ある日、マンガ家が落ちていて
 最後の方で、つい涙声になってしまった。異動になったことは弟の望にも言えていなかった。異動になって三週間。先輩の井上は丁寧に仕事を教えてくれた。そのことには感謝している。でも、自分がお客様に商品を勧められる、という自信は、いくら仕事を教わっても湧いてこない。
「それで…今日、初めてセレブのマダムの御宅に一人で行って、商品をお勧めしてきたんですが、まったく気に入ってもらえなくて…切り札にとっておいたワンピースも、ダメでした。それで、今日、公園でへこんでいたところで、笹岡先生に出会ったわけです」
「大変だったんですね…仕事がうまくいかないって辛いですよね」
 そう笹岡が相槌を打ってくれてから、はっとした。な、何を大漫画家先生に、赤裸々に語ってしまったんだろう!!こんな話、聞かされても困るはず!あゆみは慌てた。
「で、でも、こうも思ってたんですよ。帰ってビール飲んで、『シュークリーム・ポップス』読もうって。ルナちゃんの頑張ってるとこ読んで、また頑張ろうって思えばいいって。私、あのライブの直前に水をぶっかけられて、それでもステージに走って行く、あのシーンが大好きで」
「大杉さんは」
 笹岡が、改まった声を出した。
「すごく、美味しい料理が作れるんですね。どれも、本当に美味しかった」
 卓を見ると、それぞれの料理の半分、つまり笹岡の分を綺麗に平らげてくれていた。笹岡の言葉にお世辞は入っていないようだ。
「お腹がすいていて、寒くて、でも仕方ないから野宿しようと思ってたのに、大杉さんは僕にあったかい部屋と、こんな美味しいご飯を用意してくれた。感謝してもしきれません」
 笹岡は深々と座ったまま頭を下げた。
「ちょ、ちょっとやめてください。普通の手料理を作っただけですよ。そんな感謝だなんて」
最初から、コミックスにサインを書いてもらうのが狙いだった。ファン心理からやった事なので、御礼を言われると居心地が悪い。
「こちらこそ、つい笹岡さんに私の愚痴を聞かせてしまってごめんなさい。そんなつもりじゃなかったのに…」
 この点は、あゆみにも不思議だった。あゆみは人を捕まえて愚痴を言うタイプじゃない。それなのに、何故かつらつらと笹岡には語ってしまった。
 笹岡は人の心をほぐすような何かを持っているのかもしれない。やはり、大人気漫画家は、一般人とは違うのかも。
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