書道家が私の字に惚れました

「へぇ。もう手懐けているのか」

薫先生の低いトーンの呟きに胸がドキッとした。

もしかしたら薫先生が今日ここに来た理由は指導者としての私を評価しに来たのかもしれないと思ったから。

でも、せっかくいらしたのなら私のことよりも。

「ご教示願えませんか?」

書道に対しての並外れた熱量と実力を持つ有名書道家に生徒たちは指導を受けたいに違いない。

欲を言えば私だって。

それに親御さんも『薫先生に教えてもらった』と子供から報告を受ければ満足だろう。

だから思い切って声を掛けてみたのに、薫先生は首を横に振る。

「今日はそのつもりで来ていないから」
「少しだけでいいので」

念を押してみたものの。

「同じことは二度言わない主義だ」

薫先生はこちらを一瞥してから短くそう言うと、私の席の隣に腰を下ろした。

『息子の薫は真面目で頑固で一度決めたことは曲げない。融通が利かない性格なんだ』

なるほど、薫先生の父親である豊先生が事前におっしゃっていた通りだ。

余計なことを言えばこちらの神経が擦り切れてしまいそう。

それなら、と気持ちを切り替え、薫先生のことは気にせず、いつも通りに生徒と書に向き合うことにした。

でも薫先生の存在感と鋭い視線は簡単に消せるようなものではなくて、見られている、評価されていると思えば思うほど普段通りにはいかない。

それは生徒にも伝わるようで、添削指導していても、生徒の視線は隣に座る薫先生の方に向いてしまう。

困ったな、と頭を掻くと、薫先生が立ち上がるのが視界の端に入った。

「どうかなさいましたか?」

様子を伺うようにして聞くと薫先生は私を見下ろしながら答えた。

「母屋の方にいる。終わったら声をかけてくれ」
「あ…はい」

私への評価が下される。

そのことを理解した上で固く返事をすると薫先生は続いて生徒に言葉をかけた。
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