年下カレが眼鏡を外す時
「あの、一度デートでもしてみませんか?」
「……はい?」

 目を大きく丸めて、倉木先生は私を見た。コイツは一体何を言っているんだろうって思っているに違いない。

「ほら、一回デートしたら考え方も変わるかもしれないですし! 別に私と付き合って欲しいって言っている訳じゃなくて、試しってことで」

 言い訳がましい私の考えに、倉木先生は少し悩んでから、頷いてくれた。私の心はぱっと春が来たみたいに明るくなる。それがきっと表情に出ていたに違いない、カレもほんの少し笑っていた。

 2週間後の週末なら空いていると話していたので、その日に会うことにした。連絡先を交換し、カフェを出てそれぞれ帰ろうとしたとき、おじいちゃんがやってきた。おじいちゃんも倉木先生に軽く挨拶をしてから、私たちは家路につく。

「将棋のプロってそんなに収入が不安定なの?」

 私は気になっていた事をおじいちゃんに問う。

「人によるんじゃないか? どうした、急に」
「倉木先生がそんな事を言ってたから」
「彼くらいならそんなに不安定ってことはないと思うがな……B級1組に在籍している棋士だぞ? 上位10%には入る実力者だ」
「そうなの?」

 何だか頼りなさげな佇まいだったのに。私は振り返る、そこに倉木先生はいなかったけれど……私は、彼自身の事をもう少し聞いてきたらよかったと後悔していた。

***

 数日後、仕事を終えて一人暮らしの自宅に帰ったとき、おじいちゃんからメッセージが来ていることに気づいた。

「えーっと、『倉木先生対局中! 見たら?』って。見れるの?」

 どうやらネットで配信しているらしい。私はおじいちゃんのメッセージにあったリンク先をタップして、その配信とやらを見る。

「……全然わかんない」

 しかし、私はこの前駒の動かし方を知ったド素人。今画面の中で行われている将棋の事なんてさっぱりわからなかった。解説の人が話している内容もちんぷんかんぷんで、全く理解できない。画面の上にあるAIの評価値でどっちが有利なのかがわかったからいいけれど、それがなかったら挫折しているところだった。評価値は、今倉木先生の方が優勢と言ったところらしい。しかし、私が晩ご飯を食べている間も、シャワーを浴びている間も、その局面はあまり動くことはなかった。スローペースな対局に飽き始めて来たとき――倉木先生のある行動によって、私は画面から目を離せなくなってしまっていた。
 
 倉木先生があの銀縁の眼鏡を外して、強く駒を打った。解説の人たちも「やはりここでしたね」なんて勝手に納得しているけれど、私の意識は将棋の局面から離れている。

「え、かっこいい」

 鋭い視線で盤面を見つめる倉木先生の姿が、私にはもはや神々しく見えた。真剣に打ち込んでいるその様子がかっこよくて、私の胸はドキドキと高鳴り始める。そして、カレがこれにどれだけ人生をかけているのかが十分と言えるほど伝わってきた。倉木先生はまさに今、命を削りだしてまで次の手を考えている。サムライのような生きざまにぞくぞくとした感動を覚え、私は深夜にまで及んだ対局をずっと見つめていた。次の日、先輩にからかわれるくらい、目の下には真っ青な隈が出来上がっていた。

***

 倉木先生が約束した日がやって来た。朝何度も鏡の前に立って確認したけれど、服装が気になって仕方ない。淡いイエローのワンピースに皺がないかとか、ちゃんとメイクと合っているかどうかとか。私は何度も手鏡を取り出しては前髪もチェックする。それが二桁になりそうになったとき、倉木先生はやって来た。

「渡瀬さん、申し訳ございません。遅くなりました」
「い、いいえ! 私も今来たところですから」

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