カタストロフィ


どれも過ぎた事だ。
恨みがましく思ったところで何も変わりはしない。
別に、メアリーが被害に遭えば良かったと思っているわけでもない。
ただ、自分だけがこのような陰惨な経験をしているのがやるせなかった。

「ダニエル、デザートが終わったら一曲披露してくれるのだろう?もともと並外れて上手かったが最近は腕に磨きがかかり、自分に教えられる事はもう無いとフレッチャー先生が仰っていたぞ」

にわかに空気が澱んだのを感じたのか、サラリと伯爵が違う話題を滑り込ませた。
夫人は見事にそれに引っ張られ、湿っぽくなった空気はガラリと変わる。

「あなた、私そんなお話聞いていなくってよ!そういう事なら早く食べ終えなくちゃ。メアリーも急いで!お兄様の演奏、聴きたいでしょう?」

モタモタとデザートを食べるメアリーの皿が空になるまで少し時間がかかると見て、ダニエルは先に応接間(サロン)に向かうことにした。
応接間(サロン)の中央に配置されたグランドピアノの前にはユーニスが座り、最後の確認をしている。

「ダニエル様」

人目があるためよそよそしい呼び方ではあるが、ユーニスの声のトーンは明るい。

「先生、急に伴奏をお願いすることになってしまい申し訳ないです。引き受けてくださり、ありがとうございます」

「とんでもない。ただ、ダニエル様のレベルに私のピアノが釣り合うか、少し心配です」

これから演奏するのは、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタの9番である。

従来のヴァイオリンソナタとは違い、ピアノ伴奏にもヴァイオリンと同等の技量を要求するこの曲は、奏者の腕が等しくなければ演奏が成り立たない難曲であった。
ダニエルほどの音楽センスはなくとも人並み以上には弾けると自信があったユーニスだが、ここ最近目覚ましい成長を遂げる彼の足を引っ張らない為、ピアニストの代役に決まった3日前からは必死で練習している。
公式の場でも、学校の試験でもないのに、緊張がおさまらず、先ほどから音が上滑りし続けているユーニスを見かねて、ダニエルはそっと耳打ちした。

「先生」

「なんでしょう」

「どれだけ緊張しても失敗しても構いませんので、僕が出す音にだけ集中してください」

(我ながら生意気なことを言っているな)

デザートがようやく終わったらしく、応接間(サロン)の扉が開くと、両親と兄妹が入ってきた。
適当に座った面々を待たせ、じっくりチューニングをする。
そして準備が整ったところで、ダニエルはユーニスの手を引き一礼した。

< 35 / 106 >

この作品をシェア

pagetop