シンガポール・スリング

優美のおかげで予定通り帰って来れないことを知った未希子はある程度心構えができていた。しかし、次の週はおろか、そのまた次の週も現れる気配がなく、優美も訪れなくなって初めて、もしかして自分は何か大きな勘違いをしているのではないかと思うようになった。

「未希子ちゃん、ちゃんと食べてる?」

「食べてますよ。賄いだって全部食べてるじゃないですか」

「まぁそうだけどさ・・・未希子ちゃん、目の下に隈なんか作ってるし、やせた気がするんだよね」

「気のせいですよ。・・・山瀬さん。変なことを聞きますけど私、シンガポールに行きましたよね?」

「何急に?4日間行ってきたじゃない。お土産のお菓子ももらったし、映画のワンシーンみ・・・」

その言葉が終わる前に、山瀬の妻、文香が山瀬に目配せして黙らせた。

「・・・そうですよね。あれは現実にあったことですよね・・・」

「未希子ちゃん・・・」

「なんか、日が経つにつれて夢だったんじゃないかって思ってしまって」

「あの老婦人、2週間ぐらい来てないもんね」

「シンガポールに行かれると言っていたので。でもいつ帰って来るのか聞き忘れちゃって」

「何もわからないまま待つのってつらいわよね」

確かにレンとは付き合ってもいないと言われればそれまでの話だが、電話番号もLINEも言わなかったし、教えてもらってもいない。そう考えると実はあの出来事は夢だったのではと思ったり、もっと悪い方向に考えてただその場限りのことだったのではないかと思ってしまう。考えたくないが、普通に考えたらやっぱりおかしい。

もし本当に大切だと思っているなら連絡を取ろうとするのではないだろうか。

そう思ってもみたが、自分だって何もしていない、というよりできないのだ。自分からレンを探すことなんてできるだろうか。
どうやって?
自分から会いたいなんて言ってもいいのだろうか。付き合ってもいないのに?毎日窓の外を見ながら、いつ帰って来るかわからないまま、ただ待っていることに息苦しさを感じ、何かせずにはいられなかった。

「未希子ちゃん。もうすぐ時間だし、今日はちょっと早めに上がっていいよ」

山瀬はドアにかけてある札をCLOSEに変えながら、声をかけてくれた。落ち込んでいる私に気を使っているのだろう。悪いなと思いながらも未希子は素直に応じて、エプロンをカウンター内のかごに入れると、自分のカバンを取り出し、家路と向かった。

カフェの近くにある未希子のアパートまでは歩いて15分ほどだ。1DKのこの小さなアパートが、今の未希子をより孤独にさせる場所でもあった。
家に着くとすぐにラップトップを開いて、立ち上がるのを待った。
優美さんが話していたレンの会社のことがもしかしたらニュースになっているかもしれないと、この2週間経済面をくまなく調べてみたが、それらしきニュースは全く見当たらなかった。

それでも未希子は毎日チェックを欠かさなかった。
彼の名前をインターネット上で見つけられたら、レンの存在が少しでも感じられたら、あの出来事が本当だったと自分に言い聞かせられる。
未希子はトップニュースに目を通し、その後経済欄をチェックした。
その時、突然飛び込んで来たタイトルに未希子は一瞬息を止めた。
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