恋する天然酵母
5 吉川弘樹
 秋晴れが続き空も高く青い気持ちの良い日々が続いたが、季節外れの台風がやってくるようで来週いっぱい天気はぐずつくらしい。パン屋の仕事は食欲の秋らしくよく売れ忙しかった。

 休日は疲労回復のためゴロゴロしていて、弟にはその様子を見られ「そんなんだからふられんじゃねーの?」など生意気なことを言われて過ごした。それでも『アダージョ』のチュニックを着ていると心のささくれが治るようであまり腹も立たなかった。

 来週の休みの日にはワンピースを着て『アダージョ』に行こうと思っていた。雨の日の夕方には弘樹が来るらしいので多めにパンでも焼いてお礼を言いたかった。
前回はバターロールを焼いたので、今度は何にしようかとパンの本を眺め、来週の悪天候をウキウキしながら子供のように待っていた。

 水曜日の夕方。曇り空だが雨は降らなかった。店に弘樹は来ないかもとも思ったが、せっかくパンを焼いたのでワンピースを着て出かけることにした。

 美里の雑貨店『アダージョ』はフミの家から歩いて二十分の距離だった。職場の『パインデ』と逆方向で少しだけ坂道を上る。あまり来たことのない方角で新鮮な道を歩くことが楽しい。特に目立つことのない住宅街だが、新しい家が多く立ち並びこざっぱりとした町内だった。

そんな中に『アダージョ』異彩を放つが不思議と違和感はなく、合理的な街並みに温かいガス灯のような温かさを演出していた。店の隣にシルバーの車が停まっているのが見えた。

(よかった。弘樹さん来てる)

 早歩きで店に行きドアを開けた。

「ごめんください」

 フミは店内に入って少し店の中を眺めた。

「やあ」

 カフェのテーブル席から弘樹の声がかかった。

「こんにちは。先日はありがとうございました」

 フミは頭を下げ最敬礼をした。笑って弘樹は「いいよいいよ。姉貴は少し席をはずしてるけどもう十分もすれば帰るよ」と言った。

「ああ。そうなんですか。今日はコレを弘樹さんに。美里さんの顔見たら帰ります」

 パンの入った紙袋を弘樹に渡した。

「聞いたよ。パン職人なんだってね。俺も『パインデ』のパン好きだよ」
「ほんとですか。嬉しい」

 弘樹は紙袋を覗いてパンの匂いを嗅いでいる。そして美里と少し似ている優しい眉と涼しげな目元をゆっくりフミのほうに向け「美味しそうだね。クロワッサン好きなんだ。ありがとう」とほほ笑んだ。

 フミは前回は動揺と落ち込みで弘樹のことをあまり関心を持ってみなかったが、こうして会うと落ち着いた大人の男性ですらっと伸びた常緑樹のようだ。

 そばにいると木の陰にいるような安らぎを覚えた。改めて(かっこいい男の人なんだな)と思うと恥ずかしくなって下を向いた。

「お口に合うといいですけど」

 もじもじしていると美里が帰ってきた。

「ただいま」
「おかえり」
「こんにちは。お邪魔してます」

 美里はぱっと明るい表情で「あら、いらっしゃい」と迎えてくれた。

「クロワッサンもらったんだ」
「うわー。美味しそう。一個いただき」
「あ、俺のだぞ。とるなよ」
「ケチ。よこしなさいよ」

 大人だと思っている二人が、自分と弟のようなじゃれ合う喧嘩を見てフミは笑った。

「やだあ。フミちゃんに笑われたわよ」

 美里は弘樹をたしなめたが彼も「大人げないからな、姉さんは」と切り返していた。

 ふんっと美里はこっちを向き、気を取り直したように笑顔で「わざわざありがとう」と言い「今日はこれから暇?」と聞いてくる。

「えっと、美里さんに会ったら帰ろうと思ってました」
「そうなの? よかったら弘樹とご飯でも食べれば。パンのお礼しなきゃね」
「ああ。そうだね。飯でも行こうか」
「えっ。あの、お礼のお礼って、困ります」

 慌ててフミは首を振るが、この姉弟はなかなか強引だ。しばらく断ったが結局美里を自宅に送ったのち、弘樹と食事に行く羽目になった。
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