書道家が私の字に惚れました
それから10日後の午後6時。
仕事を定時で終わらせ、薫先生が予約してくれたレストランに向かう途中、スマートフォンに連絡が入った。
【個展の準備が終わらない。スタッフを残して帰れない。申し訳ないんだが、ここまで来てくれないか?】
添付されている住所は大型商業施設の催事場。
今いる場所からさほど遠くないにしても、個展の準備中だったなんて知らなかった。
忙しい中、無理はして欲しくない。
仕事より恋人との時間を大事にしてほしいと思うタイプではないから。
ただ、時間を割いてくれてでも会おうとしてくれていたことは素直に嬉しいし、尽力してくれているであろうスタッフの方々を残してひとりだけ先に帰るわけにはいかないという薫先生の姿勢には好感が持てた。
【お仕事お疲れ様です。予定を変更して頂いて構いません】
メッセージを送ると直後、電話がかかってきた。
「俺はきみに会いたい。だから来てほしい」
以上、とまでは言わなかったけど、通話はそれで切れてしまった。
それだけで相当忙しいのだと想像がつき、余計に会いにくくなる。
ただ、薫先生の状況と気持ちを知りながらこのまま帰るのは非常識だ。
それになにより「会いたい」というストレートな言葉に胸が一瞬ときめいてしまった。
きっと恋愛経験が乏しいのと、そもそも薫先生のファンであるということが理由なんだろうけど、気持ちに変化が生まれてきた以上、亜由美の助言にもあったように、しっかりと向き合い、見極めたいと思った。
「案外簡単に落ちてしまいそう」
そんな予感を抱きながら薫先生がいるであろう場所に足を向けた。