ある日、マンガ家が落ちていて
「大杉さん。食事が終わったら、ちょっと出かけませんか」
「え?」
 唐突な笹岡の誘いにたじろぐ。しかし、時計を見たらまだ19時だった。確かにこのまま炬燵トークを繰り返すのも、笹岡にはつまらないかもしれない。
 あ!ひょっとして、こんな狭い部屋じゃなくて、しっぽりと落ち着いたバーとかでお酒が飲みたいとか?笹岡先生はネカフェやホテルには行けないけど、バーは大丈夫なのかもしれない。
「わ、わかりました。食べちゃいますね」
 あゆみは箸を進め、食事を終えた。バーに行くなら着替えた方がいいかも、と思った。
「あの、笹岡さん、私、この格好でも大丈夫ですか?」 
 今日のあゆみの格好は、グレーのパンツスーツだ。外から帰っても笹岡をもてなすことに精一杯で、部屋着に着替えていなかった。
「うん。大丈夫ですよ。タクシー呼んでもらえますか?」
 あゆみはジャケットの上にコートを羽織り、笹岡はダウンジャケットを着た。三月でもまだ寒い。
 ほどなくしてやってきたタクシーに乗り込むと、笹岡は言った。
「西丸デパートにお願いします」
 え、とあゆみは驚いた。西丸デパートと言えば、東条デパートの商売敵だ。
「笹岡先生、なんでデパートに。お買い物ですか?」
 怪訝な顔をするあゆみに、笹岡は言った。
「大杉さんは、さっき、お客様のことをセレブのマダム、って言ってましたよね」
 外商の愚痴をぶちまけた時のことだ。あゆみは頷く。
「僕は、大杉さんが、セレブのマダムと自分を違う人間のように考えてるように見えました」
「そりゃ、そうですよ。私、庶民中の庶民ですもん」
「でも、同じ人間ですよね」
 いつになく、笹岡の声のトーンが熱い。何か、伝えたい思いがあるようだ。
「はあ…」
「それを、身を持って大杉さんが経験するといいと思うんです」
 タクシーは、西丸デパート前に到着した。閉店まで後二時間弱だ。デパートのエントランスに入りながら、笹岡が言った。
「大杉さんが、一番、セレブっぽいと思う売り場はどこですか」
「婦人服…です」
「じゃあ、五階ですね」
 さっとエレベーターに乗り込んで移動して、五階のフロアにたどり着く。平日の19時とあって、客数はまばらだ。
 しんとした売り場に流れるクラシック音楽。マネキンに着せられた服はハイブランドらしく遠目に見ても、うっすら光沢をはなっている。
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