書道家が私の字に惚れました

「きみはやはり笑顔の方がいい。さっきはなんだか思い詰めた表情をしていたな」

薫先生も気が付いていたようだ。

「なにか言いたいことがあるなら遠慮なく言ってくれ」

そう言われて、正直に話そうか迷う。

でも薫先生と小林さんの世界に入っていけなくて嫌な気持ちになっただなんて、子供っぽいし、ヤキモチっぽい。

なにも言えずにいると、薫先生が先に口を開いた。

「俺はきみのことを随分前から知っていた」
「え?」

思わぬ話に頭の中がはてなでいっぱいになる。

「個展に何度か足を運んでくれていただろう?」

その通りだったので頷くと薫先生も頷いた。

「初めてきみを意識したのは芳名帳に書かれた名前だった。この美しい字を書く人物はどんな人だろう。会ってみたい。強く惹かれた。名前で検索まで掛けたりしてね。ストーカーみたいだろ」

苦笑いを浮かべた薫先生に対してまた感じた通りに頷くと、肩をすくめて見せてから話を続けた。

「それから個展を開く度、気にして会場にも姿を出すようにしていたんだ。だが、なかなかきみに会えなかった。そんな時、親父から産休代理の先生の名前を聞かされたんだ。同姓同名の可能性もあったが、もし本人だったらと思ったら居ても立っても居られなくてね。すぐさま会いに行った」
「そうだったんですか」

そこからは私の記憶にある通り、受賞作の作者本人かを確認されて、付き合ってくれと言われて。

「初対面だけど初対面じゃなかったんですね」
「それはきみも同じだ。俺のことを知っていたけど会うのは初めてだ」

そうだろ?と言わんばかりの薫先生に頷く。

「だが会ってみて変な男だと思っただろうな」
「そうですね」

笑いながら答えると薫先生は眉根を寄せて困ったように微笑んだ。

「事を急ぎ過ぎたと反省したよ。でもきみに会えて嬉しかったんだ。想像していたよりも素敵な女性だった分、余計にね」

そんな風に見てもらえていたなんて思いもしなかった。

胸に温かいものがいっぱいに広がる。

「嬉しい。嬉しいです。とても。でも」

引っかかることがある。

「私では薫先生のお役に立てません。それが今日とてもよくわかりました」

チクリと痛む胸の内を隠し、伝えると薫先生は考える素振りを見せたあと、なんてことないように言った。

「俺は自分の役に立つからって理由で恋人を選んだりしない。そもそも好きだからこそ付き合いたいと思うのが普通だろう?好きだからこそ一緒にいたいと思うものだし、好きだからこそ顔を見たい、触れたいと思う。今の俺のように」

そう言うなり、薫先生は私の頬に手を伸ばした。
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