孤高の脳外科医は初恋妻をこの手に堕とす~契約離婚するはずが、容赦なく愛されました~
名指しで呼びかけようにも、名前がわからない。
それでも、廊下には他に誰もいなかったから、彼の方も自分が呼び止められているとわかってくれたようだ。
リノリウムの床にスリッポンタイプの靴のゴム底をキュッと鳴らし、両足を揃えて立ち止まる。


私は、こちらに背中を向けたままの彼に駆け寄った。
身長百五十九センチの私より優に二十センチは高く、スラッとスレンダーな彼を見上げる。


「あの……先生。昨夜の」


ごくりと唾を飲み、カラカラに渇いた喉を潤してから、思い切って訊ねた。
彼は肯定も否定もせずに無言でいたけれど、肩越しに顔だけ振り向かせた。


さっきまで、すっきりとキャップに包まれていた黒髪は乱れ、無造作に散っている。
分厚いレンズの大きな眼鏡をかけていて、顔立ちはわからないけど……先ほどまでオペ室にいた、スマートで知的な医師とは完全に別人。
――昨夜の人だ。


「や、やっぱり……」


私は、がっくりとこうべを垂れた。


「なにか用? 茅萱さん」


顔に似合わない涼しい声で問われて、


「……あれ? なんで、名前」


思わず質問を返しそうになって、私は口を噤んだ。
彼の方は急遽交替だったろうけど、私はオペの予定表に器械出し看護師として名前が記載されている。
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