ある日、マンガ家が落ちていて
 乗客がほとんど乗っていない、地下鉄の車両の中で、あゆみは言った。
「まあ、逃したらタクシーもあるし」
 笹岡は何気なく言った。あゆみは、思い出した。近くにいると忘れてしまうが、笹岡は年収がウン千万の人気漫画家なのだった。住む世界が違うのを、改めて感じた。
 雲の上の人なのに…一緒に、炬燵に入ったり、地下鉄乗ったり。なんだか神様にプレゼントされたような夜だ。
 つい、口元が綻んでしまう。
「どうかしましたか」
 にやけていたのを、笹岡に見られてしまった。あゆみは恥ずかしくなって、何か話題を、と考えた。そして、思いついた。
「あの、普段、忙しくてできなかったことって、何かあります?忙しい方って、思いついた事を実際にやるのって難しいんじゃないかと思って。自宅に帰ったら、笹岡さん、またマンガ漬けの毎日でしょう。せっかくだから今夜、何かやってみるのってどうでしょう」
「やりたくて、できなかった事…?」
 笹岡は、腕を組んで考え始めた。あゆみは、すぐに答えが返ってくると思っていたが、笹岡は熟考していた。あまりにも返答が遅いので、お金があって、何でもできちゃう人には愚問だったかしら、と思ってしまう。
 すると、笹岡が言った。
「あった…あの…ちょっと恥ずかしいんですが」
 恥ずかしそうに、あゆみの顔を見る。え?何かエロいこと?それは考えてなかった!笹岡が、草食系なので安心しきっていた。しまった…と、焦っていたら。
「あの、プリクラ撮ってみたいんです」
「へ?」
 間抜けな声を出してしまう。
「そ、そんな事でいいんですか?」
「いや、やっぱり、いいです。恥ずかしい」
 耳を赤くして、笹岡が照れている。あゆみは、急に笹岡が可愛くなった。
「いいじゃないですか。撮りましょうよ。あれでしょ、ルナちゃん絡みでしょう」
「はい。ルナと相模が、プリクラ撮るシーン、描いてやりたいんです。二人とも大人ですけど、なんか記念になることってしたいんじゃないかなって」
「わかりました。駅近の商店街にゲーセンがあるんです。そこで撮れます。行きましょう」
 あゆみは、笹岡をエスコートするぞ、と張り切った。
 地下鉄を降りて、商店街のアーケードの中を歩く。蛍光灯はあかあかとついているのに、誰もいなくてガラガラだ。軒先は全てシャッターが下りている。たまに深夜営業のカフェやバーがあるくらいだ。
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