◇水嶺のフィラメント◇
「姫さま、小麦の焼ける良い匂いがしてまいりましたわ! まもなく今朝一番のパンが焼き上がるのかと。戴いて参りますので、しばしお待ちください」

 フォルテは嘆息(たんそく)を洩らした姫を元気づけるように、いつになく声を張った。

「あ……では店主にこれを」

 戸口へ向かう背に一言、フォルテを引き止めるアンシェルヌ。

 腰元に(くく)った小さな革袋から、五枚の金貨を取り出してみせる。

「そ、それは幾らなんでも多すぎます、姫さま!」

 (かたわら)へ戻ったフォルテは、その高額な謝礼に目を見開いてしまった。

「四人分もの食事と寝所(しんじょ)を提供いただいている上に、彼ら自身の国から(かくま)っていただいているのよ? 見つかったら反逆罪……死刑すら免れないでしょうに」

「ですが……」

 既に四日分に見合う対価は支払っている。フォルテはそう言いたそうだった。

「そろそろリムナトの探索もこの店に及ぶでしょう。その前にどうにかナフィルへ戻らないと」

 此度(こたび)は王宮へ立ち寄る予定もなかったため、リムナトの経由にはほぼお忍びの形をとっていた。

 されど彼女たちの入国が中枢に伝わっているのは明らかだ。

 なのに出国した形跡がないとなれば、潜伏先は国内の何処(いずこ)か、ということになる。

 やがて近衛兵(このえへい)による()探しが開始されるのは必至だった。

 いや、もはや水面下では行われているのやも知れぬ。

 そしてその探索者は兵士だけでなく、この地の全国民にまで波及しているかも知れなかった。


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