大いなる鷹
  山下順子はホテルの部屋のドアをゆっくり開いた。外も暗闇、内部も黒い闇の中だった。順子の細長い指が壁を這った。電灯のスイッチが押され、安ホテルのしけた内装が露わになった。汚らわしい男女の営みで不潔らしい赤い長椅子に幾らかは清潔な白いレースが被さっている。他に家具と云って、ダブルベッドとテレビと小さな冷蔵庫位しかない。順子は心底疲れた様子で長椅子に身体全体を預けた。長い薄茶の髪がだらりと椅子の背に垂れた。彼女は今年二十歳になったばかりの大学生、容姿は先ず美しいと云って過言ではない程度、すらりとした長身で、その点でも淑女と形容出来た。
 順子はカップを出して、簡易な紙製のドリップコーヒーにポットの湯を注いだ。季節は春、しかし未だ温かい飲み物が体和ませる程の冷気は残存している。が、エアコンは付けなかった。
 順子はカップを口元に傾ける。芳醇な味覚が今夜の彼女の軽はずみに反省を強いた。来なければ良かった。彼女は極めて小声で口に出した。相手とはFacebookで知り合ったのみ、相手のアカウントの写真は偽物かもしれないのだ。彼はFacebookで、メッセンジャーの電話を掛けてきた。決してラインのアカウントを教えたりしたのではなかった。画質が極端に粗く、彼の顔は殆ど見えなかった。彼の会話は最初は紳士的だった。しかしお定まりに、徐々に卑劣な会話に変貌したのだ。順子は丁度彼氏と別れたばかりで、酷く孤独を覚えていた。相手の狡猾な口車に、まんまと乗せられてしまった。彼女は深い考えもなく、彼の誘いに応じた。順子は自分でも自分の言動が信じがたかった。
 しかし此処まで来たからには、或る程度覚悟を決めていた。要するに何もない。自分でも短い間楽しめば良いだけだった。
 彼女は唯待った。20分が1時間に想われた。順子はスマホを手にした。メッセンジャーに新しいメールは入ってきていなかった。一体彼は来るのだろうか約束通り。
 刻一刻と冷徹な時間は過ぎていく。手軽な情事を愉しむには、彼女は初心過ぎないだろうか。反省はその一点に集中した。前の彼氏は他人には到底告げられないが、多少変質者的好みを有していた。従って彼女もそちらの方面に関して、幾らか自信を持っていたかもしれない。愚かしいと自分でも思えた。だがもう後戻り出来ない。
 コーヒーカップを持つ手が瞬時止まった。確かにドアの呼び鈴が聞こえた。何を恐れることがあるだろう、此処は大都会ではない。危険ということが有り得るだろうか。隣人は皆親しい友人の筈の狭い田舎町なのだ。
 彼女は席を立つと、其の儘玄関に向かった。良く知らない相手ながら精一杯歓待するつもりだった。
 ドアを徐に開けると、サングラスを掛けた黒ずくめの衣服の男が佇んでいた。男は和やかに微笑んだ。順子は少し安堵して、彼を迎え入れた。彼はそっと後ろ手にドアの鍵を掛けた。
「コーヒー飲みます?」
彼は無言で頷いた。長椅子に二人は並んで腰を下ろした。会話は単調極まりないものだった。男の声は圧し殺した無表情、順子は男の方も初心で、緊張しているものと解釈した。
「お仕事お忙しいんですか」
彼はそれには答えず、コーヒーカップをテーブルに置いた。
「欲しいな」
彼は単刀直入だった。順子は流石に抵抗を感じたものの、そっと男に唇を差し出した。密やかに二人の唇が合わさった。
 男は彼女の背に手を回した。
 彼女も素直に応じた。
 彼は逆の片手を上着の内ポケットに差し入れた。素早く取り出したのは、大型の剃刀だった。男は大きく剃刀を振り上げた。鏡のような剃刀の刃に、恐怖の局地の彼女の双の瞳が、瞬時映った。
 男は力強く、剃刀を振り下ろした。


     2
  亀田浩志は、いづろ電停で電車を降りた。朝の満員電車で、気分は憂鬱だった。此処暫く朝食抜きなので、酷く空腹を覚えていた。横断歩道を足早に渡り、開店前のマルヤガーデンズを横切ると裏道に入った。大黒町の片隅に、廃ビルがあり、其処の三階に亀田の事務所はあった。当然の如くエレベーターはなく、土足の靴底に泥がきしむ木製の階段を上る。亀田探偵事務所の立て看板のあるドアを憮然と開く。内部はファイルや文房具で散らかったデスク一つしかない。亀田はトレンチコートを脱いでハンガーに掛けた。下は黒の半袖Tシャツだった。撥条の壊れた事務椅子にどっかと腰を下ろした。
 殆ど仕事らしい仕事のない毎日ながら、今日は珍しく予約が入っていた。9時に来客の予定で、何事か急ぎの用件らしく、9時前に伺うという話だ。現在時刻は8時45分、ぎりぎりであった。久しぶりの依頼人なので、逃したくはなかったものの、倦怠感はそれに勝っていた。前に盗聴器探知の仕事を請け負ってから、丸ひと月仕事にあぶれていた。近所に良く行方不明の飼い猫を探してくれと頼む客がいるが、そんな些細な職務すら皆無だった。
 亀田は深呼吸した。きしむ階段を上がってくる跫音が聞こえたからだった。臨戦態勢に入った。と云って、何ら取り繕う気はない。常に彼は開けっぴろげだった。今年46歳になる彼は様々な職業を体験後、日本では無資格で自営業を名乗れる探偵業に手を染めていた。
 ドアのノックが聞こえた。
「どうぞ、お入りください」
「じゃ、遠慮なく」
何とも渋い声の持ち主が入り口ドアを開けた。80程の長身で、黒のスーツ姿の50代後半と思しい男が、深刻な表情で入ってきた。
「何とも狭いですが、其処にお掛けください」
依頼人は溜息をついて椅子に腰を下ろした。亀田はデスク上の録音機に手を伸ばす。
「メモを取るのが面倒なので、会話を録音させて頂きたいのですが、宜しいですか」
「構いません」
「私が私立探偵の亀田浩志です。妄田善治様でしたね」
「妄田です」
「御職業は何でしょう?」
「宗教家になります」
「ほう、宗教家、と仰有いますと?」
「宗教法人、末期密教の代表です」
亀田は相手を観察した。
「それはどのような宗教でしょうか」
「わが国が未だ輸入していない、末期密教の日本移入ですな」
「それは失礼ですが、オーム真理教のような」
「全然違います。仏教とヒンズー教を合わしたようなものではない。私は大学は法律科でしたが、高野山大学大学院出身です。単身インドに渡って、向こうの文献を研究してきました」
「本物の高野山の方だとすると、その種の新興宗教を立ち上げることは禁止されてませんか」
「いいえ、私は宗務庁の人間ではないので」
「そうですか」
亀田は依頼人に紙とペンを渡した。
「其方に住所、電話番号をご記入願います」
妄田は黙々と書いた。
「郡元ですか、で、ご依頼は人探しでしたね」
妄田は困惑顔になった。
「その前に、亀田さんについてお聞きしたたい」
亀田は頷いた。
「分かります。私の信用問題でしょう。いつものことで慣れて居ります。さて、或る小説に、探偵業はガス会社の検針のような地味な仕事とありますが、実際はもっと極貧なんですよ。食っていけない程度の貧しさ。この国にライセンスはありませんし、信用を担保するのは困難なのです」
妄田は皮肉な微笑を浮かべた。
「すると推理小説のマニアですかな」
「そうでもないんですが。北欧ミステリーは好きですけれど、米国ハードボイルドは好みではないんです。まあ確かに、警察は人探しは余り熱心ではないので、そちらの方面はこれでも得意分野なのですよ」
「大学は何処かね」
「何処でも良いでしょう。大学は卒業はしましたが、演劇をかじった程度の役立たずです。暑いのが苦手だから建設作業員にもなれない。無資格で自営業が営めるから、この仕事を選んだだけのクズですがね」
「クズか」
「ええ、それを否定はしません。唯、東京で私立探偵養成の講座だけは実際受講はしました」
「成る程、ところで煙草を喫って良いかね」
「どうぞ」
妄田は内ポケットから白のダンヒルを出して火を付けた。一息入れて状況を熟慮する様子を見せた。
「いいだろう。君に頼もう、矢張り」
「有難うございます」
妄田は上着の右ポケットから、写真を二枚取り出した。髪の長い若い女性の写真と、もう一枚は、40歳位のカジュアルな服の男と彼女が二人並んで写っているものだった。男は分厚い眼鏡をかけて、ロンドンブーツを履いている。亀田にはその男は年齢的にその女性には不釣り合いに思われた。
「これが私の娘の麻里亜だ。今年二十歳になる、国際大学の学生。此方は前村誠二という娘の恋人だ。現在のところ、この二人とも行方不明と云わざるを得ない」
亀田は視線を落とし、二枚の写真を凝視した。二人の表情からは病気の兆候や過剰な暗い影は読み取れない。一体何があったのか。
「行方不明になられてから、どれ位経ちます」
「もうそろそろ一ヶ月。その間連絡は一度も無しだ」
「前村の方もですか。何をしている男ですか」
「クロスで楽器売り場を担当している。前村も店の方にひと月姿を見せないそうだ」
「で、二人は駆け落ちでもしたとお考えなのでしょうか」
「それが分からんのだ。警察にも通報したが、未だに何の情報も掴めていない」
妄田は今度は左ポケットから、少し嵩張るものを取り出した。
「それとこれを、何かの参考になればと思って持ってきた。」
「何でしょう」
「前村の作った自主製作CDなんだ。歌の形だが彼の声が収録されている。但し歌詞は英語なのだがね」
真っ黒なジャケットにモノクロの前村の写真。亀田はCDの裏を返して、収録曲のクレジットを読んだ。
「成る程、前村は楽器店店員だけに、自らミュージシャンでもあった訳ですね」
「歌も担当しているが、特に彼はギタリストだった。貴方はロックミュージックには詳しいかな」
「洋楽ですか」
「そうだ、彼はジミーペイジやトニーアイオミのコピーを良く遣っていた」
「このアルバム、タイトルは日本語で、大いなる鷹と云うんですね」
再度CDの表に返して、白抜きのタイトル文字、大いなる鷹と云う言葉を亀田は反芻した。
「此処に前村誠二の住所と携帯番号も書いておこう」
亀田は規定の調査料の説明をした。妄田が一定以上の金持ちに見えるので、多少金額をふっかけた。それに対して彼は大して文句を返さなかった。


3
 フラッシュの閃光が若い女性の血塗れの遺体を刹那鮮明に浮かび上がらせた。山之口町のホテルの1室、手袋を付けた警察の捜査員が慌ただしく指紋等を採取している。掃除機にて髪の毛他を吸引しているさなか、彼らとは距離を置く、古参の安田警部補が部下の新村刑事に話し掛けた。
「全く酷いな。剃刀で全身をメッタ切りだ。今時猟奇殺人など映画の中でも流行らないのに、こんな田舎町でな」
新村刑事は頷いた。
「全くです。犯人は頭のイカレタ奴でしょう。この犯行は本当に惨すぎます」
「プロファイラーが必要だろう。鹿児島大学の心理の専門家に参加要請してみるか」
「外部の者を入れると軋轢が」
「そんなことを云っている場合じゃないだろう。我々だけでは到底手に負えんぞ」
新村刑事は不安げな視線を遺体に向けた。
「しかし、まさかこれは何かの始まりではないでしょうね」
「新村君、また同じような殺人が起きる可能性があると云うんだね」
「安田さんもそう感じられたから、プロファイラーを持ち出されたのでしょう」
「まあ、そうだな。財布の金は其の儘、物盗りの犯行ではない。また強い怨恨としても犯行が残虐過ぎる」
「全く困った事態になりました。何処まで報道管制を?」
「こんな狭い田舎町なのだから、パニックが起きるぞ。報道は慎重にかからないといけない」
「警部補、こんなものが」
安田は係員の一人を手招きした。係員はビニール袋に入った証拠品を手渡した。
「何だ、これは?」
「何かの鳥の羽根のようですね。」
「かなり大きな羽根だな。鴉ではなさそうだが」
「茶色の色とこの大きさからして、鷹か鷲でしょうか」
安田は係員に尋ねた。
「これは何処にあった」
「屍体の足元です」
「何故そんなところに」
「犯人の残した何らかのサインでしょうか?」
「そうかもしれない、こんな狭い部屋に鷹は持ち込めないだろう」
「犯人が実際に大型の猛禽を連れていたとは、考えにくいでしょう。意図的に残したサインですよ矢張り」
「そうだな、これだけ大きいと自動車のモップと云う訳でもあるまいし」
新村刑事が尋ねた。
「ところで犯行時刻は?」
「剖検の結果待ちだが、此処はラブホテルだ。被害者はフロントを通っていない」
「防犯カメラはないのでしょうか」
「成る程在るかもしれんな。フロントに行ってみよう」
安田と新村は犯行現場の部屋を離れて、
狭くて暗い裏階段を降りた。フロントの奥の部屋に入った。
 ホテルの支配人の男が二人を待ち受けていた。60歳程の風采の上がらない男だった。彼は二人に椅子を勧めた。二人は腰を下ろした。
「支配人の湯川と言います。この度はどうも大変な事態になりました」
安田が眼前のデスク上のパソコンに眼を向けた。
「それで防犯カメラはこれで観られますか?」
「ええ、観れます。入り口ドア付近と部屋の内部も」
刑事達は驚いた。
「部屋の内部も!」
「今、映し出します。先程、苦労して映像を探し出しておきました」
ディスプレイに、ホテルの入り口付近が映った。画面上の数字が10 30分を示している。被害者らしい女性がドアを通って行った。続けて部屋の内部も映った。刑事達は息を呑んだ。
 被害者が部屋に入った。何かに怯えているようにも見える。コーヒーカップを出して、一人でコーヒーを飲んだ。
「少し早送りします。」湯川が云った。
彼女がスマホを取った。
「スマホ画面が見えるか」安田が云った。「画面拡大が必要だろう。明らかにSNSを見ている。此処で静止画にしてくれ」
「分かりました」
「どうやらFacebookらしい。このアカウント画面から彼女の身元が割れるかもしれんな。署に戻って拡大してみよう」
「安田さん、メッセンジャーらしいです。このメール相手が犯人なのでしょうか」
「再度映し出してくれ」
ドアの呼び鈴が鳴った。全員が固唾を呑んだ。被害者が何者かを招じ入れた。大きなサングラスで容貌を確認出来ない男が部屋に入った。二人は長椅子の上でキスした。次の瞬間、男が凶器を取り出した。
 防犯カメラは眼を背けたくなる残酷な犯行の一部始終を映し出した。
 見終わって、刑事達は深い溜息をついた。
「これは全く酷い」安田が云った。「返り血の赤色を男の黒服が吸収している。染みにしか見えん。これなら大して怪しまれず逃走が可能だな」
「車を使ったかもしれませんね、駐車場の防犯カメラは?」
「それがですね」湯川が云った。「先程確認しましたら裏口から徒歩で逃げているんです」
出口の画像が映し出された。男は急ぐでもなく、平然と裏口から逃げて行った。
「しかし、支配人」安田が訊いた。「この犯行現場の防犯カメラは誰もモニタリングしてなかったのかね」
湯川は首を振った。
「すみません。見ての通り、一瞬の出来事で私は観ていませんでした。それに第一防犯上の必要性から録画させて頂いていますので、覗き趣味はないんです」
「それは分かります」
「安田さん、余りの犯行に茫然自失でしたが、犯人は冷静に事後処理をしてますね」
「その通りだ。ビデオ後半に映っている範囲だけでも、コーヒーカップをポケットに入れて、ドアノブの指紋を拭き取っている。この犯人は知能犯だな」


       4
亀田は妄田が帰ってから、久し振りに金が少し入ったのと、酷く空腹だったので、近くの24時間営業の牛丼屋に駆け込んだ。金もあることだし、もう少しまともなものを食べたかったが、その時間帯では他に空いている店は希少だった。牛丼を腹に詰め込んで、コンビニでソフトドリンクやウイスキーを買い求めて帰った。まだ昼前なので、酒は止めてコーラを呑んだ。
 妄田の残した二枚の写真を眺めた。そして早速スマホを取って、彼の従兄弟にあたる安田警部補を呼び出した。彼は安田を叔父さんと呼ぶ。安田の方でも亀田を従兄弟ではなく、甥と考えている節がある。同業種間の圧倒的な力関係の所為だろうか。
「ああ、叔父さん、忙しいところすみません。実はちょっと訊きたいことがあるんですが」
「何だ、今本当に忙しいんだ。殺人があって、到底手が離せない」
「殺人と云うと?」
「テレビを見ろよ、全国ニュースになっている。猟奇殺人だ」
「猟奇殺人、それは怖いな。私の要件は大した案件じゃないんです」
「何だ」
「失踪者です。妄田麻里亜、18歳と前村誠二という40歳の男。捜索願いが出ているのは麻里亜の方だけ。今、警察の捜索はどうなっていますか」 
「面倒だな。私はその担当ではない。まあいいだろう。調べて、此方から掛け直す。もうたまりあ、の字は?」
亀田は伝えた。
「20分後に掛け直す。余り面倒はかけるなよ」
電話を切ると、亀田はテレビを付けた。
ニュースの時間ではなかった。彼はdボタンを押した。
 山之口町のホテルで殺人。20歳位の女性が剃刀で切り裂かれた。犯人は身元の分かる所持品を持ち去っている。昨夜11時過ぎのこと……他に有益な情報はなかった。
 亀田は瞑目して、電話の返事を待った。
 スマホが鳴った。
「何も情報はないぞ。捜索継続になっている。私ももしやと思って、殺人の被害者と照会してみたが、幸い身長の特徴が一致しない」
「私もこの被害者じゃないかと、どきりとしたんです。それは良かった。結局私が捜すしかない訳ですね。どうも有難うございました」
 部屋の片隅に置かれた古いCDラジカセを開くと、自主製作と云うCD、大いなる鷹を挿入、スイッチを押して、椅子に戻った。
 エレキギターの歪んだ轟音が鳴り響いた。一曲目、大いなる鷹は前村誠二のオリジナル曲らしく、曲調は情報通り、Zepやサバスをコピーしている者らしかった。勿論レベルはそんな大御所達には遥か及ばない。どちらかと云えば80年代のNWOBHM
の未知のバンドを聴いている気分になった。ワイルドホーシズ、ダイアモンドヘッド辺りを連想させるものの、彼らにも遠く及ばない音楽だった。
 さて、何処から手を付けるかと考えを巡らせた。何の気なしにポケットに手を入れると、先程コンビニの帰りに街頭で貰ったチラシがあった。拡げて見てみると、ライブハウス、スピードキングのライブ告知だった。バンドはゼウスと云うもので、アマチュアバンドらしかった。チラシにセットリストが載っていて、何と愕いたことに、其処に、大いなる鷹とあった。こんな偶然てあるものだなと思い、時間を見ると今夜8時の開演だった。バンドメンバーに関しては其処に記載はない。亀田はライブに行くことに決めた。


 スピードキングは古塔のような円筒形の建物だった。若者ばかりが既に列を成していた。亀田は独りだけ中年男なのが少し気後れした。チケット代を払って中に入った。開演までの暗い空間、かなり狭かった。隣の男の子に尋ねてみた。
「ゼウスというのはどんなバンドだ?」
「断然デスメタルだ。小父さん、耳栓は大丈夫?」
「大丈夫だろう。しかし大いなる鷹と云うのは普通のハードロックだ」
「詳しいんだな。それだけはロックだよ」
「前村誠二と云う男はいるかな」
「そんなメンバーはいない」
 強い照明がステージを照らし出した、開演。亀田はギタリストの見える位置か否か確認した。昼前聴いた曲は歌手も前村だったので、ヴォーカルにも注視した。彼の甲高い声は記憶していた。
 曲が始まった。ブチベチ踏むツーバスドラが迫力がある。ヴォーカルはお粗末なので、ハードコアパンクに聞こえる。確かにメンバーに前村はいない。皆若者ばかりだ。いちいち観客が首を振るのが煩わしかった。
 曲が進行、漸く大いなる鷹が始まった。かなりアレンジが施されて、違う曲のようだ。彼らは何故この曲を演奏するのか。
 かなり忍耐強く待った。最後の曲からアンコール迄演奏は終わった。

 亀田は楽屋を訪れた。バンドのファンだと自称した。
「誰だ、あんた」
「実は私立探偵なんだ。行方不明の前村誠二さんを探している」
「前村さんを」ヴォーカリストが答えた。
「そうだ、彼を知っているね」
「私立探偵ってまじですか。あの人行方不明になっているの」
「それとこの女性に見覚えはあるかね?」
 妄田麻里亜の写真を見せた。
「ああ」ギタリストが答えた。「クロスで何度か見た」
「前村さんと一緒でしたか」
「いや、前村さんを待ってた様子だった」
「前村さんは来たかね」
「いいや、一緒のところは見たことない。いつも彼女、彼を待っていたようだった」
「今の居場所を知らないか」
「いいえ」
「ところで何故前村さんの曲を演奏するのかな」
「本人の許可は貰った。ギターがアイオミっぽくて俺の好みなんだ」
「前村さんの居場所も本当に知らないのだね」
 彼らは首を振った。


        5
漆黒の夕闇が辺りを包んでいた。中央駅の観覧車だけが明るい照明に周囲から浮かび上がっていた。瀬古俊彦は35歳の銀行員で、気の重苦しくなる残業の帰途だった。何故かバスには乗らず、闇を歩いていた。
 全くこの世は地獄だと考えていた。上司は部下を実際辞めさせることしか考えていないように思われた。否もっと酷い。完全に部下の息の根を止めないようなぶる。同僚は他人の足を引っ張ることしか考えていないように見える。平気で自分の失敗を責任転嫁する。この世は弱肉強食なのだ。
 自分もいつまで銀行員を続けられるか自信がなかった。決して本意ではないが他人を欺かなければ自分が遣られる。
 今年35歳になるが結婚する気はなかった。結婚は唯女性とつるんで悪事を為すだけに思われる。所詮疎外されるのだ。
 車のライトがまともに顔に当たり、目を伏せる。彼は表通りを避けて、暗い裏道に入った。
 冷酷になりきろうかと思った。未だ青二才なのだ。上司に対して、同僚に対して酷薄になりきろう。
 不意に前から強い風が吹き荒れた。前髪が靡く。背後に不穏な跫音が聞こえた。
 後方から口を塞がれた。強い腕力、白いゴム手袋を付けている。背後から羽交い締めにされた。
 素早く喉に剃刀を押し当てられた。何者かは静かに剃刀を横に引いた。
 
 
 楽器店兼CDショップ、クロスは亀田の事務所の近所にある。昔は十字屋といって、大きなレコード店だったが、最近は音楽教室を除くとすっかり寂れた印象だ。店内のCDの棚もそれ程多くはない。但し音楽教室としては現在も権勢を誇り、地元ミュージシャンを多数輩出している。
 亀田は店長を呼んで欲しいと店員に頼んだ。店長は留守と云うことで、店長代理という五十格好の男が出て来た。
「吉川と云います。何か御用ですか?」
「私立探偵の亀田と云います」
「私立探偵!」
「この近くに小さな事務所があります」
「確かに昔から、この近くには興信所の類は少なくありませんな。しかし探偵と仰有る方に会ったことはない。誠に申し訳ないが胡散臭いのでね」
「自覚してます。しかし大事な仕事です。これでも」
「で、ご用件は?」
「人を二人探しています。一人は此処の従業員だった前村誠二さん」
「前村ですか、彼はほんの一時期バイトしていただけです」
「現在の居場所をご存じありませんか」
「いいえ、彼は有能な店員ではなかったので、良く知らんのです」
 亀田は麻里亜の写真を提示した。
「もう一人はこの女性、妄田麻里亜」
 吉川は合点がいったと云う風に頷いた。
「この女性なら、警察にも訊かれました。失踪者ですよね」
「会われたことが有りますね」
「有ります。何度か店内で、前村誠二を待っていたようだった」
「二人が一緒にいるところは?」
 吉川は考え込んだ。
「どうだろう、見たことがないような気がします。いつも彼女は前村を待っていたようだった。偶然いつも前村は留守中でした」
「彼女の行き先はご存知ではない?」
「警察にも申し上げました。私が知る筈もありません」
「では前村さんと親しかった店員の方は?」
「分かりました」吉川は傍らの店員を呼んだ。「山本君、ちょっと来てくれたまえ」
 未だ20代と思しい青年が来た。
「何でしょう」
「山本さんですか。前村さんとは親しかった?」
「いいえ、それ程でも。どちらかと云いますと性格はあわなかったですね。彼は云っちゃ悪いですが陰気だったので」
「今、何処にいるか知らないんだね」
「いいえ、彼とは音楽の話しかしていませんよ、確か」
「どんな話を」
「他愛ないものでした。彼は現代のロックを認めていないんです。クラシックロックばかり追いかけていた。オアシス以降ロックは堕落したとか。信じられませんよね」
 亀田は苦笑した。
「それからこうも云っていた。ガンズが活動停止したとき、本当の意味合いで、ロックは死んだ」
「妄田麻里亜さんのことを訊きたい。君は彼らが二人いるところは見たことないかね」
「そうですね、確かに見たことがないような気がします」
「二人は何処でデートしていた?」
 彼は首を振った。
「いいえ、僕は知りません」
 これ以上収穫はないと感じられた。警察も捜査済みだ。亀田は二人に礼を云って、店を出た。

 
 鉛色の曇天から休止なく雨が降り続いていた。梅雨を先取りしたような天候が暫く続く予報だった。亀田は車検切れ直前の中古車に乗って郡元、鹿児島大学近くの妄田宅に向かった。騎射場から高麗町辺りまで、確かに怪しげな教会の類が多いように思った。
 そろそろ車を手放すことも考慮した。経費がかかり過ぎる。しかし車は尾行の必需品だった。タクシーをその際は使うかとも考えた。
 ワイパーがしきりに雨を拭う。目的地のこれもある種の教会に着いた。と云うより修行場なのか。変哲もない貸しビルに過ぎないのだが。
 玄関なブザーを押す。五十格好の和服の女性が出迎えた。
「亀田様ですね。私は妄田の妻の美恵子と申します」
「亀田です。お嬢さんの部屋を見せて頂きたくて参りました」
 後方から妄田が現れた。
「捜索はどうなっていますか」
「未だ何も進展はありません。警察も何も掴んでいないようです。是非お嬢さんの部屋を調べさせてください」
「それは構わない」
 通された一室は良く整頓されている女の子らしい調度の部屋だった。壁にアヴリルラヴィーンのポスターがあった。木製の机の抽出から調べることにした。
 鍵はかかっていなかった。文房具類、ジャニーズ系の写真集、様々な小物。探していたのは日記帳だった。
 前村誠二の別の写真があった。暗澹たる表情、二人の間は険悪なムードもあるのか。そして小さな手帳を発見。開いてみた。
 女性らしい繊細な文字。
  
 私の望みは、私自身になること。
 私の望みは、私をキープすること。
 私の望みは、男性に真実愛されること。
 私の望みは、幸福な結婚。

 詩なのだろうか、特に普通の女性の願望のようでもある。亀田は周囲を窺って、手帳を鞄に入れた。
 更に抽出を漁った。一番下の抽出の奥から薬袋を見つけた。
 精神科 山口病院。中身は白い錠剤。それも慎重に鞄に収めた。手帳を再度取る。

 前村さんは本当に、私を愛してくれているの?

 亀田は立ち上がった。JRの時刻表もさがしたが、見つからなかった。
 それ以上は何も出てこなかった。

「どうでしたかな。何か進展は?」
 妄田が心配そうに尋ねた。
「いいえ、残念ながら」亀田は云った。「ついでだから、宗教施設の方も見せて頂きたいのですが」
「ええ、どうぞ」
 亀田と妄田は部屋を出て、殺風景なながい廊下を通った。壁一面には曼荼羅がかけてあって、無数の佛の画像が錯綜していた。
「此処は所謂店舗つき住宅の一種で、助かります。住居と宗教施設が隣り合わせにある。勿論もっと広いところに移転の予定です。……此方です」
 ドアを開けると、30畳敷き程の部屋だった。一番奥に、普通の浄土真宗の寺院と遜色ない金色の仏壇がある。
「此処で読経や儀式を行います」
「此処で即身成仏を祷るのですか」
「そうです。その点真言宗と変わりませんな」
「密教というと、性を貪り尽くして、その結果虚無を悟る、と聞いていますが」
 妄田は微笑した。
「案外詳しいですな。儀式を第一とします。そんなに怪しげなものではありません 」
「呪法なんですか?」
「その通りです」
 二人は儀式場を出た。其処の奥に幾つか部屋があった。亀田はそれに眼を止めた。
「あれですか、何でもありません」
 亀田は妄田の硬い表情を見逃さない。
「何か隠されてますね。教えて頂けませんか」
「そうですな。まあ、良いでしょう……あれは教団員の部屋です」
「と仰有ると、教団員が此処で共同生活を営んでいる」
 妄田は頷いた。
「恐らく、全財産を捨てて教団に入信してくる」
 妄田は無言で頷いた。
「それではオーム真理教と大差ないですね」
「信じて頂きたい。我々はテロリスト集団ではありません、決して」
「申し訳ありません。余り強い口調で詰め寄った。宗教の自由は認めます」
 亀田は頭を下げた。
「全力を傾けて、お嬢さんを探します」


        6
 刑事達は車座になり深刻な面持ちで、ブレインストーミングを行っていた。鹿児島大学の心理学教授も非公式に参与していた。テーブル上は、血塗れの殺人現場写真等が散乱している。
 安田警部は事件当初の見解を纏めた。
「我々は最初、若い女性ばかりを標的にした変質者の犯行と考えた。ジャックザリッパーばりの歪んだ事件と見た」
「しかしそれは間違いでした」新村刑事は云った。「第二の被害者は男性の銀行員だった」
「歪んだ性の解放を目的としたセクシャルな犯行ではなかったということですな」教授が云った。
「そう、男が殺されたことは私には意外でした」安田が続けた。「我々は方向転換を迫られた。剃刀を凶器に使った猟奇殺人事件であることに変わりありませんが、動機が性にないので、他の動機を探らなければならなくなりました」
「私が思いますに」と新村刑事「無差別殺人だけでなく、普通の動機のある殺人の線も捨ててはいけない」
「被害者二人の関係性もあらわなければならない」下山という刑事が云った。「既に被害者の身元は割れてますし。山下順子、大学生。瀬古俊彦、銀行員。二人に接点はあるのか」
「現場に残された鷹の羽根の意味も探らなくてはならない」教授が云った。
「…失礼致します」制服巡査が部屋に入ってきた。「安田警部補ちょっと」
 安田は振り返った。
「何だ、見ての通り会議中だが」
「赤松という女性が、是非警部補にと」
 安田は首を捻る。
「赤松、はて誰かな?」
「以前置き引きの件で、警部補に世話になったとかで」
「ああ、あの御老人。仕方ないな。申し訳ないが、席を外すよ」
 
 安田は部屋を出て、別室に移った。70歳過ぎの女性が彼を待ち侘びていた。安田はやれやれと思いながら対面に腰を下ろした。
「やあ、赤松さん、久しぶり、今日は何でしょう」
「安田さん、お久しぶり、実は私持ち家のアパートの間借り人が居なくなったんです」
「と云いますと、失踪者ですか」
「そうです、アパートの家賃を滞納したまま何処かに失踪してしまった。もうひと月になります」
「男の名前、職業は?」
「前村誠二、楽器店に勤めていると云ってました」
 安田はメモを取った。
「男の特徴は?」
「分厚い眼鏡にいつも底の高いブーツを履いています」
「ロンドンブーツですかな。年齢は?」
「40歳、兎に角ミュージシャン気取りでね、いつも部屋でエレキギターを弾くんですよ。全く近所迷惑と云ったらありゃしない。ギターも下手くそでね」
 安田はメモを整理した。
「誰か前村誠二を尋ねてくる人はいましたか」
「そうですね、恋人という女性が」
「女性の名前は分かりますか」
 赤松は思い出そうと努力した。
「そう、妄田麻里亜でした」
 安田はペンを止めた。
「妄田麻里亜、何処かで聞いた名だ」安田は思い出した。「その女性も失踪しています。同名の別人でなければ」
「じゃ、二人は駆け落ちでもしたんですか」
「その可能性はあります。前村誠二の身長は?」
「70ない位でしょうか」

 赤松が帰ると、安田警部補は紙カップのコーヒーを飲んだ。
 考えを纏めるようにため息をつくと、スマホを手に持った。
「亀田、そちらの調査状況について訊いて構わないか?」
 亀田は快く、電話口で応じた。
「先日の妄田麻里亜の件ですか。構いませんよ。警察なら」
「麻里亜の恋人は前村誠二か?」
「そうです。私はその男も探してます」
「彼のアパートの家主から、捜索願いが出た」
「警察も捜してくださる訳か、有り難い。しかし警察は何をなさってるんです。酷くスローモーに」
「莫迦にするな。我々も動いている。麻里亜の部屋から指紋を取ってきて、身元不明の遺体と照合したりだな」
「ノロイですよ。麻里亜は精神科に通院している。その線はどうですか?」
「それについてはこう聞いている。精神科医が守秘義務を盾に全く情報提供を拒否している」
「ありがちですね。ところで猟奇殺人事件はどうなりました」
「 それが頭痛の種だ。今も会議中だった。全く五里霧中なんだ」
「そうですか、では何か分かったら情報提供ください」
「其方もな、それでは」
 安田は携帯を切った。再度深くため息をついた。無言で会議室に戻った。

 魑魅魍魎に追いかけられていた。必死で駆けて逃げる。それでも執拗に追いかけてくる。頭の隅で阿鼻叫喚が鳴り響く。
 夢の世界が破られて現実に戻った。
 鳴っていたのは携帯の着信音だった。
 安田警部補はベッドからサイドテーブルに手を伸ばした。スマホを掴んだ。
「安田だ」
「警部補、お休みのところ申し訳ないです。新村です」
 時計を見た。夜中の三時前だった。
「また殺人です。恐らく例の鷹でしょう」
「場所は?」
「谷山のスーパー、サンキューの裏、路上」
「直ぐ行く」
 携帯を切ると服を着替えた。完全に眠気は吹き飛んでいた。
 夜闇にプリウスを飛ばした。犯行の速い回転と捜査の鈍重さのギャップが悔やまれた。この世は地獄かもしれんなと考えていた。季節外れに冴えた冷気が戻ってきていた。
 車のスピードを落とした。前方に非常線が張られている。車を路肩に止めた。
「今度はどんな被害者だ?」
「今回も男性です」新村刑事が云った。
 安田は手袋を付けながら現場に向かった。
 ひと気のない路上に、男が仰向けに倒れていた。顔や喉に鮮血が見える。剃刀の傷跡に違いない。
「足元にあるか?」
「あります」
 踵の高いロンドンブーツの傍らに、鷹の羽根が落ちていた。
「奴の犯行に間違いないな」
「そのようです」
「発見者は誰かね」
「飲み会帰りのサラリーマン。車の中から見つけたそうです」
「後で話を聞こう」
「ええ」
「しかし…」安田は再度遺体を凝視し直した。「身長はどれぐらいに見える?」
「70足らず、いえ、ロンドンブーツを履いていますから、もっと低いかもしれません」
「そのようだな。眼鏡はあるか?」
「いいえ、見当たりません」
「犯人が持ち去ったかな」
 新村刑事はギクリとして見返した。
「何故眼鏡を掛けていたと思うのですか」
「いや、ちょっと心当たりがあって」
 安田は少し考えた後、スマホを取り出した。
「こんな時刻に起こすのは可哀想だろうか」
「一体誰のことですか」
 安田は答えない。
「御老人の眠りは浅いだろう。私の勘が外れていたら困るが」
 安田警部補は向き直った。
「新村君、すまないが新栄町まで行ってくれないか。赤松という女性を連れてきてくれ。住所はこの手帳に書いてある」
「行ってきます」
「それと、前村誠二という男のアパートに行って、グラスとかヘアブラシ、指紋の付いているものを持ってきてほしい」
「分かりました」


 赤松女史は眠ってはいなかった。叩き起こされたのではなかった。警察署の片隅の部屋で、幾らか興奮して腰を下ろしていた。 
「こんな夜中に申し訳ないです」安田が云
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