情熱の続き

そのあとすぐに桃子がやって来て、室内の空気はとたんに明るくなる。
とりあえずの生ビールを飲んでから、スパークリング日本酒で二度目の乾杯した。

「何気に二人が結婚してからこのメンバーで集まるのは初なのよね。結婚式しないの?」
「ニースとかモナコとかそのへんに行って挙式と写真だけっていうのも考えてるけど、まだ何も具体的に決まってない。とにかくこの一年は忙しかったから」

桃子の問いに貴広がすらすらと答えた。
里穂は自分たちの話よりも宗一郎の最近のことが聞きたくて、もどかしい気持ちを抱えていた。例えば、大学院に通う予定になっている春からのライフスタイルがどうなるのかとか、桃子に紹介されたという女の子との関係がどうなっているのかとか。そのほうが里穂にとって知りたいことだった。

でも結局そんな話題は出なくて、結局、懐かしい昔話がほとんど、それから貴広が話すロンドンでの生活と最近のニュースなど他愛ない話が半々といったところだろうか。宗一郎は穏やかに笑って余計なことを言わない。いつもそうだ。否定も肯定もしないやさしさは、宗のすばらしいところだ。でも、きちんと言葉で教えて欲しいと、一度きりの熱い抱擁を思い出しながら、里穂は思った。

店は、料理はもちろんその店構えから内装、スタッフの対応すべてが老舗らしいすばらしいところだった。素材一つ一つが上質なものらしく、とてもおいしいのに、学生時代によく集まった気軽な居酒屋とは違うことが、里穂にはなんだか寂しかった。大人になってしまったのだと感じる。年相応の店を選び、明け方まで語り明かすこともなく、時間になったらそれぞれの帰る場所にきちんと帰る。

名残惜しい気持ちを抱えたまま里穂は桃子と宗一郎に手を振って別れて、タクシーの中で貴広と二人になる。無言のままタクシーは夜の東京を走り、短い滞在の間のホームとなるホテルへ無事に送り届けてくれた。

部屋に二人きりになると貴広はすぐに上着を脱いでラクな恰好になった。彼は早く寝たいのか早々に歯磨きをして、眠る準備を始める。会話はこれといってなかった。

里穂は甘辛い牛鍋のつゆとお酒でべたついた喉を潤したくて、窓際のソファに腰かけて、ペットボトルのミネラルウォーターを飲んでいた。東京の夜景は、本当に、宝石箱をひっくり返したみたいにまぶしい。まぶしくて、思わず俯いてしまう。

「里穂、どうした?」

ソファで膝を抱えて足の爪を見るような姿勢の里穂を気になった貴広が、あとは寝るだけ、という状態でやって来て、今日切ったばかりの里穂の髪の毛をなでた。昨日と変わらない仕草だった。宗一郎に会う前にも、そうやって頭を撫でてもらった。同じように頭を撫でられて、髪に触れられたことを思い出して、里穂が言った。

「私に、聞きたいこと、ある?」

自分がどんな顔をしているか、里穂は考えないようにした。できるだけ真顔で聞いたつもりだった。貴広は笑ってすぐに返事をする。

「ないよ。」

その言葉に、里穂は怪訝な顔をする。宗一郎に対する「どうして私を抱きしめたの」という言葉は、おそらく貴広の耳にも届いたはずだった。そうでなくても、切ない顔で宗一郎に何かを訴えていた里穂のことが、気にならないはずがなかった。
貴広はそんな里穂の顔を見て軽く笑って言った。

「里穂が話したいことがあるなら聞くけど」

試している、ような感じではなかった。話を聞いてくれるときの穏やかないつもの顔だった。
そのとき、疑っているのはこちらなのだと里穂は気づかされる。‘貴広が里穂と宗一郎の関係を気にしている’という疑念を抱いているのは、他の誰でもない自分なのだと。
ダウンライトで照らされた薄明るいホテルの室内で見つめあうしかできないでいた。互いに話したいことはありそうなのに話せない。結局、沈黙が答えだった。今、里穂が話したいことは、何もなかった。

「今日は、一日出歩いて疲れたな。もう寝よう。」

数十秒の緩いにらめっこを先に終えたのは貴広だった。ベッドに勢いよく身を横たえると、彼はいつもと変わらない様子で笑った。

「今日、楽しかったわ。ありがとう」

里穂もつられたように軽く笑って言った。貴広が有給を取って日本に行こうと言ってくれなければ、今日この時はなかった。
貴広は横になったまま里穂に顔だけ向けてどういたしましてと言って、彼はそのまま柔らかなブランケットに身を沈めた。

里穂はその様子を見てから、一人バスルームに行って、化粧を落とした。冷たい水が頭を冷やせといわんばかりに肌に痛い。
宗一郎の顔を見て、声を聞いて、直接話がしたいだけだった。あの一年前の3月、どうして自分を抱きしめたのかを聞きたかっただけだった。

…でも、答えを聞いて、どうするつもりだったの?

鏡に映った、まっさらな自分の顔に里穂は問いかける。蛇口をひねる左手の薬指には貴広との誓いの指輪が光っていた。宗に会いたかった気持ちは、貴広を失いたくない気持ちと同じように貴重で尊くて、そして切ないものだった。

里穂は化粧水を顔につけて貴広の眠るベッドにもぐりこむと、その後ろ姿にそっと腕を伸ばして抱き着いた。するといきなり手首をつかまれたので里穂は驚いた。

「起きてたの?」
「疲れたのに寝つけない」

里穂の問いかけに、はっきりとした声で貴広が答えた。少しも眠くなさそうだった。里穂は今、どうしても彼を強く抱きしめなければいけない気がして、背中を向けられたままだったけれど、そのまま体をぴったりと寄せる。大きな背。骨ばった肩のライン。背中に耳をあてても貴広の胸の音は聞こえなかった。

「そういうときってあるわよね」

里穂が言うと貴広は静かに「あるよな」と言って、そのまま手を握ったままでいた。貴広の左手の薬指には、指輪がきちんとあった。シンプルなプラチナの、でも少しデザイン性のあるフランスの一流ブランドのもの。マリッジリングだけは日本で一緒に買おうと、入籍してすぐに銀座に二人で買いに行った。貴広がこの指輪を外しているのを、里穂は見たことがない。

「里穂が来たら眠くなった。」

背中を向けたまま貴広が一つあくびをして言った。
里穂は少しだけ笑っておやすみを言い、貴広もおやすみを言う。そして穏やかな呼吸を重ねながら二人でゆっくりと、ゆっくりと眠りに落ちた。

そのとき、背中を抱いて眠る夜は、二人なのに一人の夜よりも寂しいのだと、里穂は初めて知った。
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