造花街・吉原の陰謀

09:三分の二の世界

「撒いたかな」

大通りの隅で、終夜は独り言の様に呟いた。明依は待ってましたと言わんばかりにさっと手を離して、壁に手をついて息を整えた。腹部が痛い。肺が内側から焼けている様だ。そんな明依をよそに、終夜は辺りを見回している。息ひとつ乱れていない。同じ距離を走ったとは到底思えなかった。

「いつまで休んでるの?さっさと行くよ」
「もうちょっと休ませてよ。……疲れた」
「自分が『撒いて』って言ったんだから、知らないよ」
「……鬼」
「浮世の地獄にも鬼はいるんだよ」

 そういいながらも終夜は、明依が手をついている壁に背中を預けた。
 明依はある程度息を整えた後、終夜と同じ様に壁に背を預けて視線を上げた。いつも通りの観光客。いつも通りの吉原の景色。
 しかし今、自ら望んでこの景色を見ている。自らこの街に来て、自ら終夜の手を引いて。自分の目でこの景色を見ている。
 暮色(ぼしょく)が迫り、夜が来る。やはりこの街は、美しい。

「それで、今度は俺に何の用?」
「雑談しようって言ってるの。今日は風が心地いいとか、星は綺麗だろう、とか」

 明依の吐いた言葉に、終夜はため息をついた。

「私の気持ちが少しは分かった?」

 日奈が死んでしばらく経った頃、部屋に忍び込んだ終夜は明依に同じような事を口にした。終夜はめんどくさそうに、それから不貞腐れた様に壁に頭を預けた。

「終夜はこの街を守ろうとしている。だから、頭領選抜で宵兄さんが一番票を獲得する可能性があっても、私に花魁道中をさせて注目を集めさせた。それは、間違いないよね」
「それは正解。この街がなくなると困るのは、主郭の連中も俺も同じ事だ。珍しく意見が合ってる」
「……だったら私が宵兄さんを助ける為に地下に行った時、縛り付けられていた男は吉原にとっては敵って事?例えばスパイ、とか?」
「まあ、そんなところだね」

 安心していた。あの男が吉原にとっての敵ではなく、何かミスを犯した身内の人間だったとして。あれだけ酷く痛めつけて制裁していたのなら、またこの男が分からなくなっていただろう。

「終夜の目的は何なの?」
「さあ、なんだろうね」
「宵兄さんを殺す事?」
「そうだね。宵を殺したい」

 地下に宵を連れて行ったときになぜ、そうしなかったのか。そこにどんな理由があるのか。この質問に終夜は『宵が認めてくれないからだ』と言っていた。

「何でそんなに、宵兄さんを殺したいの?」
「気に入らないから」
「宵兄さんが死んだら、何か得することがあるって事?」
「別にないよ。気に入らないものは気に入らない。宵を殺せるなら、理由なんてなんでもいい」

 終夜はなんて事のない様子でそういう。個人的な、子どもみたいな理由で人の命を奪おうとする。悪気なんて、持ち合わせていないみたいな顔で。
 今の彼は、日奈と旭の見た〝終夜〟じゃない。

「今、どっち?」

 どこか楽し気にそういう終夜を見ると、彼は憎らしいほどいつものように挑発的な顔で笑っていた。

「アンタの中の〝俺〟は、いいヤツ?それとも、悪いヤツ?」

 そういう終夜に、今度は明依が大きな溜息を吐いた。
 残念ながら、この男の発言を真実か嘘か見抜く眼力は明依にはない。てっきり自分が主導権を握っているものだと思っていた。どこからかわからないが、この男のペースに巻き込まれていたのだろう。

「殴らせて」

 深く考えても仕方ない。判断材料がないものはないのだ。この男から主導権を奪い取れるほどの技量が今の自分にはない。そう切り替えて、明依ははっきりとした口調でそういった。

「図々しいな。アンタの願い事は聞いてやった」
「それとこれとは話が別。私は傷付いたの。盗聴器仕掛けられてプライベートが脅かされた」
「誰もアンタのプライベート覗こうと思って盗聴器を仕掛けた訳じゃない。価値があると思ってるなら、自意識過剰だよ」
「さっき殴らせるって言ったのに……。嘘つき」

 明依が少し不貞腐れた様子でそう言うと、終夜はしぶしぶと言った様子で明依の方を向いた。

「優しくしてね」
「世の中はね、そんなに甘くないの」
「世間知らずが偉そうに語ってる」

 そういう終夜はいつもの様子だ。
 盗聴器の分どころか今までの全てをここで晴らしてやる。何なら平手打ちじゃなくて拳で行きたいし、さらに言うなら頬じゃなくてアッパーくらいかましたいし、足まで使っていいなら踏みつけた後、腹の上を飛び跳ねてやりたい。
 しかし後が怖い。結局、盛大に一発叩いてやろうと狙いを定める為に終夜の頬に手を添えた。

 そこまでして急に、殴る気がしなくなった。生きている人の肌だった。終夜は生きているんだから、当然だ。明依が思い出したのは、死んだ旭に触れた時の感覚だった。人間の肌とは思えない様な感覚。

 終夜のせいで宵は死ぬかもしれないと思っていた。同時に、吉原すべてを相手取って終夜に勝ち目はないとも思っていた。しかし、この街で最後に笑うのが終夜であるという考えが浮かんでいた。
 それが今では、吉原すべてを相手取って終夜に勝ち目なんてあるはずがない。このまま事が進めば死ぬのは、終夜の方だ。そしてこの街は、何事もなかったかのように修繕工事を終えて動き出す。

 そうだ。終夜はもうすぐ、死ぬかもしれない。
 それを今、実感していた。身に染みて痛いくらいに。

「やっぱりいい。やめた」
「何、急に」
「遊女は気まぐれなの」

 そう言って頬から手をはなす明依を、終夜は怪訝そうに眉間に皺を寄せて見ていた。

「殴らないから一つだけ、約束して」
「なに?」
「私、頑張るから。日奈と旭の分まで。今度こそちゃんと努力するって約束するから、私が松ノ位に上がる事が出来たら、私の話をちゃんと聞いて」
「面倒だよ。今話して」
「今は話せない。まだ、決めてないから」
「は?」

 終夜は明らかに、頭おかしいだろ。と言いたげな視線を明依に向けていた。
 終夜が噂通りの悪逆非道な人間なら、一体どんな言葉をかけるだろう。
 終夜が日奈と旭の言う様な人間なら、一体どんな言葉をかけるだろう。
 ただこんなことを終夜に約束させる時点で、自分の感情がどちらに傾いているかなんて、分かり切った話だ。宵にも、終夜にも、死んでほしくない。それにしてはあまりに、心許ない保険だ。

「耳を傾けてほしいって事。私の言う言葉に。私がちゃんと私の力で評価されたら、私の言う言葉の意味を、ちゃんと考えて」

 しかし明依は、自分の気持ちを理解していた。彼への思いは一つだ。日奈と旭の見ていた〝終夜〟であってほしいという、あまりに独りよがりの願望。
 それは、自分の退路を断つ為でもある。もう手を抜いている暇はない。この夏祭りが終われば、吉原は本格的に終夜を消す為に動き出す。その短期間にこの街から、〝松ノ位〟という称号をもらうくらいしなければ、きっとこの男は何も持たない一介の遊女の意見なんて、聞き入れないだろう。

 信じさせてほしい。
 あれだけ、自分の軸を持て。自分の人生を生きろ。と夕霧と勝山に言われておいて、どこまでも他人任せ。
 しかし、旭が死んだとき終夜は『人間は(すが)りたい生き物だ』と表現した。きっと今、終夜は本物の悪人ではない。という、一切自分が介入する余地などない不明確な未来に(すが)っている。

「いいよ」

 終夜はどこか真剣な口調でそういったが、それから薄く笑った。

「その時俺が、生きていたらね」

 明依は思わず、目を見開いた。
 心の内を急に殴りつけられた様な衝撃。これが終夜の本心なんだろうか。そう思うと湧き出して止まる事を知らない、耐えがたい不安。今すぐこの不安を消したい。今すぐ書き換えてほしい。いつものような、傲慢な言葉で。〝らしくないよ〟という茶化すような強がりも、〝そんな事言わないで〟という悲しみも苦しみも、表現する数秒さえ、惜しい。
 ほとんど無意識に、明依は終夜に向かって腕を伸ばしていた。

 『いつかその拳をひらいて、そっと抱きしめてあげたいと思う日が来るかもね』
 女というのはどうしてこうも、気まぐれなんだろう。

「終夜、黎明。こんなところで、何をしている」

 終夜はその一言目を聞くより前に、明依から視線を逸らして声のする方を見ていた。明依は終夜に伸ばしていた手を止め、ゆっくりと振り返る。二人を遠慮なく睨みつけているのは叢雲だった。

「誰を隣に連れて歩こうと、俺の勝手だね」

 先ほどの強い感情を引きずっている明依は、終夜のその言葉で我に返り腕を引いて叢雲に向き合った。
 今回、この状況を望んだのは明依の方だ。それなのに終夜は、まるで自分が意図して側に置いている様な言い方をする。それが、印象で商売をしている遊女である明依に対する、彼なりの最大の配慮の様に思うのだ。

「黎明」

 終夜など眼中にない。と言った様子で、叢雲は静かに明依の源氏名を呼ぶ。その口調だけで、責めている事が分かる。

「お前はこの男がこれから先吉原で何をしようとしているのか、分かっているのか」

 (かげ)の管理調整をしているのなら、この人に逆らえば殺されるかもしれない。
 どこまでも威圧的。終夜の様に間接的なそれとは違う。もっともっと、直接的な威圧感。

 あの感覚がする。今起こっているすべてが、別の次元で発生しているような、自分には無関係の様な。フィルターを一枚介して世界を見ているような。慣れない。そして、分からない。これは極度の緊張か。それとも自己防衛か。

 〝何をしようとしているのか〟。嫌という程わかっている。終夜が宵を殺そうとしている事なんて。他の誰でもない終夜の口から、直接聞いたんだから。

「お前が今まで世話になったのは。どこの妓楼からも受け入れられなかったお前を拾い、この街で生きていけるよう取り計らったのは、誰か。わかっているのか」

 わかっているに決まっている。宵にとって終夜という人間は天敵だという事も。わかっていなければ、こうやって現実を叩きつけられた時に、宵に対する罪悪感で心が埋め尽くされる感覚には浸らないだろう。
 それでも今の明依には、怖いという感情はなかった。

「わかっています」
「だったら、忠誠を尽くせ。それが唯一、お前が宵に対してできる恩返しだ」
「忠誠は尽くします」
「わかっているのなら、早く満月楼に、」
「それとこれとは、話が違います」

 それでも、心が悲鳴をあげている。終夜の本当の顔が知りたいと。
 〝死んだ人間はあなたの心の中で生きている〟は、世迷言だと思っていた。日奈と旭と会話することも、一方的に言葉を贈ることも、ましてや一方的に言葉をくれる事も、一生涯ない。しかし、あながち間違いではないのかもしれないと、今は思っている。

「私がどこで誰と話をしようが、私の自由のはずです」

 『じゃあお前主郭を、吉原のほぼ全てを敵に回している終夜をたった一人で信じられるのか』
 そういう空に、何の言葉も返せなかった。今だってそうだ。信じ切る事は出来ない。もしかするとずっと、そうなのかもしれない。それでも、信じてみたいと思っていて、感情は明らかにそちらに傾いている。

 『終夜がそんなものを望むはずがない。だからなんの力にもならない。誰も得をしない。無意味な〝信じる〟って行為に、命を賭けられるか』
 旭と日奈が「違う。終夜は、そんな人間じゃない」と叫ぶ声が、「信じてあげてほしい」と悲痛な思いを含んだ声が、けたたましく反響して、いつまでたっても鳴りやまない。
 もしかすると、自分が死ぬかもしれないという本当の恐怖が今は消し飛んでいるだけかもしれないし。自分が愚かだったと嘆く日が来るかもしれない。でも、仕方ないじゃないか。

 心の中に広がっていたはずの暖かい世界の三分の二が、信じてほしいと言うんだから。

『そんな度胸も、根性もないだろ』
 案外、度胸も根性も持ち合わせているらしい。
 やはり、女は気まぐれな生き物だ。
 明依は大きく息を吸ってしっかりと叢雲の目を見た。

「私はあなたに責められる事なんて、何もしてない」
「……貴様、」
「ずいぶんと久方ぶりじゃないか、叢雲」

 叢雲が鬼の形相で明依の胸倉に手を伸ばしながら一歩近付いた事と、終夜が明依の腕を引いて庇うように背に隠した事、それから叢雲の肩に腕を回しながら誰かが彼の言葉を遮ってそう言ったのは、ほとんど同じタイミングだった。

「……勝山大夫」

 明依がそう呟くと、勝山は終夜と明依を見てニヤリと笑った後、叢雲に視線を向けた。

「何度も言うけど、あの時は世話になったねェ。アンタが話を通してくれたおかげで、私はこの街にいる。恩人さ」
「後にしろ。今はそれどころでは、」
「ここは女の街だ。女に恥をかかせるモンじゃないよ」

 勝山は軽く振り払おうとする叢雲を制するように、肩に回している腕に力を入れた。

「大目に見てやんなよ。若い頃ってのは、ダメだと言われるほど燃え上がるモンだろ。いいじゃないか。人目もはばからずに乳繰り合ってるんじゃないんだから。たまには女の肌を……。いや、女と身体を……ん?女を、求めて……」

 過激な表現しか持ち合わせていない様だが、幸いなことに同時にそれを制する理性は持ち合わせているらしい。

「まァ、とにかくだ。〝吉原の厄災〟も男なのさ」

 強制終了させた勝山は、満足気な表情を浮かべている。明依が終夜の顔を見ると、目を細めて勝山を責める様に見ていた。当然、勝山は気付かないフリを決め込んでいる。
 終夜と叢雲では喧嘩になっていたかもしれないし、彼を止めてくれたのは心底ありがたいと思っているが、自分がもし男でも誤解を招かれる様なその色狂いのド屑みたいな言われ方だけは絶対に勘弁してほしい。
 こればかりはさすがに、終夜が哀れだと思った。

「勝山大夫。お前は最近、黎明に肩入れしていると聞く」
「いい女になる。私が保証してもいい」

 四人から少し離れた所では、辺りがざわつき出し、大通りの中央を開けて覗き込むように一方へと視線を寄越す観光客がいた。それを見た別の観光客達は、何事かわからないまま辺りを見回し、同じように一方へと視線を寄越した。

「妓楼の管理をしているこの男を、贔屓目にみたい気持ちは譲って理解しよう。しかし、黎明に余計なことを吹き込むな。宵は優秀だ。この街での未来もある。言う通りにしていれば、黎明の将来は安泰。この街で、それ以上に幸せな事などあるはずがない。お前は今、黎明からその幸せを奪おうとしている。……愚かだとは思わないか」
「人間には知性がある。知性があるから感情があり、感情は時にどこまでも愚かだ。……アンタに言ってんのさ、叢雲」

 一人また一人と大通りの中央をあけて並び、それはあっと言う間に幾重にも重なって長蛇の列を作る。
 花魁道中が、来る。

「若い男女の仲に割って入るなんて野暮な真似は、互いによそうじゃないか。だからどうだい。私と一晩」

 そう言うと勝山はニヤリと笑って息を大きく吸った。

「夕霧!!」

 凛と響いた大きな声に、辺りはシンと静まり返る。道をあけた観光客の隙間から、花魁道中の真っ最中だった夕霧が、足を止めて少し驚いた様子でこちらを見ていた。
 それから、明依を庇うように立っている終夜とその前に立つ叢雲、腕を回す勝山を見て状況を理解したのか、夕霧は意地悪な笑顔を浮かべた。

「あら、ご機嫌いかが?ところで、お隣の殿方とはどういうご関係なのかしら……」
「おい……!よせ!!」

 焦った様子でそういう叢雲の隣で、勝山は笑顔を浮かべている。終夜は「……嘘だろ」と呟くと、明依の手を引いて走り出す。状況が理解できないままの明依は、終夜に連れられるまま足を動かした。

「勝山大夫」

 夕霧がそうはっきりと口にした直後。ざわざわと小さな音が段々と大きくなり、やがて大勢の観光客が一斉に騒ぎ立てた。
 仰々しく着飾っていない松ノ位なんて、そうそうみられるものではない。ましてや花魁道中でしかお目にかかる事の出来ない松ノ位と会話ができるかもしれないという期待からか、辺りは大混乱だ。
 振り返った明依が見たのは、観光客に紛れても凛と立って分け隔てなく話をしている勝山と、「勝山大夫とどんな関係なんですかー?」と興味本位で尋ねられて人の渦から抜け出せない叢雲の姿だった。
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