力を欠かさない事は分かっていた。それはきっと、自分を大切にするための努力なのだ。

「怒ってる?()()

 まるで宵に自分と明依の関係を連想させようとしているかのように、終夜はわざとらしく明依の名前を口にした。
 こんな時に、言いたい事の一つも言えない様な人間には、なりたくない。
 今日からはちゃんと、自分の好きな自分でいたいから。

「ぶん殴ってやりたいわ。アンタの事」

 目を見開いて終夜と明依を交互に見る宵を前に、終夜は楽しそうに笑うと、観念したように両手を自分の顔の横で広げた。
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