情熱の続き
日本に戻って来て三日目、宗一郎と桃子との約束の週末。

日中は貴広は東京の本社に顔を出して、里穂は美容室を予約してあった。およそ一年ぶりのヘアカットだった。ちょうど一年前と同じくらいの、鎖骨が隠れる程度の長さにしてもらうつもりだった。里穂の長くなった髪を撫でるのが好きだった貴広は残念そうではあったが、今回を逃すとまたしばらく伸ばしてしまいそうだからと張り切って美容室に出かけた。同時に、一年前と変わらない自分になりたかったのかもしれない。宗一郎に会う今日は、特に。

桃子が予約してくれた牛鍋の店に行く前に里穂は貴広と待ち合わせをした。彼は髪の毛を切った里穂を見るなり、かわいいと何度も褒め、トリートメントされた髪の毛を撫でてくれた。あまりに撫でまわすので、セットされたばかりの髪の毛は早々に乱れて、「もういい加減にして」と里穂が頬を膨らませると貴広は悪いと言って笑った。

「用事は無事に済んだの?」
「ああ。少し書類の確認とかさせられたけど、問題なし。ロンドンでも引き続き頑張れって」
「そう、よかったわね」

そんなやりとりをしながら二人で店内に入ろうとしたとき、貴広がスマートフォンを見て言った。

「悪い。上司から電話が来てた。ちょっとかけ直してから行くから、先に入ってて」

里穂はわかったと返事をして、ガラガラと音を立てて引き戸を開けてのれんをくぐると、着物姿の女将が受付をしてくれた。名前を確認すると「お連れ様がいらしております」と個室に案内してくれる。その言葉に里穂は桃子はもう来ているのかと思いながらついていき、障子の戸を女将が開けたときだった。

「宗」

視界に入ったのは他の誰でもない宗一郎だった。最後に会ったときと変わらない姿。一つ一つのラインを思い出と重ねて、間違いないと里穂は確信する。ロンドンへ行ってから、顔を見ることも声を聞くこともできなかった人。まだ懐かしいと言えるほどでもない。それなのにとても実物の宗一郎にとても会いたかった。そのくらい、脳裏でずっと描いでいた面影。丁寧な微笑みは、ゆっくりと少しだけ口角が上がる。いつもそうだった。その笑顔に、今日、会えることはわかっていた。それなのに、思っていた以上に宗一郎との再会は胸が高鳴った。

「宗、久しぶり。元気だった?」
「僕は相変わらず。里穂も、変わらないね。」

いかにも育ちのよさそうな、品のいい笑顔で、穏やかな声で宗一郎が言った。
変わっていないと言ってもらえたことが里穂は嬉しくて、整えたばかりの髪の毛がいっそう輝いた気がした。

「貴広は?」

宗一郎の言葉に里穂の表情が固まる。里穂と貴広がセットなのは当然だ。夫婦なのだから。桃子がここにいても同じように聞いただろう。それでも、宗一郎から聞かれるのは、なんだか里穂の胸が苦しくなることだった。

「職場の人と電話するからって、先に入っているように言われたのよ」
「そう、じゃあもうすぐ来るね」

そのとき扉が開いて、女将がお絞りを持ってきてくれた。お飲み物等お決まりになりましたらお声がけくださいと言って。
そしてまた戸を閉められると宗一郎と里穂は二人きりになった。

「メニュー見る?日本酒が豊富だし、日本ワインもあるよ」

なかなかロンドンのお店では味わえないだろうからと言って宗一郎から渡されたお品書きを受け取ると、それをただ手に持ったまま里穂は宗一郎をじっと見つめた。宗一郎は、何?という顔をした。

里穂はためらいながらも、口を開く。本当は言うべきでなかったのかもしれない。他愛ない話をしていれば笑顔で別れられる。そしてまたいつか笑顔で会えるはずなのに。言ってしまった。

「どうして、あのとき抱きしめたの?」

あのときというのはロンドンに発つ前、最後に宗一郎に会ったときだった。貴広に渡して欲しいものがあると言って、たった一枚だけCDを持ってきてくれたのだ。
笑顔で別れて、また笑顔で会うはずだった。
宗一郎は‘あのとき’がいつなのかを聞き返したりしなかった。あの一瞬は少しも色あせることなく、互いに今も鮮明に思い返せる。

「ただの挨拶だよ」

ごく普通に、平凡な日常の会話のように彼は言った。まるで本当にただの挨拶だったというように、別れ際の抱擁などたいしたことではないというように。

「嘘よ。そんなのじゃない。あんな風に抱きしめられて、平気でなんかいられない。どうして」

私を抱きしめたの、という里穂の言葉と同時に店員に案内された貴広が室内に入ってきた。

その言葉が貴広にははっきりとは聞こえなかったかもしれない。それでも、宗一郎と二人の時間に、里穂がこんなふうに切ない表情で訴えている姿を見られただけで、これまで二人の間にあったことは、もう十分すぎるほど伝わってしまった。

お別れの挨拶程度のことは、貴広に知られて困るようなことではないと、ずっと里穂は思っていた。
でも、誰にも知られたくないことだったのだと、今、確かに思った。
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