書道家が私の字に惚れました

「ありがとう~!この気持ち、わかってくれて」

小林さんは大袈裟に私に泣きつき、そして両肩に手を乗せ、真面目な顔して言った。

「薫のこと落としたいなら薫の父親の書道教室に通うことをお勧めするわ。あそこなら薫好みの字の書き方を教えてくれるはずだから」
「そんなこと不要だ」

聞き覚えのある声に小林さんの背後に目を向けると、そこには和服姿の薫先生が腕を組んで立っていた。

10日ぶりに見る実物に胸がドキッと反応した。

自分が思っている以上に意識しているのだと感じ、気恥ずかしくて視線を下げると、小林さんの足が薫先生の方に向いたのが見えた。

「薫」

小林さんの薫先生を呼ぶ声に顔を上げると、小林さんが質問を投げかけた。

「この子の字、見たの?」
「あぁ」

薫先生は短く答えると小林さんを避けてこちらへ歩み寄り、私の肩を抱いた。

いきなり触れられて、距離を一気に縮められてドクンと一際大きく胸の鼓動が打ちつけられた。

(この人は私の字が好きなだけ。私の字が好きなだけ。字を好きになる変わり者)

そう頭の中で言い聞かせて冷静さを保とうとするけど、鼓動は意志とは反対にどんどん加速していく。

フワリと鼻筋に触れるお香のような匂いも相まって、目眩さえしそうになる。

でもそんな状態だなんて薫先生が気が付くはずもなく、普通に会話は進む。

「彼女の字は最高の字だ。もう彼女以外は考えられない。俺にとって最上の女性なんだ。だから簡単に触れるな。触れていいのは俺だけなのだからな」
「え~!なに、そんなに字、上手いの?ちょっとあなた、なにか書いてみてよ」
「え?」

突然、言われても今、自分のことでいっぱいいっぱいだし、そもそも書くものがない。

困って薫先生を見上げると、薫先生は私の肩を回していた腕を解き、スマートフォンを取り出して私の受賞作を見せた。

「ん?どれどれ…って、あ…なるほど。これは完敗だわ」

ガクッと肩を落とした小林さんと、満足げに口元を緩めた薫先生。

マンガのようなやり取りが妙におかしくて、笑いが込み上げてきた。

「あら?あなた今、笑った?」
「あ、すみません」

失礼だったかと謝ると、小林さんは首を横に振った。

「あなた、笑顔の方が断然いいわよ。ね?薫」
「あぁ。優しい笑顔は俺の好みだ」

目を見てはっきりと「好み」と言われて少し落ち着いていた鼓動がまた跳ねる。

「大声で手を叩いて笑う女性が苦手なだけでしょう?」

小林さんが指摘すると薫先生は視線を私に据え置いたまま真面目な顔で頷いた。

「彼女は字も微笑み方も完璧なんだ。生徒に向けていた慈愛に満ちた笑顔は忘れられない。今日は会えて本当に嬉しいよ」

ストレートな物言いと、柔らかく微笑んだ薫先生を見て目眩がしそうだ。

頭の中も真っ白で返答すらできない。

「それ、私のいないところでやってくれない?」

小林さんが間に入ってくれなければ倒れていたかもしれない。
< 16 / 22 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop