◇水嶺のフィラメント◇
 分かっていても愛する人との別離とは常に辛いものだ。

 特に今回は会えない日々がどれくらい続くのか、全く予想もつかなかった。

 だからこそ、この瞬間一秒一秒が、このぬくもりが、この声が、どれほど愛おしいか知れなかった。

 もう一度レインは長い長い抱擁を捧げて、

「どうか無事の帰国を、愛しいアン。万が一にも危険に(さら)された時には、「あの呪文」を(ささや)くんだよ。覚えているね?」

 そう言ってアンの耳を優しく愛撫した。

「あ、の……?」

 ──「あの呪文」とは。

 懐かしいフレーズだった。その呪文の文言が、ではない。「あの呪文」という言葉自体が、だ。

 以前は会う度に告げられるレインの別れの挨拶だった──「アン、またね。「あの呪文」を忘れずにね」

 けれどいつ頃からかその挨拶は失われ、アンはすっかり「あの呪文」のことは忘れていた。内容を聞かされたのも、まだ小さい子供の時分だ。それもレインは一日に一文字しか教えてくれなかった。

 会う度に一字ずつ、それを繋げれば「あの呪文」になる。でも言葉にしてはいけないと、必ず念を押されたものだった。

 呪文が発動してしまうからと。発動したら恐ろしいことが起こるからと。

 その時のレインの表情がとても真剣で、また(おそ)ろしくて。決して声には出さなかった。いや、出せなかったのだ。

 なのに今になってそんな呪文を……? もう随分昔のことだが、記憶を辿(たど)れば思い出されるだろうか?


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